所沢根古屋城跡
所在地 所沢市上山口字勝楽寺
歴 史 勝楽寺一帯は武蔵七党山口氏の拠点となる地域であるが、なかでも山口湖に水没した勝楽寺は武蔵武士と中世寺院のあり方を知りうる貴重な遺跡であったのではないだろうか。詳細は湖底にあり、つまびらかにできないのは残念である。城主等一切を明らかにしない。『所沢市史中世史料編』では、「山口系図」に山口小太郎高忠が応永(1394〜1428)の頃築城と伝えているという。
遺 構 狭山丘陵の一角、標高30mの丘陵上に所在する。現在は狭山湖の北岸に在って直下を湖水に洗われているが、城郭としての旧状をよくとどめている。
 城郭は主郭が折りを持つ空堀によって区切られる複郭式の縄張りで、さらに大きく楕円形の構堀を構成する空堀と土塁によって周囲を囲まれ、南北130m、東西65mの規模を有する二重土塁囲郭の形態を示す。構堀は丘陵肩部に構築したもので、外側の土塁は小川町中城跡のように空堀構築によって相対的に形成されるものである。所沢市教委の市史編纂調査で行われた測量調査データー(「所沢市史 史料編中世」)を参考にすると。本郭の規模は17×25mくらいで、土塁は高さ1.5m、幅2m〜4mで廻るが、全体の形は長方形の郭を中央部を、深さ1〜3m、上幅5〜7mのクランク状の堀切で2分したとみえよう。本郭には北東部、南西部、南部東寄りに小口が造られる。それぞれ木橋を想定できるが、南西部の小口は桝形に造られるものの対岸の土塁とは約4m程の比高差があり、木橋が架けられたかどうかも判らない。南側の2の郭は22×45m 、周囲に上幅約2m、高さ1〜2mの土塁を廻らしている。本郭、2の郭を囲画する空堀は上幅10〜20m、下幅3〜5m、深さ内側6〜8m、外側の見かけ上の土塁との比高は1〜3m位を測る。この土塁と空堀はに2の郭南側中央で切れ、間口約2mの坂小口が形成され、幅1mの土橋が前面に置かれる。ここからはそのまま勝楽寺方面へ下りたのだろう。外部の郭は北側の丘陵尾根続きを掘り切って設けられた桝形小口を備える小さな西郭と、東側へ延びる幅広の丘陵括れ部を活かした東郭と外郭がある。本郭に対して両翼の様に配されるが、東郭は周囲に高さ1m程の土塁を廻らし、30m×15m程の楕円形に造られた郭である。外郭へへの小口は喰い違いに造られる。また、西南部から本郭への木橋を想定できる地点が有り、ここは馬出郭であったと考えられる場所である。また、東郭の外側には外郭が置かれているが大きな造成は無く、自然に近い形で要所のみが整形されたものといえよう。東西65m、南北65mの規模を有する。西郭と本郭の間に置かれる竪堀は上幅約20m、深さ約4mと大きく、直に切り込まれている。西郭は幅16m、長さ30mほどの規模を有し、北端に桝形小口が造られる。北側には上幅3mと7mほどの竪堀が通路を狭めるように東西に喰い違って置かれる。また、西の郭から東郭へ延びる外側の見かけ上の土塁上は平坦で、東郭への通路であったと想定できるかもしれない。東郭手前で堀切により遮断される。
 山口氏系図に山口小太郎高忠が応永(1394〜1428)の頃築城の記録が知られるというが、所沢市史では占地、形態、防御施設のあり方から戦国期と推定している。根古屋城の構築年代を想定する資料は無いが、北武蔵ではこの応永の頃という年代観を示す城郭は阿保境館跡、安保館跡、庁鼻和城跡等「二重囲画方形館タイプ」であり、単郭で二重土塁の中城は15世紀後半の年代を示す。しかし、城郭の構造的な観点で年代を見ると、、このような大規模な構堀を丘陵全体に廻らし、クランク状の折歪、桝形小口、馬出郭などが存在する事を考えてみると、現存する遺構は、やはり後北条氏段階に入る築城と考えた方が良いだろう。
案 内 狭山湖北岸にあり、東京都水道局管理地内のため自由見学はできない。
参考文献 福島正義ほか1981『所沢市史中世史料』所沢市
調査修正 2009年12月15日