北条氏邦の鉢形城入城をめぐって

『さいたま川の博物館紀要』第6号P46〜56
                   
 
はじめに
 北条氏邦の鉢形城入城について、次のように、永禄三年から永禄十二年までの見解が示されている。
・永禄三年説
中田正光 一九八二『秩父路の古城址』
・永禄五年以前説
「藤田康邦の娘大福御前を妻として、氏邦が鉢形城に入ったのは永禄五年以前のことであろう。」(「三 北条氏邦の鉢形入部と上野支配」『新編埼玉県史』資料編6 九頁)
・永禄七年説
福島正義は不明としながらも氏邦印判状の最古のものが永禄七年であるので、永禄七年以前とする(「第三編第一章第三節二 北条氏邦と鉢形領支配」『寄居町史』通史編三〇〇頁)
「この頃氏邦は幼名を廃し、鉢形城へ入城」(寄居町教育委員会二〇〇四『鉢形城開城 北条氏邦とその時代』七〇頁)
・永禄十二年説 
浅倉直美 一九九七「付論一 北条氏邦の鉢形入城について」『後北条領国の地域的展開』一〇四・一〇五頁 岩田書院)
黒田基樹 一九九六「第三編第四章二後北条・上杉・武田三氏」の攻防と加美郡」『上里町史』通史編上 四五二頁
 これらについては、前述の浅倉・黒田の研究によって、永禄十二年入城説が確定した感がある。しかし、根拠とする文書の解釈に疑問を感じているので、その問題点を若干指摘し、鉢形城の縄張りや交通路の検討を基に、永禄七年鉢形城入城を主張したい。
 
一 鉢形城跡の縄張り
 鉢形城は、関東支配を確立した後北条氏の北武蔵から上野支配の拠点の城郭である。北条氏康四男氏邦が藤田康邦の娘婿として入城し、鉢形領支配を完成させた城郭として戦国史上極めて重要な位置づけがされている。この城郭は、その構造も独特なもので、荒川の浸食地形を巧みに利用して築城した独特なタイプの城郭として知られる。この「鉢形城タイプ」の城郭の出現は氏邦入城以前の山内上杉氏時代の築城に係わる特色として理解される(梅沢二〇〇三)。後北条氏は入城以来、鉢形城を修築した事が伺われ、その範囲は本郭以外の区域となると理解できよう。しかし、別図に示される鉢形城実測図を見ても解るとおり、諏訪郭以西、外郭部分の縄張りが不明瞭で、鉢形城についてつぶさに検討を深めてきた筆者も、その範囲の再検討を進める必要を感じていた。
 そこで、まず、第一に鉢形城の領域について検討し、次に、そこから理解される鉢形城下の交通を分析し、本旨に迫りたい。  第四図は鉢形城とその周辺地域を、明治十八年の迅速図をベ―スに作成した。この中でまず、視点とすべきは鉢形城の領域であろう。これまで鉢形城域とされたものは、第一図に示す町教育委                       員会の実測図である。
これは、あくまでも国指定史跡の範囲を中心としたもので、鉢形城域を網羅したものではない。それは、外
郭が木持地区(氷川台)から完全に見下ろせること、しかも遮断する堀や、土塁が小規模であること、鍛冶郭地区の遮断線の不鮮明さ、大手口と伝える諏訪郭西部地域の遮断線の不安定さなど、鉢形城の縄張りは実測図に示される範囲では、不完全そのものなのである。鉢形城については、実測図の他に、その範囲が知られる資料では、江戸期作成と見られる第二図「鉢形城絵図」(新田氏蔵)〔新編埼玉県史資料編6付録〕が参考になる。この絵図は本城を中心に家臣団の配置を記しているものであるが、地形区分が明瞭でその範囲を押さえられる。家臣配置は小和田の指摘通り(小和田一九八四)であろうが、東端を関山川、西端を土居の沢、南端は深沢川に仕切られる西の入境とする区域が城域であった、という意識が地域民に存在していた事を示していると考えられる。
 この絵図に示される地域について、現状の地形を観察すると、特色ある地形が抽出される。土居の沢については、この沢を境に、立原台と秋山台に分かれるが、秋山台は東に傾斜し、立原台側が断層崖状に川底からの比高八〜一〇メ―トルの障壁をなす。しかも、立原への進入路である旧県道部分には四メ―トル程下がった平坦地が備えられ、橋が架けられる。このあり方は、城郭の視点から見れば、明らかに馬出状の腰郭形成と指摘できる構造である。上の原台と八幡台とを画する東の関山川は、城南中学の東を北流する川であるが、この川は、台地北端部では浸食により、深沢川
 
