埼玉県立歴史資料館研究紀要第23号所収 2001年3月刊
「吉田の楯」について
T はじめに
中世城郭は調査をすればするほど、益々その築城目的や築城者を探る事は難しくなる。これが今の偽ざる心境である。県内の城郭を再調査し、縄張図を書くことが最終段階に入ったこの頃つくづくと思う。調査を進めながらこれまで当たり前のように語られてきた事の中にどうしても理解できない事柄が存在し、その疑問はいま以て払拭できないものが以外に多い。その一つが「吉田の楯」という城郭についてである。
永禄12年(1569)「北条氏邦感状(写)」『武州文書』【新編埼玉県史資料編6文書No584】に
甲州勢、夜中土坂を忍入、阿熊J屯し候を、物見山K早朝見附之、即刻吉田楯駆付、相固候條、感悦之至ニ候、依之、苗字阿佐美之字を、向後朝見之文字ニ書替、誉を可貽子孫ニ候、當座之為賞、太刀一腰遣之候者也、仍如件
永禄十二年七月十一日 氏邦(花押)
朝見伊勢守殿
○コノ文書、検討を要ス。
この城郭については、不明なところが多い。しかし、幸いにも、新編埼玉県史や寄居町史、合角ダム水没地域総合調査報告書下巻人文編等が出版され、史料上も整理されているので、問題提起のつもりで城郭調査で得られた知見を加味しながら先学に導かれつつ整理検討してみたいと思う。
この「吉田之楯」は『新編埼玉県史通史編2』『秩父路の城』等では吉田町大字久長に所在する龍ケ谷城跡とされ、『埼玉の館城跡』『日本城郭全集』にも記されている一般的な見解である。
竜ケ谷城は秩父郡吉田町大字久長1556ほかに所在している山城である。これについては埼玉県が先に実施した『埼玉県中世城館跡調査報告書』にも詳細調査城郭として縄張の実測図が示される著名な城郭である。
この竜ケ谷城跡は秩父市太田の水田地帯から西北に向かい吉田川を渡った対岸に迫る比較的低い竜ケ谷山の山頂にある。竜ケ谷山は藤芝沢と大久保沢に横たわり東南方向に延びる標高300m〜400mの尾根の先端部が若干高まった地点にあり、頂上部標高は347mとなる。城郭は標高330m位〜347mの尾根に縄張りされ、吉田の町を西方眼下に望む。城郭は北側から下って来る細長い尾根が比較的広がりを見せる鞍部手前を堀切り、尾根先端部崖面をさらに堀切って、3郭からなる連郭式に造る。それぞれの郭には企画性が少なく、第2と第3の土塁には「折り」が加えられるが、土塁、空堀の作りは低く企画性がなく乱雑に見える。2の郭は35m×55mと比較的広大であるが、平面造成は行われた様子が見られずやはり企画性がない。北西部で1.5m程切落し、5〜7mの空間を置いて土塁3を置く。一見構堀を意図しているように観察される。土塁の高さは東側2m、西側で2.5m、南端部では低く50〜70p、長さ35m。西端は3の郭で20×40mを測るが、山頂部の平坦をそのまま利用したと見られる郭である。西端は高さ1.5m、長さ40mの土塁5と深さ1.5mの堀切3で直線的に切られる。堀は北側半分が深い。土塁3の北側には空堀らしき物が見られるが、深さが無く明瞭ではない。本郭は南東端の平坦地がそれと言われるが、整形は不十分で、西側を長さ24mの空堀を挟む二重の土塁で守られる。土塁1は堀底からの高さ約4.5〜5mの規模を持って守り、東端は岩石の露出する幅2m程の痩せ尾根を深さ3m程に堀切っている。平坦部は幅25m、長さ40m程あるが、南端が幅10m程高く作られる。従って城としての備えは北西に延び上がっていく尾根筋方面に対して行われていることがわかる。本城については造りが企画的でないことや、築城途中の感が伺われることなどから、未完成の城郭という見解も出されている程不完全さを示す城郭である。城への登り口は西側にあり、別荘地が開発された地点に見られ、折坂で本郭下の空堀1の手前に登り、中段を西に犬走りのように延び、堀切3に繋がる。