所在地 比企郡吉見町大字南古見字城山・大字北吉見字5ノ耕地
歴 史 城の起こりは正慶二年、新田義貞が鎌倉幕府の北条高時を攻撃したおり、仮に要害を構えて用兵を駐屯させたことに始まり、本格的な築城は応永六年、上田左衛門尉友直によって行なわれたと伝えられる。「友直は大河原(東秩父村)安戸城主として、大河原御堂を中心に、小川町腰越付近一帯に勢力を持っていた武将と思われ、吉見冠者頼綱を祖とし、八代友直は同家の重臣上田氏の嗣子となり、同四年、安戸城を築いた」と『東松山史話』に述べられている。しかし、これはどうも事実ではなかったらしい。友直についての記録もなく詳細については不明であるが、上田氏については『東松山市の歴史 上』の藤木久志氏の研究に詳しい。『関東兵乱記』に「松山城は上田左衛門尉取立て」とあるので、松山城を築いたのは上田氏であることがうかがわれるのであるが、『鎌倉大草紙』で、応永23年10月6日、鎌倉六本松の合戦(前関東管領上杉禅秀〈氏憲〉が鎌倉公方足利持氏に叛して挙兵した上杉禅秀の乱の発端となった合戦)において、上杉禅秀方の「松山城主上田上野介討死」とあり、この頃の松山城主が上野介であったことが知られるのみである。松山城が中世史上に登場してくるのは天文年間(1532〜55)以降であり、扇谷・山内両上杉氏の対立の間隙をぬって関東制覇を着々と進めてきた後北条氏の進出と時を同じくしているのである。この中にあって関東各地は一気に戦乱の渦中に巻き込まれるのであるが、松山城もその例外でなく常に戦略の最前線として幾多の合戦をよぎなくされ、それは戦国絵巻の縮図ともいうべきものであった。「松山城風流歌合戦」として名高い天文6年(1537)の合戦は、その幕開けでもある。大永4年(1524)、江戸城を攻略して扇谷上杉朝興を敗走させた北条氏綱は天文6年7月15日、河越城を手中に収めた。敗れた朝興の子上杉朝定は松山城に逃げ込み、北条氏綱は一気に松山城をも落とそうと城下に攻め寄せてたが、城主上田又次郎政広はよくこれを防ぎ落城をまぬがれたが、北条氏綱は城下の町屋近在をことごとく燐き払って引き揚げたという。この攻防のおり、政広の臣の城代難波田弾正は城外で戦っていたが、利なくして引き返そうとした時、敵将の山中主膳に騒け寄られ歌を間いかけられた。「あしからじよかれとてこそたたかはめなど難波田のくづれ行くらん」。これを聞きつけた弾正は、「君をおきてあだし心を我をたばすゑの松山波もこえなん」と返したという。これが俗にいう松山城風流歌合戦の出来事である。天文14年10月から15年4月までの6か月余、扇谷上杉朝定は山内上杉憲政、古河公方足利晴氏と共に川越城奪回を目指して、北条綱成の守る河越城を攻めたが、逆に北条氏康の夜襲にあい、難波田弾正父子と共に討死した。上田又次郎政広(朝直)はわずか九騎になって松山城へ落ちた(『関東古戦録』)。河越夜戦の勢いを駆って北条方は松山城へ攻め寄り、上田朝直は安戸の砦へ落ちた。そして松山城は北条方の支配下となった。後北条氏はこの時、松山城攻めの先手を勤めた堀和刑部少輔を城主として置いた。朝直の落ちた安戸城一帯は、先にも触れたとおり上田氏の本拠であり、腰越城によって谷口を守られた大河原安戸の地は、深い山間の要害を形成し、戦略的にきわめて有利な地勢を占めていた。そのため、上田氏は松山城攻防の退路を常にこの安戸に求め再来の好機をうかがっている。先の合戦の後、上田朝直はただちに松山城奪回を謀り、岩槻城主の太田資正の援軍を得て同年の8月26日に奪回に成功した。この時、本丸には太田資正の家臣太田下総守・広沢尾張守が置かれ、上田朝直は二の丸を守ることになった。その後、北条氏は再度松山城攻めを行なった際に太田・広沢両軍の必死の防戦に反して、朝直が北条方に寝返り二の丸に軍を引き入れたため、松山城はあえなく落城した。上田氏は北条氏によって本領を安堵され、松山城主としてその地位を保護されることになった。