  
 
 
 
同様の急崖をなし、台地平坦部では幅八〇メ―トル・深さ三〜四メ―トルの水田を形成する。また、この西側にある。長久院川は
障壁となる。一方、北の台地平坦部の構造は幅十二メ―トル程で、
八幡台と氷川台を区画する川であるが、氷川神社口を境に南北の
構造が異なり、北側は浸食が進み、氷川台側が三〜八メ―トルの
中央部に一間程の中堤を置く水田となるが、その水田の区画は左右で全く異なっている。一見、障子堀の存在を考えさせる構造がみられる。関山川・長久院川共に、南端は丘陵を構成する山間に入るが、山懐深くまで小さな水田が作られている。
 南側は深沢川によって構造が区分され、東はそのまま、丘陵を構成する山並み、西側は、車山という独立丘陵を横たえ、南北両端に東西に延びる浸食谷が形成される。車山北麓の谷は上幅一三〇メ―トル・深さ一〇メ―トル程の浸食谷であり、谷底は四〇メ―トル程の幅で水田となる。このように、絵図に示される範囲の地形を観察して示すと第三図となる。関山川から車山北麓谷・土居の沢に囲まれる範囲は、自然地形でも周辺とは隔絶され、城内と城外との遮断線が明瞭にされる。この範囲が鉢形城域としてとらえられる。内宿はまさに城内に置かれた「宿」なのである。しかも内宿の置かれる地域は、第一段丘面にあり、木持面とは約一三メートル下がって鉢形小学校が置かれる荒宿面、さらに五メートルさがって内宿面となり、しかも段丘崖の裾には「長久院川」が廻されるように配置され、宿は城内といっても台地を深く刻んだ東の関山川、西の長久院川と、南側の段丘崖に挟まれた窪地状の限定された地域に隔絶されて置かれた宿であったと理解される。
 
二、問題点の所在
 まず、次の文書に注目したい。
北条氏邦印判状〔逸見文書〕『新編埼玉県史』資料編6―五二〇
敵働由候間、他所へ兵粮為無御印判、一駄も越ニ付者、見逢ニ足軽ニ被下候、其身事者可被掛礫、小屋之義者金尾・風夫・鉢形・西之入相定候、十五己前六十後之男、悉書立可申上者也、仍如件
  (永禄十一年)  
     辰      (象印・翕邦H□)
       十月廿三日
                       氏邦
        阿佐美郷
           井上孫七郎
 
