河越館跡
所在地 埼玉県川越市上戸207ほか
歴 史 河越氏の出現は12世紀中頃とされ、源頼朝に使え幕府の要職にあり、北条政権の中でもその地位は揺るぎないものとして大いに活躍したが、建武の中興から南北町の動乱をへて武蔵国留守所総検校職を相伝した有力武将であり、足利尊氏によって相模国守護にまでなる。河越氏は応安元年(1368)に起こった「平一揆の乱」で没落するが、このときには高坂氏や竹沢氏なども所領を没収されている。宝徳元年(1449)の上杉持朝の隠居地「河越」はこの河越館であった可能性が高いと言われている。河越館が再度歴史に大きく登場するのは山内上杉氏の河越城攻防戦に際しての上戸陣であろう。長享2年(1488)の須賀谷原合戦、高見原合戦の後、明応3年(1494)扇谷定正の急逝により、上戸に陣を張り、永正2年(1505)の両上杉の和睦まで続く。この上戸張陣は河越城に撤退した扇谷上杉を追っての滞陣であり、周辺には援軍として古河公方足利政氏の大軍が終結している。
遺 構 河越館跡はこの河越氏の館であり、入間川北岸に接して現存する。史跡の範囲は常楽寺を中心とする東西200m、南北250m程の長方形の範囲である。館跡はこの指定範囲を東側に大きく超えることが最近の調査で理解されているが上戸小学校校庭の入間川に接する東南側は入間川によって大きく削り取られている。館跡の規模について川越市教委は試掘や部分発掘調査の成果などから発掘調査報告書では「方2町を本体とする」ものであるとしているが、実測図や発掘調査成果から見ると、最大時の館跡はあるいは2重方形の区画を持つ阿保境館、中条氏館、増田館等に類似した構造の大規模館であった可能性が考えられる。
現在館跡には僅かな土塁と空堀が見られるが、常楽寺北から東側南半分に深さ1m程の空堀と、西辺に高さ1m〜1.5mの土塁が残っている。館跡は上戸小学校の建設などに伴って史跡外の周辺地域が発掘調査され、ある程度の成果が示されている。特に山内上杉氏の主要な支城で出土することが最近話題になっているカワラケ(中世を歩く会2002)も発見された常楽寺東側の入間川北岸の区域では上幅3〜4mの堀が確認され、その内部区域からは輸入陶磁器や白カワラケの出土が見られ13世紀後半から14世紀中頃の平一揆の乱段階では館として重要な機能を有していると共に、館跡の中でも主要な地域であったと考えられている。また、北側の上戸小学校敷地内では入間川に直行する大きな堀が確認されている。常楽寺周辺の指定地内は史跡整備に伴う事前調査が行われているが、川越合戦時における山内上杉氏の上戸陣以降の遺構や遺物が散見されている。特に、河越館終期段階にあたる大道寺氏段階では、防備を施した大規模な館遺構は確認されていないものの、この館に後北条氏に支配が及んでいた事が市教育委員会によって指摘されている。
川越市教育委員会の田中信氏は調査成果による館跡の年代を次のように位置づけた(田中2000)。
第T期 河越氏の時代前期(12世紀後半〜13世紀中頃)
上幅約1.5mの堀による方30m区画
第U期 河越氏の時代後期(13世紀後半〜14世紀中頃)
3〜4m程の薬研堀の堀による方1町ないし、50間の区画。
第V期 常楽寺の時代(14世紀後半〜15世紀中頃)
1368年・平一揆の乱終焉、河越氏館に付随した持仏堂を起源
堀は確認されていない。土壙、集石墓、地下式坑が所在。
第W期 上杉氏の時代(山内上杉の上戸陣、15世紀後半〜16世紀初頭)
上幅3mを越え、箱状の堀が多く掘られる。
第X期 大道寺氏の時代(16世紀中頃〜16世紀末、大道寺氏の墓所が置かれる)
堀は確認できない。後北条氏の主要支城から出土する特殊のカワラケ出土。
