平成20年6月20日   野外歴史教室  「大蔵合戦の史跡を訪ねる」  
平成20年6月20日埼玉県立嵐山史跡の博物館主催の野外歴史教室「大蔵合 戦の史跡を訪ねる」にサポーターとして7名参加しました。  今回の散策は博物館で発行した「歩いて廻る比企の中世・再発見」の小冊に 書かれた道順によりなされました。  どんより曇ったなか、10時に博物館を出発、向徳寺へと向かいました。鎌倉 時代に創建された時宗の寺で、その後廃寺になっていたのを江戸時代に再建さ れたもので、本尊は児玉党小代氏の本拠で作られた阿弥陀如来両脇時像で,境内 には32基もの武蔵型板碑が確認されています。  ついで大蔵にある源義賢の墓を訪ねました。高さ1.3mの大きな五輪塔で鎌 倉時後期の様式で義賢の墓ではないとの説もあります。最近近くに源氏三代の 供養塔が建立されました。近くの坂上の田村麿の伝説がある縁切り橋まで足を 伸ばし大蔵館跡へと向かいました。館跡は稲荷神社、八坂神社となっており、 神社をとりまく土塁が往時を語ります。大蔵館は秩父重隆、源義賢の館と伝え らていましたが、発掘調査の結果出土した遺構や、出土品の多くは鎌倉、室町 時代のものと判明しました。ちなみに義賢の館跡と称するものが関東近辺で数 箇所伝えられています。  次は行司免遺跡です。この遺跡は縄文中期の大規模集落、古墳時代の集落と 墓域、中世の集落からなる複合遺跡です。中世に市場のような集落が作られ多 くの技能集団の存在が考えられています。見つかった遺跡のうち井戸跡が保存 されていますが、周りがとうもろこし畑になって葉の中に埋没していました。  近くの海洋センターで休憩、昼食をとり、1時ごろ出発。都幾川の堤に植え られた桜並木を眺めながら鎌形八幡社に向かいます。鎌形八幡は8世紀末に勧 請されたと伝えられ、木曽義仲産湯の清水の伝説があり、いまも清水が湧き出 ています。中世には神仏習合の宗教世界を展開し信仰を集め、貞和4年(1348) 銘の懸佛が知られています。  都幾川沿いの道を歩き班渓寺へ。同寺は義仲の妻で清水義高の母である山吹 姫が、非業の最期を遂げた夫と子供の菩提を弔うため創建したと伝えられ、境 内には山吹姫の墓と伝えられる五輪の供養塔があります。かっては埋もれた小 さな供養塔でしたが、今は周りをコンクリートで固めてあり少し興ざめでした。  今回の散策は平沢寺は訪れないことになり、ここからところどころ庚申塔や 石仏のたつ旧道を辿って史跡の博物館に帰りました。帰り着くと待っていたか のように雨が落ちてきました。


















向徳寺山門                                向徳寺板碑


行司免遺跡現況                            鎌形八幡神社(右手水屋が木曽義仲産湯の清水)   

