初出『埼玉考古第31号』2000年3月30日刊

北武蔵の中世城郭について
 
                               
 1 はじめに
 北武蔵は、関東における中世城郭の宝庫とも言うべき地域で 、第1図に示すもの以外にも数多くの城郭が存在する。これまでに多くの方々によってこれらの城郭研究が行われ、また、多くの調査記録、解説書、報告書等が刊行されているが、これらの内、縄張り図の多くは個人的な興味関心と積極的な調査研究活動によって支えられてきたきたところが大きい。城郭についての公的な取り組みは、昭和41年埼玉県教育委員会による埼玉県館城跡調査がその草分け的調査といえよう。その結果は昭和42年度に『埼玉の館城跡』として公刊され、475カ所の城郭が文化財保護の対象として明確に位置づけられた。しかしながら、埋蔵文化財の保護がそうであったように、城郭についての公的な保護施策の本格的実施は、昭和50年代を待たねばならなかった。埼玉県では昭和48年から埋蔵文化財包蔵地悉皆調査を始め、昭和50年度に埼玉県遺跡包蔵地地図を公刊した。埼玉県における埋蔵文化財の保護活動は、高度経済成長の中で昭和50年以降埋蔵文化財の発掘調査の迅速化(53年)、円滑化(56年)の文化庁通知と並行して、埼玉県の体制整備が本格的に行われ、順次市町村教育委員会の専門職員整備へと進んでいる。埼玉県内で埋蔵文化財の保護が市町村レベルまでに充実したのは昭和50年代後半であった。城館跡の詳細な悉皆調査が歴史資料館を調査事務局として実施され、発掘調査で確認されたものを含め679カ所の城館跡が確認され、昭和62年度に所在地地図と共に地名表として公刊された。昭和58〜62年度の調査では保護活動が充実してきた埋蔵文化財調査の成果として、新たに204カ所が追加されている。
 今回の研究の対象となる城郭については従来から知られていたものが殆んどであり、多くは城郭研究を個人的に行ってきた方々の業績に負うところが多い。
 これまでに中世城郭で発掘調査が行われたのは、蓮田市江ケ崎館跡、桶川市加納城跡、東松山市青鳥城跡、嵐山町菅谷館跡、皆野町高松城跡、美里町白石城跡、嵐山町越畑城跡、小川町中城跡、小川町古寺砦、寄居町鉢形城跡、北本市石戸城跡、所沢市滝の城跡、騎西町騎西城跡、伊奈町伊奈氏館跡、嵐山町大蔵館跡等である。この中で菅谷城跡と鉢形城跡、大蔵館跡は史跡の整備事業として行われたものである。このほかは開発に伴う発掘調査で、全体を調査して消滅した城郭は高松城跡、古寺砦にすぎない。他は部分的な発掘調査が行われているだけである。そして、発掘調査によっても出土品が少なく、築城期の年代決定を可能にする事もできない状況にある。従って全体像が掴みにくいと言う理由も手伝ってか、これまで多くの出版物が刊行されても、伝承などを織り交ぜた城の歴史と、縄張りの説明が中心で積極的な研究が進まなかったきらいがある。
 筆者は昭和50年度以来、県立歴史資料館の建設に携わり、比企に残されたすばらしい歴史的環境の中にある数多くの城郭に魅せられて以来、遅々としてではあるが城郭研究をテーマとして次のような観点から取り組んできた。
@ 城郭の年代決定を行う手法として、城郭が防御機能を重視した施設という性格上、地域の合戦史を把握し、その中での役割を洗い出すこと。
A 発掘調査がほとんど進んでいない状況では、城郭の構造学的な分析により、形式学的分類を進め、統一した手法、癖を探し出すことによって築城者に迫っていくことができるのではないかということであった。
 2 合戦史からの区分第2図) 
 北武蔵の合戦史からみた時期区分については『埼玉の教育第522号』の中で「新編埼玉県史」等の多大の教示を受けながら歴史的状況を捉え、以下のように区分した。
 この時期区分の観点で埼玉県史等を見ると、各々の記録の中には城郭の構築に関する記載が各所に見られ、築城時期を考える上で参考にできる内容が浮かび上がった。 
 第1期(1333から1392年頃)
・建武の中興を中心として、鎌倉幕府の滅亡からの南北朝動乱期。
・上野から鎌倉まで鎌倉街道上ツ道を中心に原野や河原で合戦を繰り広げている。
・平一揆の乱(貞治7年1368)を契機とした高坂氏、竹沢氏などの旧勢力支配が崩れる段階(藤木1985a)。藤木氏はこの段階に松山城主の上田氏出現期を想定している。
 この合戦史から城郭の形成期を考えると第1期では城郭の存在が確認できない。 
第2期(1416から1480年頃)
『上杉禅秀の乱』(1416)から長尾景春の乱終焉まで。この中では、古河公方に対する上杉勢の追討を中心とする中期と、後期に起こった長尾景春の上杉に対する反乱に伴う合戦が中心      ・『鎌倉大草子』応永23年(1416)(鎌倉六本松にて)上田上野介松山城主・疋田右京亮討死す、 ・上杉禅宗の乱の前期の記録として「武州白旗一揆の着倒状」(応永24年1417)には
     庁鼻和御陣(正月2日)、村岡御陣(4日)、高坂御陣(5日)、入間川御陣(6日)、     久米川御陣(8日)、関戸御陣(9日)、飯田御陣(10日)、鎌倉到着(11日)とあり、 ・『鎌倉大草子』に結城合戦(永享12年1440)の際に 関東管領上杉憲実は野本・唐子に逗留し、