 辰年(永禄十一年)十月二十三日付けで、北条氏邦から児玉の井上孫七郎に宛てた文書である。その文意は「敵が動き動き出したので、印判の無い兵粮は一駄たりとも他所へ持ち出させないこと、見つけた場合は、足軽に引渡し、磔にする。小屋は金尾・風布・鉢形・西ノ入に置いた」と解される。この文書をよりどころに、浅倉直美は著書の中で次のように述べている。
 「(略)これは、後北条・武田の戦闘状態のなかで、定められた場所以外の「他所」に兵粮を勝手に持ち出すことを禁じたもので、定められた場所とは、金尾・風夫・鉢形・西入に置かれた兵粮小屋であると理解される。鉢形から金尾・風夫・西入は、それぞれ五キロ・四キロ・二キロである。
 この時点で氏邦の居城が鉢形であるとみなした場合、鉢形城を中心とした四か所の兵粮小屋の相関関係、あるいは鉢形に置かれた兵粮小屋と鉢形城の関係など、判然としない点が残される。三年後の元亀二年(一五七一)の段階では長谷部兵庫助ほか小前田衆に対して「当麦を以而五拾俵、御城へ入置ニ付者」と兵粮を「御城」へ搬入するよう命じている(長谷部文書)のに、永禄十一年の場合、鉢形には城と別に兵粮小屋がなぜ設けられているのであろうか。
 そこで、この永禄十一年の段階では氏邦が天神山城に拠っていると考えると、天神山城から金尾・風夫は二.五キロ、鉢形・西入は七キロの距離にあたり、それぞれの兵粮小屋は氏邦の居城天神山から一定の距離に配されていることになる。
(略)氏邦は永禄十二年九月には鉢形城で武田勢の攻撃を迎えていることが知られている。すると、氏邦の天神山から鉢形への移城は、永禄十一年十月二十三日から翌十二年九月の間と推定され、その理由としては、御嶽城をめぐる政治情勢の変化が考えられる。(略)御嶽城が武田氏に帰属すると、その八.五キロメートル南東の天神山城に拠る氏邦は危機感をつのらせ、さらに七キロメ―トル東に位置し、荒川・深沢川の断崖を巧みに利用した要害堅固な鉢形城を急遽修築、防備強化して移城したと考えられる。
この段階に北条氏邦は朱印第U型を使用し始める(略)」。
浅倉直美一九九七「付論一 北条氏邦の鉢形入城について」『後北条領国の地域的展開』一〇四・一〇五頁 岩田書院)
 黒田基樹はこの見解を受けて入城の時期をめぐって「北条氏邦は前年(永禄十一年)十月までは天神山城を本拠としていたが、同十二年九月には鉢形城を本拠としていたことが確認される。すなわち、この間に氏邦は武蔵北西部における軍事的危機の高まりに対応して、本拠を天神山城から要害堅固な鉢形城へ移しているのである。この鉢形移城の正確な時期については不明であるが、同十二年二月二十日に武田勢の鉢形方面への侵攻がみられたこと、同年と推定される二月二十四日付けの深谷(上杉憲盛)宛北条氏康書状に武田方の信濃衆が児玉郡域に進攻して鉢形衆と合戦したことがみえている。鉢形衆は氏邦の軍勢を指し、ここで鉢形衆の名で呼ばれていることは、すでに、二月には氏邦は鉢形城へ入城していたと考えられる。このことが正しければ、氏邦は、武田氏と敵対すると同時に本拠を鉢形城へ移した可能性が高いであろう」。(黒田基樹 一九九六「第三編第四章二後北条・上杉・武田三氏」の攻防と加美郡」『上里町史』通史編上 四五二頁)
 ここで問題にしたい第一は、「小屋」を兵粮小屋と特定したこと
である。文書は先に兵粮の他所への移動を禁止すること、違反した者を見つけたら直ちに磔にすること。後半は、そのための小屋
を金尾・風夫・鉢形・西之入に定めたということである。この中にはけして兵粮小屋とは無く、ただ「小屋」としか記録されない。
 
 
 