山吹姫供養塔


 平成20年12月2日(火)         唐沢山城を訪ねて        
栃木県佐野市にある唐沢山城を訪れ、佐野市  教育委員会の出居さんに現在発掘作業が行われている根古屋を案内してもら  いました。根古屋は山の両側が道にせり出して出来た台地で道からの比高が 35mある広大な敷地で、発掘現場はブルーシートで覆われ見学できなかったが、石積が見つかった所を見せてもらいました。石は約2m幅の道?の両側にあり、唐沢神社の二の丸から本丸にあがるところにある石積みに囲まれた壇のようにも見え、石段あるいは根古屋に上がる道のようにも見えました。  根古屋は台地端部が版築工法で着き固められて入るようで、ここは有力家臣の屋敷があったのではないかと考えられているとか。ついで山の麓に広がって竹やぶの中に残る堀切や郭と思える平場ののこる別の根古屋を案内してもらいました。広大な藪の中に十数人の武士の名や屋敷が確認されており、更に調査が進めばもっと多くのことが発見されると考えられているとのことでした。 ここで出居さんと別れ我々は唐沢山山上の城跡を訪れました。唐沢山城  は藤原秀郷以頼佐野氏代々の城で戦国時代度々戦火に見舞われたが、上杉謙信も落とせなかった中世を代表する城である。当時の城主佐野昌綱はある時は北条に味方し、あるときは上杉の与力になる武将で謙信もあえて武力で攻  め落とさなかったかもしれない。山上のレストハウスで休憩後見学を開始したが、あいにく雨となり山が  霧に覆われ山上からの眺めが遮られた。戦国時代の城も霧に包まれしばしば  視界を遮られたことであろう。城の縄張りは多くの説明書があるので省略。枡形を入ったところにある天狗岩は物見櫓といわれ、かの江戸城の火災を望み見たため廃城の原因となったいわくつきの場所であるがあいにくの雨  にて視界は望めなかった。築城以来水が枯れたことのがない大炊井をすぎ、神社脇帯郭の堀道を歩き三の郭、二の郭へと進む。二の郭は石垣の枡形小口を備え、郭全体が石垣  で築かれている。二の郭に続く本郭は高さ約20mの石垣が築かれている。表御殿跡の南斜面の石垣は石を横一列に積み上げた古い形であるのに対し、本  郭に上がる石段の脇に積まれた石は穴太衆の積んだ石垣と思われ、二つの石  垣は違いが見られた。城は慶長年間にも改造されているので近世城郭への移行の過程で時代差がでたと思われる。本郭は明治時代唐沢神社となり、南は堀切で南城と物見台に区画されその先は崖となっている。神社脇から車井戸の方へ歩き金の丸跡、姫御殿跡、北城跡さらに先にある堀切等を見学し城を  一巡した。城の周りは深い谷になっており神社入り口の帯郭方面からしか攻  められぬ難攻不落の城であったとおもわれる。山上の郭郡、山麓の根古屋、さらに麓を流れる秋山川までの外郭を含めると唐沢山城がいかに壮大な城であるかが分かった。折からの雨に紅葉谷や山中のあちらこちらに見ごろとなった赤や黄色の  紅葉がぬれ紅葉となり輝き、城と紅葉を堪能した一日でした。  