いままでの守りの最前線にあったという軍事的立場は一転して、攻めの最前線の一翼を担うこととなったのである。永禄4年(1561)、関東管領山内上杉憲政から管領職を譲り受けた上杉謙信は、9万人ともいわれる大軍をもって松山城に来攻し、上田朝直は敗れて安戸城へ退いた。上杉謙信は太田三楽斎資正に岩槻と共にこの城を守らせた。上田朝直を中心とする北条方は上杉謙信が関東を引き揚げた同4年11月、北条氏康が北条相模守氏政・大石源三氏照・北条左衛門大夫綱成を将として、3万余騎をもって松山城攻めを行なった。いったんは軍を引いた北条方であったが、翌5年11月、さらに松山城を攻め、かつ越後の上杉謙信を牽制するため甲斐の武田信玄の援軍を得ることになった。信玄は2万5千余騎をもって9月に上野に侵入し、11月には武蔵へ進出して松山城に至った。信玄が到来してから2か月後、武蔵国住人勝式部少輔を城中に入れて急ぎ和睦に成功し、城将の上杉憲勝は降伏した。この時(永禄6年3月4日)、上杉謙信は岩槻の太田資正と共に石戸の渡し(北本町)まで来ており、上杉勢は松山落城を知り城下に攻め寄せてきたが、すでに北条方も武田方も撤退した後であった。上杉勢は、北条方の出城であった騎西城を落とし、小田・小山・佐野の諸城をも降伏させ、古河城を回復して軍を越後に引き揚げている。これ以後、後北条氏による関東支配は一段落し、松山城は再び上田能登守朝直の居城となり、青山。腰越の城と共に上田氏が守ることとなったのである。元亀2年(1571)には、朝直は城下に祖先・戦死者等の霊を慰めるための板石塔婆を建立したが、これは安定した時代の到来を裏づけるものといわれている。天正3年(1575)、上田朝直は家督を能登守(蔵人佐)長則に譲り、長則は領国支配を一段と進め経済に重点を置いた支配を完成している。こうした中で城下に伝馬を負担させ、市の保護を行ない、荷留めを徹底して行なった。朝直は同10年10月3日に、長則は同11年3月5日に没し、続いて長則の兄弟憲定が城主となっている。憲定は城下に棟別銭を課し、一方では領内の経済安定政策を推し進め、新宿に新しい市を開き、岩崎対馬守。大畠備後守・池谷肥前守の三名を責任者として間屋経営をも許可し、町の自治も認める楽市の制をしいた。このようにして上田氏による領国支配は完全に安定していたのであるが、同18年、豊臣秀吉による関東攻略が行なわれ、松山城も後北条氏配下の城として最後の合戦をよぎなくされた。前田利家・上杉景勝の大軍に包囲され、4月下旬に落城した。天正18年、徳川家康の関東入国の後は、松山城は松平内膳正家広が居城したが、跡を継いた弟の左馬介忠頼が慶長6年(1601)に浜松城に移封されたのにともなって廃城となった。上田氏3代の墓は東秩父村の上田氏菩提寺浄蓮寺にある。
遺 構 埼玉県のほば中央に位置する比企丘陵の東端にあり、ここから東部および南部一帯は関東平野となって一面の低地が続くところである。城は丘陵のちょうど先端部に築かれ、三方を市の川によって囲まれる要害の地にある。市の川は近年に至るまで毎年幾度かの氾濫を起こし、流域一帯に一大沖積地を形づくり、各所に沼地や湿地を形成していた。そのうえ、城の眼下を流れる市の川は、丘陵に突き当たって大きく蛇行しているため、丘陵の裾は荒々しく削り取られ急峻な地形をつくっている。そして東側は荒川・和田吉野川の氾濫原となっており、松山城の所在する地域はまれにみる天然の要害であるが、北東側は丘陵続きとなって、防御性は極めて弱い。城の郭構成は大きく分けて本丸、2の丸、3の丸、春日丸・兵糧倉跡・惣郭・根小屋郭・北郭・外郭の9郭であったらしい。現存する城跡は、前6郭の範囲であるが、この中にはさらに帯郭・腰郭等大小さまざまな郭配りがみられ、多郭式城郭の面影を残している。本丸は東西45m、南北45mほどの広がりを持つ郭で、東北部に突出して「櫓台」が設けられている。