・『鎌倉大草子』に 永享12年7月1日一色伊予守など、武州の須賀土佐入道が宿城へ押寄、悉く焼払うとある。
・長禄元年(1457)太田資長・道灌江戸城築城等多くの城郭が記載される。『鎌倉大草子』
・文正元年(1466)足利成氏五十子に出兵、上杉房顕敗死。『鎌倉大草紙』
・文明9年(1477)長尾景春鉢形城に拠り五十子を攻める。『松陰私語』
・文明12年(1480)太田道灌長井城、日野城(熊倉城)をおとす。『太田道灌状』
 第2期中頃の『享徳の大乱』(113kb)期には「鎌倉大草子」に崎西城が足利成氏に康正元年(1455)12月に攻められ、深谷城は康正2年上杉(山内)房憲が築き、そして、河越城は上杉持朝、岩付城は太田道真、江戸城は太田資長がそれぞれ長禄元年(1457)に築く等と記される。この築城について「松陰私語」には江戸城、河越城は太田道真・道灌のほか上田、三戸、荻野野という扇谷上杉氏の関東巧者の面々が秘曲を尽くして構えたと記され、ここに築城者が具体的に登場してくる。合戦は第3図に見られるように、古河公方勢力対上杉勢力で北関東と北武蔵が中心となり、深谷から元荒川ラインが境目を形成する。
 後半の『長尾景春の乱』期(第4図)(87kb)では景春側のゲリラ戦法によって武蔵から相模東部が戦乱の中にあり、際だった境目は確認できない。そして、各所に城郭が存在したことを示す記録が見られ、北武蔵の城郭では寄居町鉢形城、本庄市五十子城、妻沼町長井城、荒川村熊倉(日野)城、小川町高見城の名前が見られる。これらの城郭はいづれも長尾景春に関わりのある城郭として存在する。
 第3期(第5図)(174kb)
 『長享年中の大乱』(1488から1505年頃)で山内上杉対扇谷上杉の覇権争いによる争乱である。
・「梅花無尽蔵」には長享2年6月に起った須賀谷原合戦の記述がある。
     17日、入須賀谷之北平沢山、問太田源六資康之軍営於明王堂畔
     18日、須賀谷有両上杉戦死者7百余矣、馬亦数百匹、
     25日、太田源六、於平沢寺鎮守白山廟、詩歌会、與敵塁相対、
     この記録によれば山内上杉方の太田資康は嵐山町平沢に平沢寺山内に陣を張り、敵塁に     対すると有る。この相対する敵塁とは「菅谷城」のことと考えれば、菅谷城はこのとき     扇谷上杉方の陣地として機能していたとみられる。
・『松陰私語』「先年山内與河越矛楯・・・・、向河越、須賀谷旧城再興、当鉢形普請堅固取極、」とあり、古い菅谷城が修理され、川越への向城として復活し、鉢形城は新たな普請を行っていると見られる。
 この段階では、須賀谷原合戦と高見原合戦、赤浜川原での合戦が中心となる。このとき山内上杉方の拠点は寄居町鉢形城であった。また、第3期では荒川上流の秩父地域は極めて静かであったようで、合戦などが起こったと考えられる記録が見られない。境目は荒川ラインと槻川・都幾川ラインに形成される。
 相模では上田右衛門尉の実田要害に関わる城郭が記録に現れる。上田氏ゆかりのこの城郭の内、実田城は舌状台地先端部に築かれた方形の単郭城であり、台地とは掘切で分断されていた(山口1980)。連歌師宗長の記した「うえ田とかやが館」はこの実田城を示すとされている(藤木1985)が、権現山城が上田氏の館であったと言う考えも出されている(金子1993)。
 第4期第6(88kb)・7図(79KB)
 後北条氏対管領上杉の覇権争い(1524〜1574年頃)
・永正7年(1510)北条早雲は関東攻略を開始する。上田蔵人入道政盛相模権現山城を築き(『鎌倉九代後記』)にて北条長氏に呼応し、上杉家に反旗、討死する。
・天文15年川越夜戦により、後北条氏による武蔵の支配確立。
 第4期は後北条氏による関東攻略段階であり、武田氏による北武蔵攻略、御獄城修築などの記録や、後北条氏に対抗した秩父衆の高松城立籠り、千馬山城などが登場する。

 3 築城技法による分類
 次に築城期、築城者を考える上で重要な観点として考えられる築城技法について考えたい。
 郭配りを中心とする築城技法に注意を払ってみると地域的な特色があることに気づく。比企の城郭では多郭で複雑な作りの城郭が多く。腰郭、帯郭が発達しているように、北武蔵に展開する城郭を構造的に集約してみると次の4つのタイプに分類されると考えている。
 腰越城タイプ(第8図)(487KB)
 小川町腰越城は比企地方の城郭の典型的なものである。多郭構成による城郭としては、他に例を見ない程の手法が見られる。今日でも木落という地名を残すぐらい竪堀を多用しているのが第1の特色で、次に防御に対する備えとして小口への工夫が第2の特色といえよう。この工夫は「隠小口」、「囮小口」等として造られ、山城の地形的特性を活かした「小口前郭」を特徴的に配置する城郭として上げられる。小口前の小規模な腰郭の配置は腰越城では2カ所に認められるが、細い折坂を上り詰め、小口の門の前に開かれた小さな平坦地と、そこからまっすぐの上り坂で掘り割りの上に造られた門が開いていたとしても城内を全く見透かすことができず、攻撃者の侵入にとって強い圧力となることは間違いないだろう。これらについてはすでに機会あるごとに説明し、小論を起こし発表済み(梅沢1989)のことである。