根古屋郭現況                            根古屋郭空堀

大炊井                                 3の郭堀切

本郭虎口                               本郭石垣

  平成20年12月19日     野外歴史教室 「鎌倉御家人ゆかりの地を訪ねる」

 平成20年12月19日嵐山史跡の博物館主催の歴史教室にサポートとして7名参 加しました。冷たい風の中9:30に高坂駅に集合。参加者は49名の多きに達し、 10:00に駅前出発。まず香林寺へ。香林寺は曹洞宗高済寺の末寺。本尊は阿弥 陀如来。観音堂に千手観音を安置。境内には阿弥陀如来の梵字を掘り込んだ 板碑、心字座板碑、仁治2年(1241)銘の阿弥陀一尊板碑、60㎝の如来の立像を 浮き彫りにした阿弥陀一尊板碑四基の板碑があります。  次に宮鼻八幡神社へ。創建は清和天皇の貞観年間と伝える。境内には周囲18 m樹齢1000年を経た欅の大木あり。今も行われている獅子舞は江戸初期に発祥 したものという。  宮鼻地区は湧き水が豊富で今も村内に数箇所確認され、青蓮寺への脇道にも 湧き水のたまり池があり、傍らに蛇が巻きついた剣を持つ水神様の祠が立って いる。青蓮寺は下青鳥浄光寺の末寺で本尊は阿弥陀如来。同寺は小代氏の館跡 である。小代氏は児玉党の武士で入西郡小代郷に定着し地名を苗字にした鎌倉 の御家人の一人。小代氏の残した小代行平譲り状は当時の御家人の所領につい ての貴重な資料である。境内には小代重俊の仁徳を慕って建てられた有名な弘安四年銘板碑ある。地続きの御霊神社へ。この地は水田との比高5~6mの高坂 台地上にあり、悪源太義平の岡の屋敷があったところで、この屋敷はその後小 代氏が居住し館とした。今この地に義平を祀る御霊神社の祠あり。神社裏側に ポットホールのある板碑が立っている。  正代公民館で昼食休憩。  午後はまず新井家の板碑へ。もと畑の中に立っていたが、今は新井家屋敷内 に集められ屋根つきの小屋に収納され板碑の破壊が軽減されている。 板碑は阿弥陀一尊板碑、阿弥陀三尊板碑、仁治二年銘板碑等があるが現在一基 は嵐山史跡の博物館で展示されている。  ついで世明寿寺へ。高済寺の末寺で東崎山と称す。本尊は釈迦如来。境内に は千手観音を祀る観音堂がある。寺は川島から来る方向にあり、かって山門は 川島方面の東向きに立っていた。住職の計らいで観音堂内部の千手観音像、二 十八部衆像を拝観。厨子や観音像は傷みが激しく近々修理を行うとか。境内に も一基の板碑が立っている。阿弥陀一尊種子板碑である。  最後の高済寺に向かう。途中の台地上から住宅公団の高坂造成地を望む。広 大な敷地内に弥生時代から平安時代にわたる反町遺跡や城敷遺跡が造成の過程 で発掘された。発掘は道路になる部分のみ行われ大部分は未発掘のままで、道 路部の発掘箇所もすでに埋め戻され今後建物が建てられる時に新たな発掘調査 がされる予定とか。台地を降り造成地に造られた道を進み再び台地に上がり小 さな古墳が散在する広場に至る。この地の発掘で中世遺構が発見され、多量の カワラケ、陶磁器類が出土、カワラケの時期は13世紀初頭~14世紀のもので、 建物跡や堀跡が検出され、14世紀前半に滅亡した高坂氏の居館跡ではないかと 考えられている高坂弐番町遺跡である。  高済寺山門に着く。曹洞宗。無量寿寺の末寺。大渓山と号す。本尊は釈迦如来 天正19年創立。開基は斉藤助右衛門と言う人で境内に斉藤氏一族の墓所がある。 当寺は高坂氏の館跡と言われていたが、永禄年間の北条氏の松山城攻めの折の陣 城と考えられている。寺の西側に高さ約5m、長さ100mの土塁が残り、西側南側 に堀跡が残る。後には北条の家臣高坂刑部の屋敷となりその後寺となった。土塁 西側には江戸時代当寺を菩提寺とした派手すきな旗本奴加賀爪氏の一万石の旗本 にしては立派な墓所があり県の史跡に指定されている。墓所に上がる小道に小さ な板碑がひっそりと立っていた。  朝吹いた冷たい北風もおさまり小春日和の中を高坂駅に向かい流れ解散となっ た。