下りきった地点を山麓に沿って南に回りこむと根古屋で、ここが久長但馬守の屋敷跡と『吉田町史』は言う(久永但馬守については『増補秩父風土記』久永村の項に「久永但馬守の居跡」とあり、あわせて「龍ケ谷城跡、鉢形落城の後民間に下る、阿佐美伊賀守。」とある)。城の位置は吉田川筋の中でも皆野町とは一線を画する所にあり、強いて観察を行えば吉田地域と皆野町日野沢筋に位置する高松城地域との中間にあって、両地域を分ける位置に有る事がわかる。そして、東方7.5kmには用土氏の守城であった皆野町千馬山城(竜ケ谷城)跡が望める。従って、この城は後北条氏北武蔵支配の初期段階で行われた地域支配の勢力バランスを保ちながら、両勢力を牽制、監視する役割を担った用土氏の城であったのだろう。
V 西秩父の歴史的状況
竜ケ谷城跡の所在する西秩父の地域は戦国時代において幾多の合戦が行われた境目の地域であった事が知られている。その最初は北武蔵合戦区分(梅沢2000)の第4期前半段階で天文18年(1549)後半に北条氏康が藤田康邦と協力して神川町御獄城の安保氏と対峙した高松城筋での合戦の頃からであろう。北条氏康勢はこれを撃退していることが知られる。この後上杉景虎(後の謙信)が関東管領としてその実行支配確立のため、前橋市の厩橋城を拠点に大規模な軍事的圧力を高め、西上野から北武蔵西北部への進出にともなう戦乱が勃発する。埼玉では岩付の太田氏、忍の成田氏、深谷の上杉氏、羽生の広田氏らが呼応し、河越城、松山城攻防を中心とした大きな戦乱となり、永禄4年の生山合戦をはじめ、秩父地域では秩父郡内「一乱」(加茂下1992)として注目される軍事的緊張に発展している。このような中で、北武蔵でも猪俣氏、飯塚氏、桜沢氏の他、秩父氏などが上杉氏の軍事的傘下に入り、永禄3年(1560)には大宮合戦が行われ、同4年には高松城立て籠もり等が起こり、反北条の旗が高松城、日尾城、天神山城を中心に各地に掲げられた。北条氏は南図書助に日尾城を攻略させ、続いて天神山城を攻略し、永禄4年12月には高松城明け渡しを命じた氏邦の文書等が知られ、秩父郡内での反乱鎮圧を北条氏政や氏邦が優勢に進めていたことを示している。逸見蔵人や藤田康邦の子、用土(藤田)新左衛門がこの中心的な役割を演じ、用土氏は千馬山城にあって、高松城籠城の秩父衆から人質を預かる重要な役割を担っている。この中で乙千代(氏邦の幼名)は秩父衆にたいして人質を千馬山城に差し出し、用土新左衛門の指示を受け、働けば扶持や加増をすると永禄5年(1562)12月18日付け判物によって約しているのである。
北条氏邦印判状(逸見文書)【新編埼玉県史資料編6文書No327】
「 至于當地進旗間、高松城早々可相渡候、為其令推印判者也、仍如件
酉
十二月三日 印(禄壽應穏)
高松
城衆中 」
乙千代判物(写)【新編埼玉県史資料編6文書No355】
「急度申越候、仍其郡之事、各致談合忠節肝要候、走廻次第知行之儀者、可扶助、委細者、用土南図書助可申候、恐々謹言
正月廿九日 乙千代(花押)
秩父衆中 」
乙千代書状(写)【新編埼玉県史資料編6文書No356】
「急度申越候、其御地番、普請殊御獄筋ヘ節々打廻リ致シ、各相稼ノ由、用土新左衛門被申越候、彌抽忠節付テハ可持扶助候、恐々謹言
四月十七日 乙千代
秩父左衛門尉殿 」
乙千代判物(逸見文書)【新編埼玉県史資料編6文書No359】
「今度高松自檜山罷出候面々、本知行不可有相違候、證人出於千馬山ニ、用土新左衛門尉ニ申合、可走廻、依忠信可加扶持者也、仍如件
十二月十八日 乙千代(花押)
秩父衆 」
以後、秩父谷は鉢形領支配体制の中に組み込まれていくが、氏邦が支配した在地土豪は吉田町の秩父左衛門尉、皆野町三沢の斉藤八右衛門尉、皆野町野巻の逸見蔵人、与八郎、三郎五郎、吉田町上吉田の山口上総守、孫五郎、下総守、両神村薄の出浦左馬助、小四郎がある。
