小鹿野町三山地内で新規発見!「三山下郷向山砦」

秩父で城郭等中世遺跡・遺物の調査研究をしているをしている堀口進午さんと小指三一さんが、「三山下郷向山砦」を発見しました。
この城郭遺構は、先に報告した堀口さんと斎藤富江さんが発見した「合角城郭遺構」に次、秩父で4つめの新発見です。
堀口さんの了解を得て、紹介します。
調査は、2017年3月25日の堀口さんの調査がきっかけで、4月26日に堀口さんの案内で小鹿野町教委の文化財担当肥沼さんと梅沢が現地調査した。
城郭の位置は小鹿野町三山下郷地区(赤谷・犬木・小金沢)の東境の字小金沢から穴部(あのうえ)に出る林道が旧両神境にさしかかる所に小さな沢があり、橋が架かるが、橋の手前右側に木材搬出用の道が造られているのでこの道を稜線まで上がると良い。稜線から先は道が無く稜線添いに上り詰め、砦に到着する。登り30分と言うところだろうか。
駐車スペースは無く、車は小金沢にある県指定天然記念物「犬木の不整合」見学者用駐車場が利用できる。

【砦の位置図】
現地に残される遺構は尾根を掘り窪めて造られた平場が4カ所確認出来る。この構造は先に紹介した秩父市吉田の「合角城郭遺構」に類したものといえる。
砦の造られている尾根は小鹿野町三山地区と旧両神村の村境を形成するやせ尾根で、標高577mの山頂を最高所とする北東に延びる尾根上にある。砦への登攀路は小金沢の対岸に延びる尾根先端部であろう。南側では尾根続きで出浦家の所在する穴部地区に連なるが、出浦家からはこの砦は眺望出来ない。砦は三山地区東端の赤谷と小金沢集落からは真南に望む事ができる位置を占めている。三山という冠を付けた理由はここにある。
小鹿野町三山地区は永禄12年から元亀2年にかけて、山中領から志賀坂峠を越えての武田軍の侵攻を受けた所で、「三山合戦」など秩父谷では比較的大きな戦乱の被害を受けた地域である。この小金沢から西奥が三山地区で有り、小鹿野要害山砦・鷹谷砦が築かれ、「石打」と伝承される天然の要害もあり、東の飯田地区に出れば西側の谷奥に日尾城が所在する戦国史上、西秩父では重要地区となっている。
【三山地区】
砦は標高519.2mの尾根頂上部に有り、尾根を掘り窪めて①②の平場を配置している。①の平場の底からは②の平場までは9.2m程緩やかに上がり、その西側は2.5m程切り落とされる。①は尾根幅略いっぱいに造っているが、両サイドには僅かに掘り残しであろう1m程の土塁状の細長く小高い部分があって、谷境を画している。平場の底は平坦に造られるが、南の谷に向かって僅かに傾斜を持っているのが観察でき、窪地となっていて、雨水のたまることは無いようである。平場の幅は27m×23.7m。②は13.5m×12mとなる。③は最頂部519.2mの北側にあって、12.8m×5.7mの小さな平場で山側を掘り窪めて平場を形成している。④は尾根の鞍部に造られ、①の平場からは見えない。この平場も南谷側に僅かな掘り残し状の細長い高まりがある。平場底はやはり、南の谷側方向に流れている。以上がこの砦とした遺構の概要で、明確な形で城郭とする遺構は見られない。しかしながら、合角城郭遺構でも確認された様に、ここに残され、以上のように観察された形は決して、自然のなせる技とは見ることができないだろう。躊躇しながらも砦としたが、斎藤富江さんが中心に堀口さんと聞き込み調査を行ったが、この地点の遺構の存在を示す様は確認はできなかったし、砦の具体的名称を冠せる様な地名も確認出来なかった。しかし、先に記したように、この砦を眺望出来る(砦から望める)地区は三山下郷と呼称される地域であり、三山下郷地区の関わりが大きいと認識したので、この地区の向山となるところから、堀口さんの意向を受けて「三山下郷向山砦とした」。


埼玉県の西部山地に残る城郭遺構は数多いが、縄張りを見ても判るように城郭としての基本的要件を満たさない「城郭らしからぬ城郭」が多い事が指摘できる。これらは決して合戦の為に築かれた城郭ではない。この砦とした遺構もその範たる物で、尾根筋に人工を加えて平場を造っているが、所謂土塁や堀切によって郭の防御を備えるといった施設が設けられていないか、不完全な遺構が多いのである。特に秩父地区や吾野地区などに多く確認されるが。秩父のそれは群を抜いている。この様な造りの遺構は戦乱の被害から住民が自らの生命や財産を守る為に作った「山小屋」と考えて差し支えないと思われるが、山中に「小屋架け」をすると言っただけで無く、比較的大きな普請を伴う造作であるだけに、戦乱に備えて地域住民が総出で構築した逃げ場であった物だろう。この様な遺構を城とか砦とか呼称して良いか大きな疑問点で、本来は「小屋掛場」とでも言うべきだろうが、適当な呼称が一般的に為されていないので、これまでの城・砦といった呼称のまま名を付けた。