腰越城跡

比企郡小川町大字腰越字木落 ,連郭式,室町時代,190×100m,山頂、
標高216m、比高100m,
根古屋側からの近景(中央)
城主山田伊賀守直定ほか,『青木家家譜』治承4(1181)年山田伊勢守清義が宇治川の先陣に敗れた後、籠城するために築く。,『寛政重修諸家譜』腰越城主山田直安300石。兄山田伊賀守直定は赤浜の原合戦で道祖土図書助により討たれる。,小川から東秩父の境に安戸を守るように楔状に突き出した丘陵端部に築城されている。小川から東秩父は大河原谷と呼ばれた地域で、上田氏の領地であった所で、奥には御堂に上田氏の菩提寺である浄蓮寺があり、安戸には家老山田氏の屋敷跡が所在する。上田氏の本拠地を守るため城だったのだろう。本郭を山頂に置き、西に続く尾根上に郭が連続して配置されている。南斜面は竪堀が多く配置されるが、北側斜面は急なためか、1本しかない。尾根は本郭両側で掘りきられるが、本郭東では大小2本の掘切が連続してある。その丈夫が本郭したにの急崖となっている。西の堀切は小口郭と西の郭の間に置かれる。きわめて狭く、深く掘りきられ、人間が一人通れる幅しかない。ここが隠し小口であり、本寿の1つの特色である。城の東山麓には榎木戸という地名が残りここが大手口といわれるが、ここからは2の郭に向かって大きな竪堀が置かれる。南斜面に8本の竪堀が配置されるが、城への登り口は一番西の竪堀を迂回するコースをとる。上り詰めると、幅6mほどの緩やかな登り勾配を持つ帯郭があり、42mほど東へのびる。突き当たりは土塁があってその内側は構堀が大きく横たわり、進路を遮っている。本来の小口はあがって直ぐの段築脇に見られる掘切であるが、むしろ小口郭南下にある掘切状の堀がそれらしく見えるが、これもカーブして奥は見えず、突き当たりで袋小路状になり、完全な囮小口となっている。本状には築城の特色ある縄張りである。小口の作りに極めて、卓越した工夫をこらしており、小口郭と本郭には坂小口と小さな小口前郭、そして、折り坂を組み合わせた特色ある小口の作りを見せる。この作りは、大築城、青山城に見られる共通した特色である。本郭下に構え堀を置き、その外側に土塁を配置する腰郭があるがこれは完全に孤立している郭で、特殊な使用意図が考えられるものである。本郭にも土塁が見られるが、安戸方面の西側に堀残して置かれる。本郭は20m×18mと小さく、郭配りに精緻な知恵を巡らしているにもかかわらず、一カ所に多くの兵を置くことはできない規模の城である。腰越城は西に御岳山という同規模な石灰岩のやまがあったが、戦前に石灰の採掘で消滅した。西の郭の西部に郭配りがあったとも考えてもよいが、現状で、ほぼ完成した城の姿を残していると考えていいだろう。城の西眼下には根古屋があり、今も城侍であったと伝える、馬場3家がある。
,梅沢太久夫ほか1978『日本城郭大系5埼玉・東京』,
梅沢太久夫1989「比企西部の3城について−特に小口に見られる共通性−」『歴史資料館研究紀要第11号』,
梅沢太久夫1992「埼玉における中世城郭について−特に比企における城郭とその成立年代−」『埼玉教育No522』,
梅沢太久夫ほか1990『武蔵腰越城』