                   そこで、北条氏邦の鉢形城入城時期の理解にとって、小屋の性格
を検討することが、極めて重要になるだろう。この問題を考える視点として、鉢形城周辺の交通について考えたい。
 鉢形城時代の主たる交通路について、斎藤慎一の研究が示された。斎藤は、鉢形城を中心にした北武蔵の支配構造の中では、中世前期まで主要な交通路であった「鎌倉街道上ツ道」の今市―塚田―赤浜―荒川―小前田―用土のルートはその役割を終えていた。そして、小川から鉢形城をかすめるルートの存在を指摘した(斎藤慎一 二〇〇五「中世東国の街道とその変遷」『戦国の城』八五頁)。この中で、「山の辺道」コース設定は重要な視点であるが、鉢形からの秩父道が忘れられ、東秩父を経由するルートが設定されたことには賛成できない。第四図に鉢形城周辺地区における交通路の復原した位置を示した。それぞれ、「小川道」・「秩父道」・「金尾・岩田道(仮称)」として近代まで主要な生活路として活用され続けている。
 小川道は、戦国期には松山領上田氏の本拠が推定される小川から勝呂・木呂子を通る「西ノ入筋」として「北条家制札」(浄蓮寺古文書)に記される(梅沢太久夫二〇〇五)道である。この道は木呂子から三ケ山を通過する「児玉道」と、鉢形城南部をかすめ、秩父道へと連なる「西の入道(仮称)」に分かれる。「児玉道」は南方院前で、関山川の急崖に置かれた関山小路に入り、関山川を越えて、内宿の甘粕小路から「荒神渡」(下船渡)で渡河して児玉方面へと通る。一方、「西の入道(仮称)」は五の坪川沿いを下るルートであり、鉢形城手前で五の坪川に通路を遮断され、車山の南方を西に折れ、「秩父道」に連なる。
 「秩父道」は熊谷から秩父に抜ける近世の「秩父往還」で、皆野町三沢から釜伏峠を越える山道であり、主要な交通路であった。熊谷や児玉方面からの道は寄居を通過し、「子持瀬渡」で渡河した。「子持瀬渡」を渡らないで波久礼を通過する「川通り」は交通の難所で、この「山通り」は重要なルートであった。
「金尾・岩田道(仮称)」は荒川右岸段丘崖上を通る道であったという。金尾の「殿倉の渡」で渡河し、末野へ渡るのが江戸期の主なルートであったが、直進する鉢形への道も生活道として存在していたという。この道は折原衆の本拠地を縦断するルートで、「子持瀬渡」手前で秩父道に合流している。
 永禄七年頃の鉢形城域を特定することはできないが、本曲輪部を基点として、二の曲輪・三の曲輪へと拡張されたことは間違いない。仮に、この時点で本曲輪のみの城域ととらえても、周辺地域の地形には変化がないので、外部からの進入路の基本ルートは変わらないだろう。この検討によって、先に示した城下に置かれた「小屋」の位置が○印地点付近に浮かび上がる事になる。
 氏邦文書には「金尾・風夫・鉢形・西之入」と小屋の所在地が示されるが、これらは、第四図のルート図から、金尾は「金尾・岩田道(仮称)」の金尾で、ここには金尾要害山城があり、その裾に金尾金兵衛屋敷と伝える屋敷地が調査されている。道はその直下を通っている。風夫は寄居町風布で、「秩父道」がここを通過し、峠の要所、釜山神社の所在する釜伏峠もこの風布地区内である。
 西之入は「西の入道(仮称)」にあったことは間違いない。城内と城外を区画する深沢川上流部の五の坪川と三品川の合流点落合橋部分が入桝状の地形を示しており、この付近が想定される。最後の鉢形であるが、「児玉道(仮称)」が内宿にはいり、荒神渡手前で泉福寺を配して、枡形状に通路が入り組んでおりおり、重要な防御線が置かれていたと見られるので、この地点であったと考えたい。これらの小屋所在場所地点は、交通の要地に位置づけたが、『小川町史』のように「避難小屋」とする観点(田代 脩 二〇〇五『小川町の歴史』通史編上 二八〇頁)では承知される場所ではない。そこで次の文書を考えたい。
 北条氏邦印判状〔逸見文書〕『新編埼玉県史』資料編6―四二五
卅人之足軽衆、十騎宛三番ニ積、中三日用意ニ而、西入りヘ罷越、新井如申可走廻、少も横合非分之儀、自今ニ入耳ニ付者、可成敗者也、仍如件、 
    ((永禄八年))     (象印・翕邦H□)   奉之
      正月十五日           三山  
      野上
        足軽衆中
 これは、長瀞町野上の足軽衆宛文書であるが、三十人の足軽を十人づつ三グル―プに分け、中三日の食料を用意して「西の入」に詰め、新井氏の指示に従って働けというものである。明らかに、「西の入」に「番衆」が配置されたことを示す。永禄八年と推定され、正月十五日付のものであるが、鉢形城下南部地域の「西の入」地区に、番小屋が配置され、番衆が詰めていたことを示すものと解せる。このことによって、先に示した小屋の位置比定は妥当性が見いだせるものとなるだろう。特に、西の入りには小川町奈良梨八幡神社蔵の鰐口銘文(『小川町の歴史』)によって弘治三年(一五五七)新井佐土守の在住が確認される。
 