 この「小口前郭」の配置については、比企地方の大築城、青山城にも見られ、松山城にも変形が加えられているように見られるものの、本郭前に存在がみられるところである。この造りは、これまで確認されている埼玉の城郭の中では、他に例を見ない特色ある造りであることを指摘しておきたい。そして、腰越城は多郭であり、最終的には本郭に詰めて終了と言う縄張りを示しているもので、近世城郭の縄張りに通じる築城思想を認めることが出来る。このタイプの城郭を「腰越城タイプ」と呼称する。都幾川村大築城の小口郭の小口の造りは腰越城と全く同じ規模で造られるものであるといえよう。小川町青山城のそれは本郭に2カ所認められるが、現状で観察できる土塁が極めて低く、腰越城ほど大きな効果があるようには観察できない。しかし、土塁の存在を考慮に入れると、同様な意図で形成されていたと考えて差し支えないだろう。松山城は兵糧郭から本郭への小口部分に存在するが、兵糧郭の形成によって、小口前郭が変形されてしまっていると考えている。この腰越城の造りが、もっとも比企地方の城郭の造りを代表していると考えている。
 腰越城はすでに発表しているように、松山城主上田氏が支配する大河原・西の入り筋の中でも、もっとも重要な大河原谷を押さえる上で欠かすことのできない山城で、小川盆地からさらに西奥の安戸・御堂への入り口に大きく横たわり、大河原谷・西の入筋の「詰めの城」といった役割が考えられる城である。
 鉢形城タイプ(第8図) (356kb)
 荒川の急崖の上にある鉢形城は文明8年(1476))長尾景春が築城し、主家の上杉憲定に反旗を翻し、関東を戦乱に巻き込んだ「長尾景春の乱」の舞台の城として著名である。鉢形城の構造をよく観察すると、本郭と2の郭の間に存在し荒川側から深沢側に突き抜ける大きな掘切を境に城郭構造が変わっているのが認められるが、初期の城郭はこの本郭部分と考えられる。本郭部の鉢形城は北の荒川とそれに合流する深沢川によって刻まれた河岸段丘上に縄張りされた城郭で、上野では山崎一氏によって『崖端城』と分類され、鉢形城も山内上杉・長尾系の城郭の一つとして紹介されている(山崎一1984)。これは築城技法上極めて大きな特色なのである。鉢形城にみられるように三角形を基本とする城郭で2辺を河川によって守られ、1辺を掘切り、防御を完成させるという簡単でしかも合理的な造りの手法を、私は「鉢形城タイプ」と呼称している。鉢形城タイプの城郭は北武蔵から上野にかけて数多くみられ、上杉氏が古河公方と大きな合戦をし、一時、山内上杉氏の拠点の城として古河公方との合戦などに大きな役割を果した本庄市五十子城は、山崎一氏の縄張り図によればこの典型的な城郭である。

 高見城タイプ(第10図) (216kb)
 小川町高見城は長尾景春の乱の時長尾景春勢力の城郭として機能し、太田道灌がこれを攻略、文明12年(1480)11月28日の「太田道灌状」に高見在陣衆を置くという記録にみられるとおり、長尾氏との関係が類推できる城郭である。この城の構造は荒川以南にあるものの、比企の城郭とは根本的に異なった造りをしている。四津山城と別称されるように、城は独立山の長い山頂部を3本の掘切で区切って連郭式の城郭を完成させている。連郭式のこの城郭はそれぞれの郭が独立し、城郭の中での中心が分散しているもので、相互補完の中で防御を完成させ、「一城別郭」の築城思想によっている。高見城は山頂に防御が集中し、斜面部は切落しのみで、他の城郭に一般的に見られる腰郭や竪堀等は基本的に無い城である。このタイプの城は荒川村熊倉城や吉田町竜ケ谷城等に見られる造りで天然の急崖を持つ山頂の特色を活かして縄張りを行い、簡単な地形で防御を完成させている。これは立地の特性を除けば鉢形城タイプに通じる築城思想と考えられるだろう。
 花園城タイプ(第11図)  (439kb)
 寄居町花園城は城郭の縄張り研究をしている人達によって指摘されているように、北条氏邦を娘婿に迎えた在地の武将藤田氏による「藤田流城郭」(中田正光1989)として著名な城郭である。花園城は(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団によって詳細な城郭実測図が作られ、その実体が鮮明になった。城は山頂部に掘切を加え、郭を連続させるという連郭式の城郭である。この城のもっとも大きな特色は、南斜面部に配置される竪堀であろう。4本の大きな竪堀はうち2本が2つの竪堀をセットにし、山裾まで一直線に下ろされる。竪堀の間には大小35余の腰郭が様々な形を持って階段状に配置される。これだけの腰郭の配置は他の城郭には見られない造りであるが、上野では武田氏による築城と『甲陽軍鑑』に記録される山名町根小屋城、長野業尚築城を伝える群馬郡鷹留城跡などの山城に認められる。2本竪堀が一体となって設けられるという藤田氏の築城を伝える城郭は花園城の他に、天神山城、千馬山城等であるが、やはり2本セットの竪堀等が確認でき、これまでも中田正光氏らによって「藤田流城郭」として取り上げられ、多くの縄張図とともに紹介されてきたが、共通する技法は斜面部の竪堀の効果的利用とその間に置かれる多段の腰郭と構堀の多用といえるのではないだろうか。しかし、天神山城は竪堀を除くと腰郭の多用は見られない。
 4 まとめ
