山田城
所在地 比企郡滑川村大字下山田字城山
年代 (伝)戦国時代
規模110×140m
立地 標高62m、比高23m、城跡は松山城西北約6kmの地点にあり、滑川に南面する低い丘陵上に位置している。北から南に延びる細長い丘陵で、城の存在した地点は舌状に突出する丘陵の先端部に当たる。南方の滑川および市の川流域を中心として180度の展望が可能である。城については土地の伝承のみで『新編武蔵国風土記稿』をはじめとして記録にはまったく登場しない。したがって城の歴史は不詳であるが、土地の伝承によれぱ「忍城主成田氏の臣賛田氏一族の城であった」といい、「戦国時代には松山城の出城」であったとの伝えもある。城の平面形は長径130m、短径10.5m位の楕円に近い縄張りを示し、一つの大きな郭を土塁および空堀によって防備するという単純な形をしている。外周を固める空堀は直線的な構造になっており、「折」などの変化は加えられていない。空堀の内側には高2mほどの土塁が一周している。空堀の外側には土塁はなく、掘り上げ土が盛り上げられて土塁状に見える部分もあるが、基本的には土塁の構築は無買ったと言えよう。土塁内部は約50pほど窪められ、見かけ上の高まりを創出している。所謂掘り残し土塁である。郭の規模は長径10.5m、短径8mの規模を測り、郭内は中心部に向かって約2m程高く、緩やかな斜面となる。基本的には丸みを持った丘陵の頂上部直下を鉢巻き状に空堀を回した城郭であったとみられる。一見何の変化もないような本城にも大きな特色がある。それは郭内に認められる土塁と空堀であって、竹村雅夫氏は「土塁・空堀が散在し、当時は城内をいくつかに仕切っていたもの」と指摘している。小口は北東部に有り、鎌倉街道伝承地に近接する部分で、通路を2折りし、桝形に造られる坂小口となる。通路の幅は2m位である。このほか、東辺中央部に街道跡から直線的に通路が延びる坂小口状のものがあるが、堀は切れ土橋状にはなっているが、小口であったか明確でない。郭内部には中を4分割するように低い土塁と空堀が置かれる、この区切りも防御意図は捉えられない小規模なもので、構築意図も捉えられないものである。内部の西側に偏ってある堀は土塁上面からの深さ1.8m位となる。この城郭については、一時的な陣城という見解も出されているが、城郭の形が未だ定まらない古式の城郭とも考えられ、本当に性格のわからない城郭といえよう。
参考文献