次の軍事的緊張は第4期後半になる。永禄11年(1568)12月に甲相駿3国同盟が破棄され、12年6月に越相同盟が成立に伴う、武田信玄軍の北武蔵の秩父、児玉方面に行われた度重なる侵入で、児玉御獄城合戦、鉢形城攻撃などが行われている。永禄12年〜元亀2年(1571)の武田軍の秩父侵入に関わる緊張は、吉田町周辺の旧家等に伝わる古文書によって知られる。その古文書を年次別に示すと
永禄12年7月7日 在野城上吉田村「山口家文書」【新編埼玉県史資料編6文書No580】
永禄12年7月11日 甲州勢夜中に土坂を忍び入り、「氏邦感状(写)」
【新編埼玉県史資料編6文書No584】
永禄12年7月11日 三山谷江敵相働き候処「出浦家文書」【新編埼玉県史資料編6文書No581】
永禄12年10月27日 去る19日より昨日まで武州秩父郡に在陣し「武田信玄書状」
【新編埼玉県史資料編6文書No601】
永禄13年2月18日 飯田高源院の武田氏高札【新編埼玉県史資料編6文書No634】
元亀2年2月27日 石間谷へ敵動き候処、「山口家文書【新編埼玉県史資料編6文書No681】」
元亀2年7月27日 此度従日尾野伏相触處、「山口文書」【新編埼玉県史資料編6文書No1225】
元亀2年9月15日 今度信玄出張の刻・・榛沢に於いて敵1人討ち取り「吉田文書」
【新編埼玉県史資料編6文書No695】
元亀2年10月1日 武田軍の阿熊郷高札(写)【新編埼玉県史資料編6文書No697】
元亀2年12月3日 今度信玄出張の刻、野伏以下相集め、抽て走り回るの由、「高岸文書」
【新編埼玉県史資料編6文書No710】
元亀2年12月3日 今度信玄出張の刻、郡内において歩兵壹人討ち取り由「武州文書」
【新編埼玉県史資料編6文書No709】
元亀2年12月3日 今度信玄出張の刻、郡内において馬上壹騎討ち落し由「山口文書」
【新編埼玉県史資料編6文書No711】
この緊張は元亀3年1月の越相講和によって一応の安定状態に置かれるが、北武蔵では天正3年に後北条氏の支配が決定的になるまで混乱が続いている。
このほか北条氏は軍事編成を行い、地域の有力土豪を中心に「衆」を編成した。野上足軽衆、小前田衆、荒川衆等の他に、秩父衆、吉田地域の土豪をまとめた上吉田壱騎衆があった。また、鉢形城にあって、三の曲輪が秩父曲輪と称せられるように、吉田の秩父氏を重要な家臣団に位置づけ、その着到等を規定しているが、それによれば、秩父孫二郎を中心とする「秩父衆」は、139人の大軍団編成であったことが知られる。秩父衆は吉田町では秩父孫二郎(29人)、下吉田の中野源五郎、引間弾正、石間土の石間土源五郎、彦久保の彦窪氏、女部田の福田大和守、皆野町金沢の四方田雅楽之助、小鹿野町飯田の猪大炊助、皆野町大浜の大浜伊予守、新八郎、皆野町野巻の逸見三郎五郎などがいる。又、上吉田壱騎衆は山口、小河、宮前の各氏を中心とし、農民を歩衆に加えた上郷の地縁結合体であったと言う。
W まとめ
このような状況の中で竜ケ谷城跡は築城されたものであろうが、築城の記録など一切が存在しない。しかし、冒頭にも記したように『吉田町史』等は久長但馬守が城主と伝えているが、『新編武蔵風土記稿』にはこの城の記載が無い。残された史料では中世戦国期の阿熊は永禄6年に氏邦によて用土新左衛門に旧領のまま安堵【新編埼玉県史資料編6文書No370】され、永禄8年(1565)には氏邦によって用土新六郎に久長の天徳寺門前より出す船役一艘分が免除されている【新編埼玉県史資料編6文書No423】ので、永禄頃は用土氏の領地であった事は知られる。一方、郡内一乱以後、吉田地域は永禄4年に乙千代(氏邦幼名)によって本知行が安堵され氏邦の家臣となった秩父氏の本知行の地であったところである。秩父氏については加茂下によって研究が示されているが、後に鉢形家臣団のなかで有力な勢力を形成し、秩父孫二郎と従者29人、同心衆18人からなり、総勢139人からなる一団である。従って、西秩父の吉田を中心とする地域では秩父氏を頭領とする秩父衆と用土氏の領主の存在が確認されるが【新編埼玉県史資料編6文書No355、356、359】に見られるとおり、用土氏の存在はこれらの地域の土豪衆を統率・牽制していく役割を担った結果であったと考えられよう。