 第1期では合戦分布図で見られるとおり、河原や原野での遭遇戦と考えられ、城郭が合戦の中で必要とされなかった事がわかり、しかも築城された形跡が確認されない。
 北武蔵では「享徳の大乱」とそれに引き続いて起こった「長尾景春の乱」の第2期中・後半に城郭の名前が多く登場してくる。合戦の中で城郭の持つ役割が重視されてきた証であろう。
 第2期前半の「上杉禅宗の乱」段階では、方形の居館であったと考えられる野本氏館跡、青鳥城、須賀城の存在が予想される。中期の城郭は江戸城、河越城、岩付城、崎西城、深谷城、五十子陣で『鎌倉大草子』に記される。後期の「長尾景春の乱」の段階では寄居町鉢形城、本庄市五十子城、妻沼町長井城、荒川村日野城(熊倉城)、小川町高見城、中城、毛呂山町毛呂城などが挙げられる。前期、中期の城郭はいづれも平地や台地端にあり、村落に近接した地点という立地条件の中にあり、いづれも館城としても機能していたと考えて良いだろう。そして、合戦の舞台は荒川・元荒川(中世は荒川)以北を主体とする県北東部であった。これによれば、第2段階の境目は常に古河公方足利成氏の影響が背景にあり、埼玉県を東西に分ける元荒川から行田を結んだラインが想定される。第2期後半から登場する県西北部を中心とする城郭は主として山城であり、規模も比較して小さい。打ち続く戦乱の中で城郭に求められる機能が大きく変わっていたことを示しているだろう。
 第3期は荒川ラインと都幾川・槻川ラインを境目としての戦乱が主体となる段階であり、主要な城郭が槻川・都幾川ライン上に横一直線に配置される比企の城郭は、この戦乱の中で山内上杉勢力に対する「境目の城郭」として存在したと考えるのがもっとも妥当ではないだろうか。
 これに対して松岡氏は「永禄4年から6年にかけての松山城攻防戦を頂点として、後北条氏はこの領域が「境目として求められる多用な機能を担わせるべく多数の城館を新築、改修してきたと思われる。」とし、この城郭群を後北条氏によって対上杉氏対策として第4期に整備された境目の城郭群と位置づけている(松岡1991)。
 第4期では後北条氏による江戸城攻略を契機としての武蔵支配への展開を位置づけたが、松山城の攻防に重点が置かれ、どう仕置きするかに腐心していると考えている。特に前半部の永禄3年から天正2年に至る北関東の攻防戦は後北条・武田氏連合対上杉氏の総力戦であった。上杉方は深谷城、忍城、岩付城ラインを最前線と位置づけ、主要な勢力であった岩付太田氏は荒川を越え東部からの攻撃に参加し、上杉氏はその支配下にあった羽生城を基点とする攻撃を中心としていたと見られる。この段階では深谷ー元荒川ラインを境目としていることが考えられるので、先の松岡氏の見解はとらない。一方、後北条氏の築城手法とされる(池田1988,1989)「障子堀」を備える所沢市滝の城、加須市花崎城、騎西町騎西城、伊奈町伊奈氏館と崖端にあって滝の城と構造が似ている狭山市城山砦(柏の城)、教本どおりの築城技術で造られ16世紀の城郭といわれている嵐山町杉山城等、構造的観点から築城期を考える必要がある城と、大築城のように歴史的観点からこの期に位置づけられる城がある。この中で騎西城は第2期の康正元年(1455)に足利成氏に攻められると鎌倉大草子の記載されるので、障子堀を後北条氏のものとするなら障子堀段階は修築期のものと理解すべきだろうが本稿ではこれについて論究しない。また、北武蔵北部・西部では越後上杉氏と武田氏が児玉・秩父にたびたび侵入し、小競り合いが行われ、北条氏邦支配の北武蔵の中では合戦の中心が北武蔵北西部になる。また、北条氏支配が成立するまでには秩父でも争乱(郡内一乱)が起き、永禄4年には逸見氏を旗頭とする一揆が上杉氏に呼応して高松城に立て籠もり氏邦に対抗している(加茂下1992)。また、16世紀後半では武田氏の武蔵侵入に伴って小鹿野町日尾城、雉ケ岡城、御獄城等を中心とする合戦が起こるというおおよその特色をとらえることができる。
 このように見てくると合戦史上で見られる城郭の主な築城期は第2期〜第3期に其の出現の必然性があったと考えることができる。
 次に、4つにタイプ分けを行った北武蔵の城郭であるが、これは城郭に見られる技法上の癖から築城者や其の年代を推し測ろうとするものである。群馬県内を中心として関東の城郭をつぶさに観察してきた山崎一氏は戦国期の城郭を検討して、築城者は特定できず、「すべての将士はすべて築城学者であり、築城家であったと極言できる程、」といい「北条流、武田流、上杉流など築城学の流派を作ったのは、江戸時代の机上軍学者達だったのである。」(山崎1988 10p)とまで言い切っている。しかし、城郭を観察して、この中に腰越城タイプ、鉢形城タイプ、高見城タイプ、花園城タイプの4つのタイプに北武蔵の城郭が大別できることを考えたとき、少なくともその地方に根付いた武将達に少しでも近づくことができるのではないだろうか。
 まず、腰越城タイプであるが、このタイプは近世城郭の初現的なタイプの城郭と考えられている。比企の城郭は吉見町の松山城を東端とし、都幾川・槻川に連続して存在する城郭群として確認される。この並びは松山城ー青鳥城ー菅谷城ー小倉城ー青山城ー中城ー腰越城ー安戸城となり、上田氏本領の地を横一直線に貫く。それぞれの城郭は、構造的には全く同じではないが、それぞれ上田氏ゆかりの伝承を持つ。そして、長享年間に起きた山内、扇谷両家の関東管領職をめぐる争乱の中では、この城郭ラインと北に横たわる荒川ラインとの間は境目として主たる合戦の舞台であったのである。 
