山崎城
所在地 比企郡滑川町大字山田字山崎1470
遺 構 主たる部分は国営武藏丘陵森林公園内に有る。谷城と谷を挟んで西側にあり、東西に並ぶ。丘陵東斜面部に作られているが、この城郭は寺沼を中心とする斜面の谷部を空堀と土塁が取り囲むという特殊な形を示す。土塁は斜面下の丘陵裾部には見られない。
丘陵尾根部には山田城から延びる鎌倉街道跡が通過し、それに沿って空堀が置かれるが、この地点は丁度斜面転換部にあたっている。
周囲に配置される堀は上幅3.5〜4m、下幅1〜1.8m、深さ1.5〜2mの規模を有し、内側に盛り上げられる土塁は内部高約1.2m程となる。西側は斜面中央部付近で直角に折れ、寺沼に向かって直に下り、突き当たっている。この部分は深さが約2m程になる。北斜面側では谷津入り口に近いところに郭が築かれる。25m×35m程の台形を示し、外部に深さ2mの空堀を巡らすが、西側には高さ1.5m程の土塁があるが、これは出桝形土塁となっている。斜面下段の東側は谷口となるが、これを閉鎖する施設は現在見られない。平面積で約2町歩の規模を有している。北側の空堀はさらに北斜面に下るが、これは延長上のつながりが不明である。谷口には廃寺跡が所在するが、丘陵を降りた平坦部の状況はつかめないがそのまま、東の河川まで延びると考えると、さらに谷津部の約2.5倍となる約5町歩の水田を区画することになり、対岸の谷城跡ののる丘陵部に接する。
谷津を取り囲むという極めて異例な遺構である。この類例に関しては橋口定志氏の研究成果によって、所沢市椿峰遺跡、児玉町真鏡寺遺跡、八王子市宇津木台遺跡に類例があり、この形は中世的な領域設定のあり方と捉えられ、農民層から武士に至る在地社会に根をおろした人々のとる一般的なあり方であった可能性が高いという。そしてこれは「境堀」として「屋敷」の単位領域を区画するものであったと考えられるという。これによれば年代は中世初期に遡る可能性が高い。
参考文献
橋口定志1990「中世東国の居館とその周辺ー南関東におけるいくつかの発掘調査事例からー」『日本史研究330号』

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