しかも、鈴木宏美(鈴木1986)によれば、永禄7年以降には用土氏が氏邦支配体制から排除された節が指摘されており、永禄年代後半には秩父氏は北条氏邦体制の中でその地位を確固たるものに高めていったと考えられる。秩父氏は鉢形城にあって秩父曲輪(3の曲輪)の物主であり、天正10年(1582)の氏邦印判状では、率いる秩父衆は馬上33騎、弓21張、鑓63本、小籏6本、鉄炮13挺の装備を持ち【新編埼玉県史資料編6文書No1109】、天正14年(1586)の氏邦定書【新編埼玉県史資料編6文書No1327】によって知られるとおり、平時は鉢形城秩父曲輪174間の維持管理を分担していている有力家臣団である。秩父氏本知行地の在地館が吉田の楯であった可能性が高い。いずれにしても「吉田之楯」は在地領主の館として地域支配の中心的な役割を担っていた城郭であったと考えられるが、その位置については根拠が明確にならない。ちなみに「小田原北条時代の秩父」を著した井上幸治は昭和9年の『埼玉史談第6巻第1号』の中では「吉田の盾は吉田(吉田町ならん歟)の屯所」としか記していない。昭和初期段階では竜ケ谷城を「吉田の楯」とは言っていないのだろう。管見に触れたものの中では竜ケ谷城跡を吉田の楯とした根拠は見あたらないが、出典を調べて行くと昭和42年(1967)発行の『日本城郭全集』(小杉保治分担執筆)に記されるのが初現である。当時、地元の識者の間でいつ頃か竜ケ谷城を吉田の楯と称するようになったのかも知れない。当時の記録では「吉田の楯」とした根拠に冒頭掲げた文書が上げられている。これは、『増補秩父風土記』に「龍ケ谷城跡、鉢形落城の後民間に下る、阿佐美伊賀守。」とあり、日本城郭全集で根拠と記した文書は阿佐美伊勢守が敵を見つけ、吉田の楯に駆け付け働いたということを示しているにすぎない。このように考えてくると、竜ケ谷城跡が「吉田の楯」とする明確な根拠は存在しないと考えて良いだろう。
第2図に示すとおり、吉田地域の城郭は秩父氏館跡と小暮城跡を除いて総て山城であり、規模では日尾城跡、竜ケ谷城跡と比丘尼城跡、女部田城跡、寺山砦跡に2分されるが、いづれもその規模は小さく、縄張りも極めて単純である(梅沢2001)。これらは、
女部田城に比定される天正8年(1580)の山口家文書【新編埼玉県史資料編6文書No1027】に
「番衆十人ツヽ申付候、此内わらハヘなと参候ハ丶諏訪部所江申越、いかにも人改をもいたすへく候、又、かミ小旗をもいたし、廿本も卅本も可立置候、能々念を遣、可走廻者也。仍如件、
辰三月二十二日 印判(翕邦悒福)
山口下総守殿
各衆中
山川殿
三五郎殿 」
で知られるように、物見を主体とした番城であったものであろう。これらの中で用土氏がすでに没落したと言われる元亀2年(1571)頃には、日尾城では【新編埼玉県史資料編6文書No710、711、1225】に見られるとおり、諏訪部氏が上吉田地域を後北条の奉行人として土豪衆の動静監視を担っている。しかし、後北条氏奉行人の諏訪部氏在城の日尾城とはいえ、地利を得てはいるものの、縄張り的には優れたところは見られない。これらはいづれも地域支配の中心と成るべき構造を持っていないといえよう。そして、これらの城郭の内、日尾城は倉尾谷、女部田城は小川谷、比丘尼城は石間谷口を押さえ、上信国境からの侵入に備えていることが知られる。一方、竜ケ谷城は位置的に見てもその役割が不明で、先に示した目的のために築城されたと考えることができる。
秩父氏館跡は下吉田の宿を見下ろす高さ23mの段丘崖上に存在した事が知られる城郭であるが、『新編武蔵風土記稿』以来、秩父牧の別当秩父武綱など5代にわたる居館として考証されてきた事もあって、戦国時代の秩父氏との関わりについては殆ど検討される事はなかった。『秩父路の古城址』では中田氏がやはり秩父武綱等5代の館跡として考証し、土塁と堀切の存在を指摘したが、秩父氏館跡と伝えられる吉田小学校敷地内には館跡等の遺構は全く存在していなかったことが旧地形を知る古老の調査で判明した(梅沢2001)。古記録を見ると