 特に、比企西部の大河原・西の入り筋を支配する上田氏に関しては、太田道灌状の記載から、小河に住していたことが知れるが、太田道灌の宿所は八幡台の東端の崖縁に築かれた単郭の城郭で、屏風折りを持った複式の土塁と食い違いの小口等、構造的な特色の他、発掘調査の結果から15世紀後半の城郭であることがあきらかになった中城であったと考えられる。
 比企の境目の城郭群をタイプ分けの観点で観察すると極めて多岐にわたる。腰越城タイプは腰越城、大築城が明確に位置づけられる他、多郭、複雑な縄張り、小口等の工夫という点で松山城、小倉城が加えられるだろう。青山城は高見城タイプとなり、高谷砦、安戸城は中心の郭が鉢巻き状の腰郭(堀)を備え、菅谷城は渦郭式、単郭の中城、山田城、水房館そして、青鳥城、杉山城を含め上記の4タイプに分類されない城郭が多数あり、山内上杉勢力圏内の城郭構造に比べて極めて複雑な様相を呈している。
 鉢形城タイプと同一のパターンを持つ城郭は、荒川右岸で諏訪城、宮崎城、金仙寺城、左岸では永田城、吉田川流域では秩父氏館、木暮城となり、荒川をさかのぼった秩父地域に集中している。これらの城郭は河川沿いにあって眼下の河川を通過する船などには有効であろうが、荒川筋では永田城を除いて、規模も小さく、段丘下部にあるので、上の段丘から見下ろされるという欠点がある。それでも集中して形成されることは、このタイプの城郭が担ったであろう役割と大きく関連しているものであろう。秩父地域は北武蔵の合戦史の中では第2期と第4期に中心があるが、特に第2期後半では長尾景春の退路として秩父が重要な地域を示す。秩父は「景春の従兄犬懸長尾景利の所領が秩父内に存在していたこと、秩父に多くの所領を有し、秩父郡内の惣成敗権を成氏から認められていた安保氏が景春方についていたこと、当時の秩父内の社会情勢として反上杉行動をとっていた国人領主が存在し、景春と結びつく可能性が強かったこと等が秩父と景春を結ばせる接点であった。」(加茂下1988 p425〜426)という。鉢形城タイプについて山崎氏は「白井城、鉢形城、八崎城、柏原城も同様で・・・山内上杉氏・白井長尾氏の築城選地の特色の一つ・・・。白井城、鉢形城、八崎城、柏原城もすべて同型の構えであるので、それが、山内上杉氏と白井長尾氏の慣用築城法と一応いうことができるが、これは尾根式山城の常套経始法を川岸の築城に適用した初期的なもの」としている(山崎1984 135〜137p)が、崖端城のこのタイプの捉え方としては的を得た考え方であろう。これによれば、鉢形城タイプの城は山内上杉系の城郭であるとされるが、確かにこのタイプの城郭は北武蔵においても荒川以北の山内上杉勢力圏内に見られ、長尾氏ゆかりの城郭として存在する。
 高見城タイプの城郭は北武蔵の山城の多くに一般的に見られる縄張りである。山頂を掘切ることによって防御を完成させる手法は、高見城をはじめとして、小川町青山城、高谷砦、吉田町竜ケ谷城、小鹿野町日尾城、荒川村熊倉城、寄居町要害山城、美里町猪俣城、円良田城、神川町御獄城、飯能市リュウガイ城など数多い。この城の特色は極めて単純な構成をとっていることである。高見城の初現は文明12年であり、熊倉城が文明11年、御獄城永禄12年が知られ、長尾景春の乱から以降、山内上杉勢力圏内で見られる特徴的な城郭といえよう。上野では平井城の詰めの城と言われる平井金山城はじめ、山城の多くがこのタイプかあるいは変形タイプの城郭であり、戦国期における山城の最も基本なタイプであったと考えている。
 花園城タイプの城郭については、中田氏によって「藤田流城郭」として花園城、花園御岳城、天神山城、千馬山城の4城が上げられているが、花園城そのものは戦国史に登場してこない。又、小和田哲男氏も「後北条氏の鉢形領と鉢形城」研究の中で鉢形城支城群について論究されているが、この花園城については全く言及されない。花園城については天正元年(1573)の「氏邦印判状」、「丑正月3日付文書」によってのみ類推されるもので、この2つの文書では氏邦が末野在住の鐘阿弥に対して鐘打司と小田原への飛脚役を命じ、その役に対して、鐘打衆20人に末野に屋敷を与えた。このとき氏邦は屋敷を花園山と共に厳密に守るよう命じているのである。花園城がこのとき、空き城であった可能性を考えさせる文書であろう。このことは、豊臣秀吉による小田原征伐に際して作成された「関東八州城ノ覚」にも見られないことによっても理解される。中田氏はこれを、戦略上の観点から説明し、山内上杉氏が衰退していく中で、防御不完全な城を出て、天神山城を築き移り、築城は藤田国行、国村あたりと考え、天神山城は藤田重利築城であるとしている。そして、藤田流城郭の構造は中田氏によって@二本の竪堀を並列して山麓へ落とすA山頂の曲輪を堀で鉢巻き状に取り囲むB縦と横の堀と堀の組み合わせ、とされている(中田1989)。花園城タイプとされる癖の内、鉢巻き状の腰郭は上田氏の菩提寺浄蓮寺の眼前にある安戸城や玉川村小倉城、小川町高谷砦、毛呂山町竜谷山城の扇谷上杉領域圏内の城郭と、山内上杉圏内の美里村白石城などに見られる。花園城タイプに共通していえる特色は、先にも指摘したように竪堀の多用とその間に配置される多段の腰郭と構堀なのである。