そしてここには掘り残しによると見られる幅広の土塁状のものが北辺に配されているようにみられるが、神社地として整備された際の削平地とも見られる。他の部分は、城全体に認められることであるが、郭境を構成する大規模な空堀と切り落しによって防備されており、それで充分であったものと思われる。2の丸との境を画するコの字形の空堀は幅15〜20m、深さ10mで、2の丸を取り囲む本城最大の空堀となっている。この空堀は折の多用化によって設けられ、堀底の高低差と共に有効な防備意図をみることができる。2の郭は本郭の櫓台を包み込むようにコの字形を示しているが、折が多用されたこともあって凹凸が多い複雑な形を示している。郭の最大幅は東西60m、南北64mで、本丸より1mほど低く築かれている。郭内はまったくの平坦地であるが、東北の肩部には1mほど小高く盛り上がった所がみられる。2の丸を取り巻く空堀内には、東に低い土橋状の遺構を認めることができるが、この部分は春日丸からの通路を形成していた所と考えてよいだろう。春日丸は2の丸の東側に、やはり2の丸を包み込む形で設けられており、その形はきわめて細長く、変化に富んだものとなっている。また、ここは、ハの空間から南に延びる土橋を通じてロの「馬出郭」へ連なり大きく左に振れ、イの郭に入り、更に下って横矢をかけられながら、下段の堀道へ通じる通路となる。この小口構成は腰越城跡や大築城跡の小口形成と同じ手法で造られる。春日丸の最大幅は18mほどで南北に60mの広さを持つ平坦部を構成しているが、北部では竪堀の土橋を通じて長さ50m、幅10mのホの郭へ連なる。この北端下部には惣郭があり、井戸跡と考えられる凹地が存在する。そして春日丸東部には、丘陵を南北に分断する形で「堀切」が配され、中央部の土橋を挾んで南側は溜水を利用した水堀となっている。3の丸は西側に幅5mの土塁状を示す帯状の土居を配するほぼ方形をした郭である。規模は東西35m、南北36mである。この郭からは西南方向に帯状の道が延びて大堀の肩部まで下り、馬出からの通路と合流する。伊禮正雄氏はこの部分までが上杉氏時代の松山城域であったとして、この東に続く3の丸・根古屋郭・北郭および外郭は、後北条氏時代の構築とみている。確かに、この「堀切」によって城の内外が分けられるようであり、3の丸と周辺のa〜hの郭は根古屋側に対しての備えが無い。
兵糧倉跡は本丸の北側約6m下部に設けられ、本丸とは空堀内に設けられている土橋を通じて連絡している。郭の広がりは長方形を示しているが、それは上・下二段構成となっており、下段の郭はゆるやかな傾斜を持っている。郭全体の規模は東西40m、南北30mほどである。このほかの多くの郭は主として腰郭であるが、それらは先に述べた主要な郭の周囲にあって、それぞれの郭および小口等、それぞれの防備の必要に応じて配されたものとみることができる。ただ、南側の竪堀や構堀内に11基の大きな穴が穿たれているが、水の手郭として機能したものだろう。
松山城は天文21年に後北条氏による大改修が行われた城郭であった。大規模な空堀と塁線に折りを多用するあり方は、北武蔵の城郭の中に見られる後北条氏の関わりを推定させていたものであるが、縄張りが極めて複雑で、明瞭な小口形成が見られないことや、馬出のあり方に上田氏に関わりのある城郭との共通点を認めることができるなど、後北条氏が主体になって普請を行ったかどうか明確にできない。これは松山城が天文15年以降、後北条氏の支配下に入ったものの、「上田氏の本地本領」としてこれまで扇谷上杉氏の有力武将であった上田氏を「他国衆」に位置づけ、上田朝直を城主とし、松山領経営を委ねた結果を意外と表現しているのかも知れない。
城跡の中では、根古屋への通路と見られる小口が確認され、根古屋口としたが、これは惣郭東端に存在し、土塁と堀が食い違いになって極めて狭い小口が造られているのが認められる。