滝の城跡
 
所在地 所沢市大字城
歴 史 城主について福島正義氏は「所沢市史 上」で大石氏とされているが、築城年代については室町時代後期前半としている。大石顕重は長禄2年(1458)に高槻城主(八王子市)となったが、長尾景春の乱の時(1477〜1480)には大石駿河守は景春与党として二宮城の籠城している(太田道灌状)。大石氏は河越夜戦後北条氏に従属し、大石定久は北条氏照を養子とし、以後大石氏の旧領を襲封したという。これによれば滝の城は大石氏によって築城され、北条氏に引き継がれたといえるものであるだろう(福島前掲書)。埼玉県指定史跡
遺 構 柳瀬川を眼下に見下ろす比高約25mの台地縁辺部に築城されている。城の主要な部分は埼玉県指定史跡として保存されているが、方形をなす外郭部は宅地化され現状を止めない。城郭は大きく2つに分けて構成される。第1は本郭を中心とする同心円状に配置される本郭、2の郭、3の郭で、もう一つは北側台地部に大きく張り出して作られる約1.3ha程の広さを持つ方形を基本とする外郭であろう。平面的な縄張りから見ても、この2つの違いは歴然としている。前者の縄張りに、後から外郭を追加して防御を強固にしたと観察できる。外郭では市教委の発掘調査によって、小口部で障子堀が確認された。これに対して、本郭などは折りを多用した屏風折りの土塁・空堀によって縄張りが規定され、複雑な外郭線を構成する。堀は大きく幅広で、堀底も畝等を置いて高低差をつけ、水が溜まるように作られていることがわかる。2の郭の土塁は基底部幅4mの小規模なもので高さは1〜2mしかない。3の郭も同様であるが、土塁が小口部を除いて明瞭にならない。内部は窪んでいるように観察され、東部では土塁の手前が掘り窪められ、見かけ上土塁の高さを保っている。本郭小口は神社裏に発掘調査によって門跡遺構が発見され、ここが小口であった事がわかる。空堀は深さ約8mと深い堀になっているが、小口部では3mの高さを持つ障壁が築かれる。この障壁面から本郭小口面まで、さらに4m程の高さがあるので、ここには橋脚の存在を考える必要があろう。本郭へは橋脚利用の木橋とみたい。本郭内は小口西に高さ3m程の櫓台と見られる高台があるほか、土塁は堀残し状に高さ50cm〜1mに存在する。本郭虎口手前・2の郭と3の郭中間に空間があるが、これは馬出郭都見られる。北側に空堀を挟んで幅20m、高さ3m程の土塁があるが、ここには瀧見櫓跡の石碑が建てられている。2の郭、3の郭の空堀の外側に大規模な土塁とその外側にもう一つの空堀が存在する。空堀については市教委の調査で一部が確認されている。土塁は幅10m程の大規模なもので、後北条氏が大石氏を襲封したと考えられる永禄初期段階に行われた第1期の改修を考えている。そして、第2の改修が外郭部の増設であったと推定したい。外郭では滝頭部に接して障子堀が確認されているが、ここは、市教委の発掘と確認調査で確認された土塁・堀によって桝形に作られる喰違い小口が想定される。この他外郭南斜面中段部に二つの腰郭が存在し、2の郭下にも小規模なものがある。城跡は最近「滝の城跡保存会」によって立木・下草が伐開され、見学されやすくなった。
引用参考文献 福島正義ほか1981『所沢市史中世史料』
調査修正 2009年12月15日