そして、この城郭は尾根筋を掘切り、竪堀を加えて連郭式に造るという点ではやはり、高見城タイプであり、鉢形城タイプに通じる築城技法であると考えたい。上野では、根小屋城、鷹留城、国峯城が同類の城郭として上げられる。
 根古屋城は山名町にあり、「甲陽軍鑑」に永禄11年に武田氏築城と記されるが、その時期は山内上杉平井脱出後のことである。国峯城主小幡上総守は山内上杉氏平井脱出後武田氏に従い、武田軍団の赤備騎馬軍団の中核をなす武将である。又鷹留城は長野業尚築城とされるもので、長野氏はその後箕輪城を築城し移った西上野の有力武将である。このように見ると花園城タイプは管領山内上杉氏勢力圏内に見られた築城法の1つで、藤田氏特有な築城手法とは断定できる根拠は乏しい。ここではむしろ藤田氏が援用した築城技法であった可能性を考えておきたい。
 これまでの分析で、腰越城タイプを除く他の3タイプの城郭を詳細に観察すると、狭く切り立った地形をうまく利用する事が共通した基本形である。そして、この基本形を河川の合流点で活用したのが鉢形城タイプであり、山頂で活かしたのが高見城タイプ、山腹の斜面部に防御機能を付加したのが花園城タイプといえるだろう。
 鉢形城築城の景春は白井長尾氏の嫡流であり、山内上杉氏の宰相としてもっとも有力な国人領主である。そして、藤田氏や長野氏、小幡氏も山内上杉氏に従った北武蔵から上野の有力な国人領主達であったのである。これによれば、これらの城郭は上野を中心として発達した築城技法で、多くの有力国人領主達が工夫を重ね、個別に変化を加えて完成させた城郭であったと考えざるを得ない。
 西上野の城郭を観察すると、確かに崖端城の形成に大きな共通点を認めることができ、それが、山内上杉領域圏の中にみごとに収まることが指摘できる。特に腰越城タイプを見慣れたものには、鉢形城タイプを中心とする西上野の城郭を観察するとこれが戦国期の城郭かという危惧をいだく位である。このような実体を現地調査を通してつぶさに観察してきた山崎氏は「山内上杉氏自体他に比し築城への関心が薄かった。平井城の構造や、ただ一つの山内上杉築城の武州五十子城の遺構を観察すれば、そのように感ぜざるを得ない。」(山崎1983 125p)そして、山内上杉氏の戦いについて「野戦または攻防戦であり、その築城の目的は根拠地の構築か、作戦支障点の設定であって、境目の確保とか他からの救援を待つ専守防御、持久防衛の方針を持って行われた築城は、平井城の詰城である日野金山城に見られるにすぎない。」(山崎1983 133p)と言う見解を示している。
 山崎氏は鉢形城タイプの城郭を山内上杉氏による築城と考えているが、むしろこれらの城郭について北武蔵の状況を加味して考えると大方の城郭には共通して長尾氏が絡んでくることが知れる。
このことによっても鉢形城タイプ、高見城タイプ、花園城タイプという特色ある城郭が山内上杉氏領域圏内にみられことの説明が付くだろう。
 これに対して先にも述べたように、都幾川・槻川ライン以南の比企の城郭は各種のタイプが混在していることが捉えられ、合戦史の中では比企を中心とする城郭の形成も第2期中頃から第3期にあったと考えられる。特に、境目に並ぶ城郭群を記録上で見るとその初現と推定されるものは松山城(応永23年)、中城(文明6年)、青鳥城(永享12年)、菅谷城(長享2年旧城)、高谷砦(文明12年)となり、腰越城、青山城、小倉城は全く記録されない。記録上からは菅谷城を除いて第2期に築城が推定されることが知れる。この段階の武蔵は関東管領山内上杉氏を中心に関東の平定に奔走している段階で、足利成氏に対する追討戦として、基本的には山内上杉氏主導の軍略が行われ、それぞれが相次いで築城を進めていたことが知れる。古河公方方による崎西城、関宿城、栗橋城、古河城などの築城に対して、北武蔵では単郭城やいわゆる崖端城のように館城や陣城の機能に主体をおいた城郭から庁鼻和上杉による深谷城築城が行われ、これに歩調を合わせるかのように扇谷上杉側では河越城、江戸城、岩付城の築城が行われた。これらの城郭は縄張り図で見る限り、いずれも各勢力の拠点となる城郭で、大軍の駐屯に適するよう城内を広く取り、多くの郭を連郭等に置き、間には折り歪みを付けた堀や土塁を置き、塁線に多様な変化を加え、複雑な小口を配して専守防衛・持久防衛に重点を置いた城郭であった。しかも攻撃にも配慮を加えた点ではこれまでの城郭とは大きな違いがある。従って、この時期は築城思想の大転換期で近世城郭への出発点と成っているのである。これら複雑大規模な兵站基地とも成りうる城郭を必要とする築城思想は「享徳の大乱」の中で育まれたものと考えることができ、古河公方勢力、山内上杉勢力、扇谷上杉勢力とそれぞれの当事者が、それこそ秘曲を尽くして完成させたものであったのだろう。比企の城郭のうち上田氏の本領内にあって上田氏との関係が極めて大きい腰越城、大築城、青山城及び、松山城には小口前郭の配置など、特有の築城技法が見られ、この技法は「関東巧者之面々」の一人上田氏による可能性が高いことはすでに指摘してある(梅沢1988)。専守防衛・持久防衛思想に基づく築城技術が上田氏によって凝縮されたものが腰越城であったと考えて置きたい。