香林寺                                 香林寺板碑群

青蓮寺                                 青蓮寺小代重俊ゆかりの弘安四年銘板碑


御霊神社                                          世明寿寺本尊千手観音立像

高済寺本堂                             高坂館跡土塁

  平成21年3月13日     野外歴史教室  「大田道灌ゆかりの地を歩く」

 平成21年3月13日嵐山史跡の博物館主催の野外歴史教室に6名サポートと して参加しました。本日の探訪は35名の参加があり、まづ、バスで龍穏寺 へ向かいました。車中から今を盛りの梅の花を愛でつつ上大満に到着、ここ から越辺川の川岸に植えられた紅梅を眺めながら川沿いに登っていくと趣の ある二階建ての山門が見え、龍穏寺である。この寺は永享2年(1430 )上杉持朝により開基されたのを文明4年(1472)大田道真、道潅父子が中興し 曹洞宗の大寺院に改宗。江戸時代には「関三刹」に任じられ総本山永平寺の 住職を選任し、僧録司として全国1万5千の曹洞宗の寺を統括し10万石の格式 を誇っていましたが宝暦2年(1752)火災で消滅し、天保12年再建されたが大 正2年(1913)山門、経蔵、熊野神社を残して再度消失したため、大寺なのに境 内はそれほど広くはありません。裏手の山中に道真、道潅父子の墓が在ります。道潅は伊勢原市の糟谷館で殺害されたので近の洞昌院、大慈 院に葬られたと考えられ、ここには墓というより供養塔があったと思われます。  ここを出て裏手の山道を進むと道潅生誕の地という三芝(山枝)庵跡に至る。 今は整備中で中に入れなかったが庵があった場所から土器、かわらけ、銭が見 つかり、ここに屋敷があったことが分かったそうです。ここから北向かいの山麓の平地は戸神といい、 坊地という小字があり寺院跡が発見され、この地が龍穏寺ゆかりの場所ではないかと も考えられています。  しばらく歩きアジサイ街道に出て越生自然休養センターに進み、昼食を兼ね て休憩。  午後は大田道真隠遁の地、建康寺へ。おりから里には梅の花が咲き誇り、梅の 香が漂う中、越辺川に架かる小さな橋に行き着きます。名を「道潅橋」と言い ます。この一帯には「陣屋」「馬場」などの館に関する小字が残っています。 建康寺は小さな山寺に過ぎませんが、かって道真の隠遁の小杉館があったところと伝えています。文明18 年(1486)6月道潅は万里集九と共にこの地を訪れ父と最後の対面をしました が、同年7月道潅は主君に殺害され、万里集九は一遍の漢詩を残しています。
     郭公稀 縦有千声尚合稀 況今一度隔枝飛
         誰知残暑似初夏 細雨山中聴未帰
道潅が非業の死を遂げたのを悼み父道真が道潅の菩提を弔うため龍穏寺三世和 尚を開山とし館の一部に建立したもので本尊は地蔵菩薩、太田氏歴代の位牌 を所蔵していたが明治35年火災で堂宇、資料全てを焼失したそうです。 再び小道を歩き最勝寺に至る。最勝寺は真言宗智山派の寺院で建久4年(1192) 源頼朝が児玉雲太夫に命じて建立させた寺で、頼朝がふかく帰依した慈光寺へ の参詣道「慈光寺道」の要地に立っています。かって天台宗の寺で当地に大御 堂という堂がありその西側にあたるため西照寺とばれていました。ちなみに東 の寺を東福寺といったが今は廃寺になっています。本堂横に移築された大御堂 には平安末の木造釈迦如来像、四天王像、鎌倉佛の木造阿弥陀如来像が安置さ れています。隣接する東福寺跡の墓地には児玉雲太夫の墓と伝える典型的な中世墓地があります。石で基壇を造り(基壇の石積みは最近改修されて旧状を留めない)その上に石を敷き詰め五輪塔が立てられており、その 下部から常滑の骨壷が出土しました。なを児玉雲太夫については児玉党の武士 であったらしいこと以外いかなる人物か知られていません。  越生梅林の脇道を歩き越生駅へと向かい、五大尊の下を通り越生神社へ。神 社は法恩寺を再建した越生次郎家行を氏神とした神社で越生氏の館跡と言わ れています。最後に越生神社奥宮のある高取山の中世の山城を見学。頂上は平 ら場が残り、築城者や城主は不明で有事に備えて築かれた「物見の城」や「詰 の城」であったといわれています。山を下り越生神社で解散、めいめい駅に向かい今日の歴史教室は終リました。

龍穏寺山門                             健康寺

最勝寺                                (伝)児玉雲太夫の墓