○『新編武蔵風土記稿』に「古城址 小名町にあり、秩父十郎武綱の城跡と云今八幡社あり、」
○『武藏演路』に「八幡宮 吉田町鎮守 畠山重忠建立 此鶴ケ窪と云ハ秩父十郎武綱居城故」
○『秩父志』に「此村鳥方ノ城蹟ト伝ルハ、吉田八幡宮ノ社地ニテ、古湟の形二重ニ残リテ秩父 氏族ノ居蹟ト云フ」
○『武藏国郡村誌』に「古城墟 東西百卅間南北二百間村の中央にあり八幡山と称し、若宮八幡 社を勧請す秩父十郎武綱の城址なりと口碑に伝ふ東は吉田川を臨み八丈余の石階あり西は空濠 の跡を存し城坂と称す南は十丈余の濠を存す北は椋神社と吉田川を隔てて相対し縫殿坂と称す 中央に古井あり、八幡井と称す」
等と記載され、八幡社の所在地であった小学校のある台地上に秩父武綱の居城があったことを伝える。城地は明治34年の削平埋立てによる学校建設によって破壊されたため、遺構の存否を確認することはできなくなってしまったのが現実である。
吉田小学校の敷地は現在、東西約140m、南北約150(100)m、面積1.4ha程の規模を誇る広大な所であるが、明治34年の削平前は学校校舎から北は斜面地で平担部は0.7haほどの規模であったらしい。しかし、八幡神社の周りに古湟が存在したらしい記録のみで、古井戸を校庭に埋没保存している他は館跡の実態がわからない。いずれにしても広大な面積を有する館跡の存在が想定される所である。この地点は吉田川の屈曲点に有り、阿熊の谷正面に位置している(第1図)。秩父氏を頭領とするの秩父衆の知行地は永禄5年12月18日に乙千代より西秩父の本知行が安堵されている【新編埼玉県史資料編6文書No360】が、加茂下は秩父氏の本知行地を阿熊及び、吉田地域としている。秩父衆の本拠地の考察からは当を得たものといえるだろう。しかも、阿熊谷の彦久保は秩父孫二郎が鉢形城落城後帰農して住した(『新編武蔵風土記稿』阿熊村の項)ところで、子孫は彦久保氏を名乗り『彦久保系図』、甲冑、古文書など数々の資料を伝えている。
従って、吉田の楯とされた所は文書発行年代を考慮に入れると、秩父氏の本知行地に置かれた在地館と見て差し支えなく、その中心に広大な広がりを持って存在し、『武藏志』に「古城アリ葛原親皇七代秩父十郎武綱是ニ居 代々秩父左衛門尉 同孫治郎ニ至テ 天正十八年鉢形ニ籠 北条氏邦トトモニ禄ヲ失ヒ廃城鶴ケ窪ト云山城ナリ」(福島東雄著、享和2年以前の編纂)と記される「秩父氏館跡」を比定しておきたい。
引用・参考文献
加茂下仁ほか1982『長尾景春と熊倉城』荒川村郷土研究会
加茂下仁1992「中世末期の秩父ー日尾・上吉田の山城を起点としてー」『合角ダム水没地域総合調 査報告書下巻人文編【歴史 石造物 民俗】』
加茂下仁ほか1994『秩父に残る戦国期の甲冑についてー戦国期の土豪の実像を求めてー』
井上幸治1934「小田原北条時代における秩父(一)〜(三)」『埼玉史談第6巻第1号〜第3号』
井上幸治1935「小田原北条時代における秩父(四)」『埼玉史談第6巻第5号』
稲村担元1965「増補秩父風土記」(文政癸未夏之写八木忠譲蔵)『埼玉叢書第2巻』国書刊行会
埼玉県1980『新編埼玉県史資料編6 中世2 古文書2』
埼玉県1988『新編埼玉県史通史編2 中世』
鈴木宏美1986「第三編第一章第三節」『寄居町史通史編』寄居町教育委員会
中田正光1989『秩父路の古城址』有峰書店
埼玉県立歴史資料館編1988『埼玉の中世城館跡』
吉田町教育委員会編1982『吉田町史』
埼玉県教育委員会1968『埼玉の館城跡』
竹村雅夫ほか1967『日本城郭全集第5巻』人物往来社。竜ケ谷城跡の項執筆者小松は小杉(当時 吉田町文化財保護委員会委員長)の誤りであろう。
梅沢太久夫2000「北武蔵の中世城郭について」『埼玉考古第35号』埼玉考古学会