 以上、北武蔵の城郭について現在知られる縄張りを中心として構造分類を試みてきた。築城時期については大凡の位置づけが可能となったが、当初の目論見と異なって、4つのタイプに分類したものの、タイプ毎の地域分けや、築城グループ分けなどは明瞭に区別できなかった。しかも築城者などについても、鉢形城タイプの城郭は山崎一氏が崖端城は「山内上杉氏、白井長尾氏の慣用築城法」との指摘を再確認することになった。その結果、第2期後半に北武蔵を騒乱に巻き込んだ長尾氏が好んで用いた築城技法であったと考え、高見城タイプ、花園城タイプもまた、その流れの中にある城郭であった事を指摘するにとどまった。又、今回の検討の中で、第2期後半に登場をし、上田氏在城と考えられる中城をはじめとして、羽尾城、山田城等の比企の単郭城や、秩父地域内の荒川沿いに主として存在する鉢形城タイプや、小規模な高見城タイプの城郭については、在地国人層・土豪層の館城、あるいは「村の城」(藤木1997)という観点からも考えていく必要もあろうが、紙数の関係もあり十分に検討することができなかった。これらはひとえに筆者の力量不足の結果であり、大いに反省している。今後さらに研究を深め、その機能や築城者に迫って行く努力を約し、本稿を終わりたい。
 
 参考・引用文献
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<参考>北武蔵の城郭に関する主な記録等
菅谷城
       長亨2年(1488)須賀谷原合戦。             
・『梅花無尽蔵』長享2年8月17日
       17日、入須賀谷之北平沢山、問太田源六資康之軍営於明王堂畔
       6月18日須賀谷有両上杉戦死者7百余矣、馬亦数百匹、
       9月25、太田源六、於平沢寺鎮守白山廟、詩歌会、與敵塁相対、
・『松陰私語』に先年(長亨2年1488カ)山内與河越矛楯・・・、向河越、須賀谷旧城再興、当鉢形普請堅固取極、
・「佐竹文書」に永正2年(1505)上杉顕定、扇谷上杉朝良の軍を相模・武蔵に破り、朝良を江戸城に引退させ、須賀谷の陣に凱旋。(実田城落城時)
松山城 
・『北條記』に此城と申は上田左衛門尉とり立しより
・『関八州古戦録』に扇谷の宿老武州安戸の城主上田左衛門大夫初めてこれを築き、
・『鎌倉大草子』に応永23年(1416)(鎌倉六本松にて)上田上野介松山城主(法名貴道)討死
・松山城主上田朝直は能登守を名乗るが、これ以前の蓮を法名に付けるグループとは同系の一族であろう。このことは、県指定史跡である浄蓮寺上田氏墓の3基の石製宝塔によって類推できる。これを参考にすれば、松山城主の系列は次のようになるだろう。
上田上野介(1416没)ー( )ー上田上野介(1474小河在郷)ー上田蓮忠(1518没)ー蓮聖(1543没)ー蓮順・小三郎(川越夜戦松山落城時1546.4没)ー蓮好(1571没)ー宗調・能登守朝直「暗礫斎、又次郎政広」(1545.8松山城代、1582没)ー蓮調(能登守長則1583没)ー日定(上野介憲定1597没)
・『川越記』には天文6年(1537)松山城主難波田善銀とある。
中城  
・「太田道灌状」に文明6年(1474)上田上野介在郷の地小河
 発掘調査結果15世紀後半
高谷砦
・「太田道灌状」に文明12年(1480)竹沢辺から高見辺に打ち出し間の山中に陣を取る
青山城 
・『関八州古戦録』に青山、腰越の両砦と共に堅固に相守らせ、
腰越城 
・『小田原編年録』上田上野介居しという 要害山上にあり
・『武蔵志』古城あり上田上野介居しと 
・『新編武蔵風土記稿』山田伊賀守直定が住せし所なりしと
安戸城  
・『寛政重修諸家譜』に山田某、安戸城に住し法名道存、寛永元年4月朔日没、
古寺砦
・発掘調査が昭和63年に行われた。慈光寺裏街道を眼下にする山間の山頂に存在する。尾根の先端部を南に設けた掘切で断ち切り、二段に郭を設けている。郭は切落しによって地形され、最高部にあるUの郭は27m×19mの規模を有している。下段のTの郭には土橋状の通路をわたって下る。一の郭にはのろし台と見られる焚き火土壙があり、調査者はここが慈光寺を押さえるための一時的な砦であったと考えている。築城年代は出土遺物から15世紀後半と見られる。(小宮山克巳1999)
青鳥城 
・『鎌倉大草子』に永享12年(1440)8月長棟庵主(上杉憲実)は7月8日神奈川を立、野本・唐子に逗留・・・
・『太田道灌状』に文明10年(1478)7月上旬 此河越立、井草与申所著陣、同十三日青鳥江寄陣、
・大規模な城郭であるが、実体は不明。二の郭の発掘調査では、蔵骨器などが多量に出土している。(吉川他1974)
越畑城  
・発掘調査の結果、15世紀後半と見られるもので、本郭部には大きな焚き火用の土壙が掘られ、内部には焼き焦げた籾殻が多量に残り、ここが狼煙台であったことを示していた。(梅沢他1979)
高見城 
・文明12年(1480)11月28日の「太田道灌状」に高見在陣衆を置く   
大築城  
・『慈光寺実録』に北条氏康の臣松山城主上田朝直大津久山に出陣
・天文15年(1546)の川越夜戦以降、天文19年(1550)までの間に慈光寺焼き討ちをしたと考えられる。(梅沢1998)
