富士見市難波田城
 
所在地 富士見市下南畑589
歴 史 上杉憲政の家臣松山城主難波田弾正が戦記に松山城風流歌合戦等で登場する著名な武将であるが、この難波田氏ゆかりの城郭である。北條家臣分限録では上田周防守の所領となっているが、これは天文15年(15)の川越夜戦の後、北条氏の支配するところなった結果である。難波田氏は東秩父村浄蓮寺の過去帳に川越夜戦で討ち死にした難波田善銀父子の法名が記載されており、上田氏の重要な家臣であったことが伺われる。『新編武蔵風土記稿』には上杉の臣難波田弾正憲重の居城で憲重討ち死に後上田周防守が居城と記載される通りの変遷をたどったものと思われる。
遺 構 『新編武蔵風土記稿』に「今城跡ノサマヲ見ルニ四方二町余ノ地ニテ追手ハ南ノ方ノ小名宿畑ト云ル辺ナリ土居及ヒ堀ノ遺跡ハ四方ニ見ユ西ノ方ニ櫓台ノ跡アリ夫ヨリ一町余ヲ隔テテ馬場蔵屋敷ナトノ跡残レリ東ノ方三町許ニ代官屋敷ノ跡アリ土人ノ話ニ昔ハ外廓アリテ堀ヲ二重ニ構ヘシ由」と具体的に城郭の構造に触れる記載がある。この城跡では浅野文庫の難波田城図、酒井家文庫の難波田古城図など数枚の絵図が残され、さらに市教委の地道な発掘調査によって、絵図と変わらない縄張りを持つ城郭の存在が確認された。遺構の存在する部分は公有地化され、本郭を除いて市の城跡公園として整備公開されている。
 城跡は旧入間川の形成した自然堤防上に築かれており、現状は水田と自然堤防上の集落となっているが、発掘調査によって確認された遺構と絵図を重ね合わせ市教委によって復元された城跡が図のようになるという。城跡は本城を中心に郭を基本的に同心円状に配された城と見られ、北に蔵屋敷のある二の曲輪、そして、蔵屋敷の西に搦手口がある。東に天神曲輪、南に曲輪3、曲輪4を置き、大手口を通じて宿に通じる構造になっていたらしい。西に島曲輪のほか2つの島状の曲輪を置く。それぞれの主要な郭は帯郭と橋によって連絡されていたようで、本郭南の馬出郭部では堀内に橋脚列が発見されている。城の全体の規模は啓350m程の範囲に広がり、馬出郭から三の郭、島郭、五輪塚部分が史跡公園として保存された。本郭の規模は40×70m程で、2の郭は東西に250mとなる。発掘調査では堀や建物跡、井戸跡などの遺構の他、本郭部分では14世紀から16世紀の陶磁器などが出土した。又、一部であるが大手口に近い小さな郭では13世紀の遺物も発見されているという。本城は難波田氏の時代以降本城を中心として拡充整備されたと考えられている。そして、発掘調査の成果からは本城の成立年代を16世紀頃と推定し、上田氏の築城をが考えられている。尚、発掘調査では建物跡と倉庫跡の遺構が確認されたが、建物跡では径30p、長さ1mの栗の木を基礎に埋め込んで建物が沈み込まないように工夫してあり、倉庫跡では、竹を束ねて造ったと見られる壁の存在を窺わせる発見もあったという。郭配りの中で特に注目される点は、本郭と馬出郭の配置で平城ではあるが、比企の上田氏関連の城郭に見られる小口前に小規模な郭が置かれるという共通した特色が見いだせる点であろう。
 参考文献 和田晋治1999『難波田城跡ー歴史公園整備に伴う発掘調査報告書ー富士見市文化財報告第50集』富士見市教育委員会
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