 三 まとめ
 以上の検討によれば、鉢形城下周辺に位置づけられる「金尾・風夫・鉢形・西之入」に置かれた小屋は、鉢形城下への主要な交通路に置かれた「番小屋」であったと理解される。
 このことは、先の北条氏邦文書発給の永禄十一年十一月時点では鉢形城が北条氏邦支配の重要な拠点となっていたことを伺わせるに十分と言えよう。従って、冒頭示した北条氏邦鉢形城入城の時期決定根拠が覆される結果となり、改めて入城時期を検討する必要が生じる。
 北条氏邦の支配を考える上での画期定め、その中にみられる主な事柄をあげるとつぎにようになる(浅倉一九九七)
第一段階
永禄四年(一五六一)から五年にかけて用土新左衛門尉などを 先鋒として秩父地域攻略の軍を進めた(『新編埼玉県史』資料編6 ―三二七)
 高松城・日尾城・天神山城をおとす(『新編埼玉県史』資料編6―一 六四五)
永禄五年、用土新左衛門尉は金鑚御嶽城普請(『新編埼玉県史』資  料編6―三五六)
永禄六年、用土新左衛門尉の軍功に対して、北条氏は加美郡長  浜郷・児玉郡保木野之村秩父郡久長村の所領宛行(『新編埼玉県  史』資料編6―三七〇)
第二段階
永禄七年、北条氏邦は幼名乙千代を廃し、氏邦を名乗る。第T  型朱印を使用(『新編埼玉県史』資料編6―四〇五・四〇六)
  北条氏邦、領地宛行を実施。
○ 永禄八年、西之入に野上足軽衆を番衆として派遣(『新編埼玉県史』資料編6―四二五)
第三段階
永禄十二年、北条氏邦は第U型朱印使用(『新編埼玉県史』資料編6―五八〇)
 永禄十二年二月、甲相同盟破綻(『新編埼玉県史』資料編6―五三〇)
永禄十二年九月、鉢形城・金鑚御嶽城攻略(『新編埼玉県史』資料編6―五九四)
元亀二年末、甲相一和(『新編埼玉県史』資料編6―七一九)
第四段階          
天正八年十二月、第V型朱印使用 (『新編埼玉県史』資料編6―一 〇五二)。
上野に北条氏邦を奉行人とする箕輪領が形成される(浅倉一九九七)
 以上の通りであるが、先の「小屋」の検討により、永禄八年以前に、北条氏邦は鉢形城に入城を果たしていたと考えられることが窺えた。政治・軍事的動向を検討しても、永禄七年には秩父・児玉地域を支配下に治め、乙千代名を廃し、氏邦を名乗り、北条家支配の基本的行為とされる朱印状の発給を実施している。
 朱印状の発給の持つ政治的役割や意味については、黒田基樹の示唆に富んだ研究(黒田基樹一九九五『戦国大名北条氏の領国支配』岩田書院)があり、参考にされる。それによれば、「北条氏は安堵・充行状系の発給文書には基本的に朱印状を発給していたことが推定される(前掲書五〇頁)」。「北条氏規は永禄十年の永嶋氏宛朱印状を契機に三浦郡の(領の)支配者として現れる」(同七九頁)。さらに「岩付領においても天正八年七月頃までには、北条家朱印状を初めとする岩付領支配の為に発給されてきたものが一切見られなくなる。かわって(岩付城当主発給と見られる)印文不詳朱印状は岩付領支配を象徴するものであったことが解り、その出現をもって独立した支城領として確立をみたといえよう」(同二〇三から二〇四頁)と指摘した。また「このような事例として滝山・八王子領の北条氏照、鉢形領の北条氏邦などがある(同二〇七頁)」と延べ、支城領主として北条家から独立したことの位置づけが示されたものとの見解を示した。ここに、鉢形領における北条氏邦の朱印状発給の意味をとらえる重要な視点をみることができる
 したがって、以上のような視点に立てば、永禄七年の第二段階が、鉢形領支配を完成させ、支城領主となった北条氏邦にとって、最も重要な段階であった。北条氏邦は、関東管領山内上杉氏の居城であった由緒ある鉢形城を、支城領主に最もふさわしい大規模な城として整備し入城した。このことが鉢形領支配の完成を高らかに宣言したプロパガンダであったのである。    
 末筆になったが、本稿を起こすにあたって吉田稔氏には藤田資料、田島栄一郎氏には藤田資料・周辺の地名や交通路の事など種々ご教示頂いた。記して感謝申し上げたい。(原文縦書)
 
 参考引用文献
埼玉県史編さん委員会中世史部会編 一九八〇『新編埼玉県史』資料編6 
中田正光 一九八二『秩父路の古城址』有峰書店
小和田哲男 一九八四「後北条氏の鉢形領と鉢形城址」『武蔵野の城館址』 名著出版
福島正義 一九八六「第三編第一章二 北条氏邦と鉢形領支配」『寄居町史』 通史編
寄居町教育委員会 二〇〇四『鉢形城開城 北条氏邦とその時代』
浅倉直美 一九九七「付論一 北条氏邦の鉢形入城について」『後北条領国の地域的展開』 岩田書院
黒田基樹 一九九五『戦国大名北条氏の領国支配』岩田書院
黒田基樹 一九九六「第三編第四章二 後北条・上杉・武田三氏の攻防と加美郡」『上里町史』通史編上 
斎藤慎一 二〇〇五「中世東国の街道とその変遷」『戦国の城』古志書院
田代 脩 二〇〇五「第三章第一節上杉謙信の関東出兵と越相同盟」『小川町の歴史』通史編上
梅沢太久夫二〇〇五「武蔵松山城主上田氏と松山領」『戦国の城』古志書院