中世後期の北武蔵における合戦年表
西暦 和 暦 月 日      出    来     事   出   典
1333







 
正慶2
(元弘3






 
 5 8 新田義貞、上野に挙兵、武蔵に入る。 7-P.746『太平記』
 5 10 桜田貞国、新田義貞討伐のため入間川に向かう。 7-P.748『太平記』
 5 11
 
鎌倉勢と新田勢小手指原で合戦。新田義貞は入間川に、桜田勢は久米川に布陣。 7-P.749『太平記』
 
 5 12 新田勢久米川陣を攻略、鎌倉勢分倍に退く。 7-P.750『太平記』
 5 15 北条高時、分倍河原で新田勢を破る。 7-P.750『太平記』
 5 16
 
新田義貞、分倍河原合戦で勝利する。
安保道潭、鎌倉勢として討死。
7-P.750『太平記』
7-P.919『梅松論』
 5 18 稲村ケ崎の合戦 7-P.755『太平記』
1335



 
建武2



 
 7 22
 
北条時行、足利直義軍を破って武蔵に入る。女影原、小手指、府中と連破。  《中先代の乱》 2-p.255『太平記』
7-P.920『梅松論』
 7 23
 
北条時行、鎌倉を攻撃。足利直義、護良親王を殺害、成良親王、足利義詮と共に三河国に逃れる。 2-P.255
 
11 19 新田義貞、足利尊氏を鎌倉に攻める。 7-P.763『太平記』
1336 建武3 12 足利尊氏幕府を開く。《建武式目の制定》  
1337

 
建武4

 
12 13 北畠顕家、利根川に至り、北朝方を破る。 5-No.787
12 16
 
北畠顕家、足利軍と武蔵安保原で合戦。
 
5-No.318『大国魂神社文書』
1340 暦応3  9 8 矢部定藤、村岡宿に着到(高師冬陣営か)。 5-No.335
1351

 
観応2

 
12 17 高麗経澄、足利義詮の命を受け鬼窪(白岡)に挙兵。 5-No.380『町田文書』
12 19 浦和市羽祢蔵、入間郡阿須垣原に戦う。 5-No.380『町田文書』
12 20 小沢城を焼く。 5-No.380『町田文書』
1352




 
文和1




 
閏2 18
 
新田義宗・義興ら上野、武蔵を制圧し鎌倉に入る。
足利尊氏、武蔵狩野川に敗走。
7-P.817〜823『太平記』
 
閏2 20
 
これより先、新田義興、武蔵関戸に陣し、足利尊氏、武蔵矢口に陣す。この日、両軍、人見原・金井原に戦い義興破れる。 5-No.392『町田文書』
 
閏2 28
 
《笛吹峠合戦》 宗良親王・新田義宗は足利尊氏と小手指原、入間河原、高麗原に戦い、 尊氏を破る。 7-P.822〜827
『新葉和歌集、 太平記』
1353 文和2  7 28 足利基氏、鎌倉を出て関東に下向。 7-P.867『鶴岡社務記録』
1358 延文3 10 10 足利基氏、新田義興を太田区の武蔵矢口渡に討つ。 7-P.839『太平記』
1363


 
貞治2


 
 3 24 足利基氏、上杉憲顕を関東管領とする。 2-P.304『上杉文書』
 8 26

 
足利基氏、宇都宮氏綱・芳賀高名らが上杉憲顕を討たんとするを聞き、鎌倉を発す。次いで、氏綱らと東松山市岩殿山及び下野夫玉らに戦い敗る。 5-No498,450,451
『太平記』等
 
1368

 
応安1

 
 2 8 平一揆、河越氏・高坂氏ら河越館に立て籠もる。 8-P288『鎌倉九代後記』
閏6 17 足利氏満、上杉憲顕・同朝房らを率い平一揆を河越に撃退。 市史2-587『喜連川判鑑』
 8 6 足利氏満、宇都宮城を攻める。 8-P288『鎌倉九代後記』
1369
 
応安2
 
 6 15 足利氏満、竹沢左近将監入道跡竹沢郷を藤田覚能に与える。 5-No477『円覚寺文書』
10 野上下郷に妙円尼が仲山城主阿仁和直家の供養塔建てる。 県指定史跡
1370

 
応安3

 
 2 15 足利満詮、関東下着、武蔵本田に陣す。 8-P.288『鎌倉九代後記』
10 3
 
足利氏満、武蔵に出陣。
 
7-P890
 『空華日用工夫略集』
1380 康暦2  6 15 足利氏満、小山義政追討のため府中に着陣。 5-No511『正木文書』
1381 永徳1 11 16 白旗一揆、小山義政の鷲城を攻略。 8-P45『鎌倉大草紙』
1382
 
