横瀬根古屋城跡
 
所在地  秩父郡横瀬町横瀬字根古屋7915
歴 史 元亀3年(1572)氏邦は朝見伊賀守に対して横瀬の地を宛う。これは上杉勢の秩父侵攻に伴う備えからで、押さえとして根古屋城へ差し遣わすというものである。そして、朝見氏は東を小丸坂上、西は坂氷の上、南は産川沿い、北は山田村境を範囲とする地をあてがわれた。そして、もう1通の古文書はこれに譜代の家臣、渡辺監物を指し添えると記される。このほか、根古屋城には関東管領上杉憲政が天文年中に落ちのびてきてしばらく居城(『新編武蔵風土記稿』)ともつたえる。
遺 構 城跡は大きく分けて3地点に造られる。
居館跡と言われる郭は根古屋集落の直ぐ裏手の標高310mの尾根上の造られるもので、西郭と仮称した。尾根の平坦部を削平し、2段の郭を設けている。そして、西郭下9〜10mの南西斜面には本城唯一の特色である大規模な構堀が腰郭とセットになって160mにわたって築かれている。腰郭の規模は63m、奥行き12mでその東に続く構堀は下幅2m、上幅4〜5mで堀底からの比高1.5m、上幅4mの土塁をおいて「折」を持っておかれるが、間に幅5mほどの小口を造る。これは、下の根古屋から登る通路として置かれる小口で、このまま、折坂で西郭に通じている。小口部分の堀と背後の城壁は約4mほど突出し、出桝形となる。空堀は都合4つの部分に造られ、堀底の深さや、幅も変化している。第1の郭は先の西側からの小口と東端部にも桝形に近い構造を持つ小口を置く。構造的にはこの東側の小口が大手とも言うべき正面の小口となるのだろう。小口は高さ1.5m程の土塁に守られるが、この土塁も全周していない。第1の郭は奥行き26m、長さ65m程の空間であるが、中央部が窪む形を示し、必ずしも平坦ではない。第2の郭は尾根を奥行き26m、長さ42m程に平坦に整形しているが、山頂へ上がる斜面部との境は明瞭でない。そして、この下1.2mに第1の郭からのびる平坦部があり、西端部が出桝状に突出し、通路が置かれる。
 居館跡東南端部から山頂へ連なる尾根筋になるが、この尾根には途中2カ所に堀切が置かれる。下段の堀切は浅いもので、背後を2.5mきりおとし、2m程の段に造るが、よく観察すると幅1m位で掘り窪めていることがわかる程度のもので、上段の堀切は1.5m程掘り窪める小規模なものである。尾根は狭くこれ以上の施設は見られないが、南側が吉沢石灰工業株式会社の採石場になり、稜線まで、崩落がはいったり、削平されていたりしているため、詳細は明瞭にされないところが多い。このことは、山頂部南斜面における3段の段築状遺構についても同様で、明らかに小口形成が見られ、1の郭下の小口郭からの通路も確認されることから城郭遺構と見た部分にも言えることである。
 1の郭は山頂直下に置かれる。幅5〜10m、長さ35m程の細長い郭で斜面部を平坦に削平している。通路は北端から桝形状に巻いて下り、小規模な腰郭を置いて、堀切に守られた小口郭に至る。これは腰郭であるが、端部が土橋を置く堀切によって守られ、前部は自然転石を取り込んで造られた見かけ上の桝形になる。2の郭は細長い尾根を利用して造った郭で幅20m〜23m、長さ90m程になる。両サイドに腰郭を置き、竪堀が1つ配される他には施設は造られない。東真下に国道299号線となっている名栗道があり、往来が丸見えである。
 根古屋城最後の遺構はこの2の郭がのる尾根の裾部に造られる東郭である。勾配の緩い斜面を僅かに切り落とし腰郭を配置すると共に、山麓のテラス部に台形をした30m(12m)奥行き25m程の 郭をおく。郭下は8m程下がってテラスを取り囲むように帯郭が周り、正面は土塁を置き、構堀状に造られる。郭内は完全な平坦では無い。郭の東側谷部は大きく掘り窪められ、中央に経2m程の穴があけられている。そして、窪地内には穴部から水が流れ出している痕跡が確認され、ここが、井戸郭であった可能性を示していた。
 本城の造りの概要は以上の通りであるが、図からも読みとれるように縄張り、構造から築城の違いが読みとれる。西郭と東郭はいずれも山麓に築かれる郭であるが、西郭が構堀を大規模に置き、防御を完全に構えているのに対して、東郭が極めて貧弱な備えとなっていることであろう。築城第1段階は東郭を居館としておき、その上部の山頂に詰城を備えた城郭であったものに、いずれかの段階に新たに居館機能を完備した郭を築いたものだろうか。ただ、西郭と山頂郭の技術的な時間差は見られないと思うが。東郭の違和感は払拭できない。


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