岡部屋敷跡・リュウガイ山城跡
飯能市坂石
リュウガイ山城跡は、旧坂石小学校跡に西に横たわる尾根頂上(357m)に見られる城郭である。其の山頂にから下る北斜面裾部(340m)のテラスに見られる平坦地が(伝)岡部屋敷跡である。この両者については埼玉県立歴史資料館の埼玉県中世城館跡調査と坂戸市の関口一也によって既に報告が行われているものである。
 今回改めて実地踏査を行ったが、遺構の確認にいささか違いがあるので、改めて報告したい。
 岡部屋敷跡はテラス状に削平された42×40mほどの北に開けた平坦地で南は山頂部となり、日射は極めて悪い。削平にあたっては斜面部の状況を観察すると、東側の谷斜面部へ掻き下ろしたと見られ、歴史資料館の試掘調査で削平が確認されている。平場内に高さ2m程の大きなチャートの転石が見られ祠が祀られているが、この転石を掘り出す程削平したのだろうか。平坦地北側にも若干の細い平坦地が有るが、城郭遺構かどうか判断できない。一方、西側60mの15m下がった地点に15×10m程の平場がある。ここは集落の直上部となる。また、この両地点の間は窪地となるが、浅い平坦地を形成して傾斜し、3段程の緩やかな平場が見られる。このような作りは、日尾城にも有るが、小屋がけなどをした地点か、あるいは耕作地かは現状では確認できない。また、この上部10mほどににも小さな尾根状の張り出し部があるが、この上面も15×10mほどに平坦に造られる。
 山頂部に造られるリュウガイ山城跡は、標高357m地点が19.5m×12.7mに平場整形されるのみである。所々にチャートの転石が露出している。明確な城郭遺構は西に続く痩せ尾根上にある。この尾根は3ケ所にチャートの露頭が見られる地点であるが、この中間の左端が10mにも及ぶ垂直で大規模な露頭右端の基部を上幅7m、深さ4m程切り下げ、堀切2を置く。また、更に上段の露頭部下5mに上幅4m、深さ1〜1.5mの堀切1を置くが、これは尾根の南側半分に造られる。
岡部屋敷とは、鎌倉時代の畠山重忠の郎党であった武蔵七党猪俣党岡部氏の屋敷にかかる伝承である。岡部氏は坂石の法光寺の開基という(『埼玉県の地名』517p)。法光寺は屋敷跡北西山麓の吾野駅西に隣接する寺院として存在する。14世紀後半の至徳3年(1386)には岡部新左衛門入道妙高が記録される。
もう一つは、松山城将・岡部越中守に関わることで、この地域の高麗郡日影郷(飯能市中藤上郷・中郷・下郷)は小田原衆松田左馬助(日懸谷400貫文)の被官・岡部氏が土着した地域(藤木久志1995『戦国史をみる目』)であり、これとの関わりを考えることも重要になるだろう。
旧小学校敷地は中屋敷と称される。この地域は畠山氏とのゆかりを伝えており、青梅の御嶽神社には畠山重忠奉納の大鎧が国宝として保存伝承されている。しかし、これらの城郭遺構が、12世紀の鎌倉時代まで遡る事は到底不可能であるが、入間川・高麗川・名栗川流域は古くから開発が進められてきた地域であったことを示している事だろう。リュウガイ山城跡の造りは単純な造りで、2本の堀切で防御された1つの平場形成となる。そして尾根の三方は山頂直下が比高50mにわたり約45度程の急斜面を形成するのみで、何ら施設は造られない。また岡部屋敷跡部分は平場形成のみで城郭とは言えず、伝承のように屋敷跡と見るべきなのだろうか。関口は報告の中で「この辺りの領主の築城パターンの一つといえるかもしれない」と述べている。
関口和也19 「埼玉県西部の城館跡(三)−リュウガイ山と吉田山城−」
埼玉県立歴史資料館1988『埼玉の中世城館跡』