児玉町雉ケ岡城跡
 
所在地 児玉郡児玉町大字八幡山字城内
歴 史 『新編武蔵風土記稿』には関東管領山内上杉氏が築城、平井城へ本城を移した後、家臣の有田豊後守を置き守らせる、有田氏は夏目と姓を変え、定基、定盛の2代にわたって、在城という。『雀の足跡』には「寛正元年(1460)夏目舎人亮実基が古城雉ケ岡に新城を築く」と記されるという。長尾景春の乱末期の文明12年正月に長尾景春が児玉に蜂起と太田道灌状に記され、この児玉は雉ケ丘城跡(八幡山城)であったのではないかと言われていいる。景春の祖父長尾景仲は文安2年(1445)に幕府から武州青木、諸岡、八幡山の3庄を賜っており、この児玉地域が長尾氏の旧来からの関係の深い地域であったことが知られている。永禄4年の上杉氏殿間で起こった生野山合戦では、北条氏邦は用土新左衛門尉、秩父左衛門尉に家臣の横地左近将監と協力して御獄城守備を命じているが、このころの児玉は北条氏邦の支配下にあった。その後、御獄城は上杉謙信、そして、永禄12年には武田信玄による武蔵攻略の渦中に巻き込まれているが、雉ケ岡城はなぜか記録に登場しない。北条氏邦の鉢形領に組込まれたが天正10年には神流川合戦が織田信長の臣滝川一益との間で行われ、滝川氏上野からを駆逐した。天正18年の北条攻略戦で徳川の支配下に入り、松平清宗が1万石で入城している。そして、慶長6年(1601)に2代城主松平家清が三河吉田3万石の領主として転封されると八幡山城は廃城となった。
遺 構 児玉市街地を載せる児玉台地の北西端に築城される平城で、児玉中学、県立児玉高校の敷地となる。絵図から推定される城跡の範囲は南北440m、東西260mの範囲で、東南部の外郭が城跡公園として保存整備され、馬出内には塙保己一記念館が建てられる。城跡の郭には名称が付されてないが、絵図をベースに復元された平田重之氏提供の縄張図と絵図をさらに検討すると、雉ケ岡城の姿が朧気ながら浮かび上がる。全体の縄張りから見て、児玉中学の校舎が存在する地点が本郭であったと思われ、本郭の北に2の丸、3の丸、そして東にほうき郭が存在し、南に大手が開かれていたことが絵図に記される。城跡内に特徴的に認められる特色から抽出して復元的に説明すると、本郭は東西90m、南北50mほどの郭で此の両端に郭を付設する連郭式の縄張りが認められ、南北250m、東西100m程の広がりが当初の城郭であったと考えて良いだろう。そして、この後、Wの小口と2の丸の小口に馬出が設けられ、さらには児玉高校部分の3の丸、南の公園部分、そして、ほうき郭のそれぞれの郭が整備拡充されたようで、このことは公園部の土塁に見られるボテッとした大きな土塁、北郭の土塁の折り歪みの連続、ほうき郭の出桝形土塁の構築などによって理解される。南北に馬出郭を置き、さらにはほうき郭にも弁天社の置かれる馬出郭が見られ、この城郭は馬出郭の重点的配置が特徴的である。各郭に配されていたであろう土塁は現存遺構部と絵図との対比によって図のように復元できるだろう。
 
参考文献 埼玉県1928『埼玉県史跡名勝天然記念物調査報告第4輯』


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