毛呂城
・「北条氏綱書状」に大永4年10月10日山内上杉憲房が毛呂要害を攻撃、和議により毛呂城衆は城を憲房勢に明け渡すとある。
・「太田道灌状」には毛呂三河守が長尾景春に同心(埼玉県1988)。
・毛呂には毛呂城と其の背後の竜谷山城がある。要害堅固な城郭は後者であるが、記録には見られない。文明段階の城と大永年間の城が果たしていずれであったか今後十分検討する必要があるだろう。中田氏は後者を毛呂氏の詰城と考えたいとしている(中田1983)。
深谷城
・『鎌倉大草子』に(康正2年)又武蔵国には上杉武蔵入道性順息男右馬助房憲は武蔵の人見へ打て出、上州の味方と引合、深谷の城を取立ける、
五十子城
・『鎌倉大草子』に(長禄元年頃)房顕は武州五十子という所に陣を取、成氏衆と対陣して、
・『鎌倉大草子』に寛正7年2月11日、山の内兵部少輔房顕五十子の陣中にて早世す、
・『松陰私語』に先年(文明9年1月18日)武州五十子陣諸家退陣之砌、・・・
鉢形城  
・『鎌倉大草子』に其年(文明8年)駿河国に騒乱あり、・・・太田左衛門大夫、同年6月、足柄山を越、・・・、其間に長尾景春武州鉢形の城に移り・・
・『松陰私語』に文明8年(1477)景春が鉢形城に拠り五十子を攻める。
・「太田道灌状」に文明10年(1478)太田道灌、景春を敗走させる。上杉顕定が入る。
・『松陰私語』に先年(長亨2年1488カ)山内與河越矛楯・・・、向河越、須賀谷旧城再興、当鉢形普請堅固取極、
・「北条氏邦書状」に永禄12年武田信玄鉢形城攻める。
花園城 
・藤田康邦築城とするが、記録に登場しない。
・「氏邦印判状」天正元年(1573)に末野の鐘阿弥、氏邦から鐘打司に任命される。屋敷を与えられ、小田原鉢形の1月に5度の飛脚役に当たる。
・「丑正月3日付文書」20人の末野の飛脚鐘打は、氏邦から屋敷を与えられ、花園山と共に厳密に守るよう命じられていた。県史ではこの年代を天正17年としているが天正5年でも不都合はない。
天神山城
・『豆相記』に天神山城守藤田右衛門佐。天文20年氏康・氏政に帰順。『鎌倉九代後記』では天文15年としている。
『新編武蔵風土記稿』に弘治年間まで藤田右衛門佐康邦居城
千馬山城
・別称竜ケ谷城。
・用土新左衛門在城は「乙千代判物写」『新編埼玉県史資料編6p172』により確認される。
高松城
・逸見若狭住す。逸見蔵人佐は落城後薬王寺開基。家臣小池佐馬助は大塚に土着と伝える。永禄5年以降北条氏邦支配下、以前は秩父衆として高松城に籠もり氏邦に対抗。
・(永禄5年)12月18日の「乙千代代判物」に「今度高松自檜山・・・」とある
・「北條家印判状」に永禄4年(1546)12月3日、北条氏政高松城衆中に城明け渡しを命じる。
・発掘調査が昭和49年に行われ、6つの郭と6本の空堀を含む高松城の全体が調査された。
 この調査を通して高松城の築城年代は16世紀であること、そして、2度の築城期が存在する事が明らかにされた(小林茂1980)。
熊倉城 
・「太田道灌状」に文明11年長尾孫四郎日野城[彼城被討落候事]。
日尾城
・加茂下仁氏は上杉謙信の進軍に伴う永禄4年(1561)秩父郡内「一乱」では日尾城、天神山城を氏邦が攻め支配下に置くとしている。(加茂下1992)
・城主諏訪部遠江守定勝、天正年間築城(16世紀末)ともつたえる。諏訪部氏は氏邦小田原以来の重臣。
御獄城
・『仁王経科注見聞私』奥書に天文21年北条氏康氏は山内上杉方の安保泰広を攻める。御獄一帯焼き討ち、「金鑚山消失一宇不残(長谷川他1995)
・「武田信玄書状写」に永禄12年6月22日御獄城乗っ取り、普請を行い甲州信濃の兵数千を在城させる。
岩付城
・『鎌倉大草子』に長禄元年4月・・・・太田備中守入道は武州岩付の城を取立、
河越城
・『鎌倉大草子』に長禄元年4月、上杉修理大夫持朝入道武州河越の城を取立らる、
・『鎌倉大草子』に(文明9年3月)河越の城には、太田図書介資忠・上田上野介・松山衆を籠、蕨城
・『鎌倉大草子』に長禄元年6月23日、渋川左衛門佐義鏡を大将として武蔵国へ被指下、・・・上祖父左衛門佐義行は・・・・足立郡に蕨と云所を取立居城ににして、
崎西城
・『鎌倉大草子』に(康正元年)成氏天命・只木山へ押寄、・・・・越後・上州の兵ども(長尾景仲)・・・武州崎西郡へ引退て陣を取、
・武家屋敷部分の発掘調査が平成8年に行われ、障子堀が確認された。出土品から調査地点の年代は15世紀中頃から17世紀。(埼玉県埋蔵文化財調査事業団現地説明会資料)
・『鎌倉大草子』に(康正元年)成氏は武田右馬介・里見・簗田・・・に三百騎を指そえ、崎西城を攻らる、
菖蒲城
・『鎌倉大草子』に(享徳4年)簗田河内守結城先陣にて、散々かけ破り道を開き、成氏は武州少府に落られけり、
・発掘調査が平成8年に埼玉県埋蔵文化財調査事業団によって行われ、出土品の年代は15世紀後半から16世紀後半までを示していた。(伴瀬1999)
忍 城
・『鎌倉九代後記』に中務入道宗蓮(成田親泰)が時代に忍某を討取て其所に城を築て居す、
・『鎌倉九代後記』に天文20年武州忍の城主成田下総守長康とある。
 
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