  2
 
 3 23 小山義政祇園城を自焼、糟原の奥に城を構えて立て籠もる。 8-P46『鎌倉大草紙』
 5 1 足利氏満村岡陣より鎌倉に帰陣。 8-P46『鎌倉大草紙』
1386 至徳3  6 26 足利氏満古河で小山義政の子若犬丸と戦う。 8-P.289『鎌倉九代後記』
1396
 
応永3
 
 2 13
 
小山若犬丸小山城に入る。足利氏満古河城に出陣、若犬丸奥州へ退散。 8-P.289『鎌倉九代後記』
 
1416

 
応永23

 
10 2 足利満隆・上杉氏憲(禅秀)鎌倉を襲撃、管領足利持氏敗走。 8-P.57,58『鎌倉九代後記』
12 6 松山城主上田上野介鎌倉六本松にて討ち死に。 8-P.56『鎌倉大草紙』
12 25 上杉憲方、江戸・豊島・二階堂らと入間川に戦い敗走。 8-P.58『鎌倉大草紙』
1417
 
応永24
 
 1 5
 
足利満隆・氏憲ら江戸・豊島の兵を相模世谷原に破る。
武州白旗一揆などの鎌倉府軍、高坂に布陣。
8-P.60『鎌倉大草紙』
市史2-636
1421 応永28  9 吉見範直、甲州へ発向。 7-P.864『鎌倉大日記』
1426
 
応永33
 
 8 1
 
武蔵七党、足利持氏の武田信長退治にあわせ秩父口より甲斐に乱入。 8-P.66『鎌倉大草紙』
 
1436 永享 8   足利成氏、古河城に入る 8-P.67『鎌倉大草紙』
1438
 
永享10
  
 8 28 永享の乱》幕府、上杉憲実の報により足利持氏を追討。 2-P.368『県史通史編2』
10 28 上杉憲実、足利持氏を入間川に破る。 8-P.295『鎌倉九代後記』
1439 永享11  2 10 足利持氏自害。 8-P.81『鎌倉大草紙』
1440






 
永享12






 
 7 1 一色伊予守武州北一揆と須賀土佐入道の宿城を攻む。 8-P.86『鎌倉大草紙』
 7 3
 
庁鼻和上杉性順・長尾景仲、成田館に出陣、一色伊予守と合戦。 8-P.86 『鎌倉大草紙』
 
 7 4
 
一色伊予守、荒川を越え村岡河原に進出、上杉性順(憲信)、毛呂三河守らに敗退。 8-P.86『鎌倉大草紙』
 

 
長棟庵主(関東管領上杉憲実)は神奈川を発ち、野本・唐子に逗留し、8 月9日小山荘祗園城に着く。 8-P.86『鎌倉大草紙』
 7 29 《結城合戦》 上杉清方・長尾景仲ら結城城を囲む。 8-P.88『鎌倉大草紙』
1441
 
嘉吉1
 
 4 16 結城城陥る。結城氏朝戦死。春王。安王・永寿王捕えられる。 8-P.90『鎌倉大草紙』
 4 結城方の慈光寺井上坊、吾那次郎古河城にて討死 。 8-P.92『鎌倉大草紙』
1449
 
宝徳1
 
 1 足利持氏の遺児永寿王(成氏)関東管領となる。 8-P.98『鎌倉大草紙』
 9 9 足利成氏鎌倉に入り、上杉憲実逃去る。 8-P.99『鎌倉大草紙』
1450 宝徳 2 10 幕府、足利成氏と上杉憲忠・長尾景仲・太田資清和睦。 8-P.103『鎌倉大草紙』
1455







 
享徳4



 
 1 21
〜22
足利成氏、上杉房顕・長尾景仲らの兵と分倍河原に戦い、上杉憲顕が戦死する等上杉側大敗。《享徳の大乱起こる》 8-P.108『鎌倉大草紙』
 
 5 14 大袋原合戦。 5-No.847
 6 16
 
今川範忠、鎌倉に足利成氏を攻める。成氏、菖蒲に落ち、古河県に敗走、下川辺城に立て籠もる。 8-P.112『鎌倉大草紙』
 
康正1
 

 
  庁鼻和性順、古河城の向城として埼西城取り立て。 2-P.399
12 6

 
足利成氏、埼西城に上杉房顕・長尾景仲を攻める崎西城落城(武蔵崎西郡の合戦、上杉方惨敗)。
 
8-P.117『鎌倉大草紙』

 
1456



 
康正2
  

 
 
  庁鼻和性順深谷城取り立て。 8-P.117『鎌倉大草紙』
 9 17 足利成氏・房顕の党、庁鼻和上杉性順父子と岡部原に戦う。 5-No.879
10 人見原合戦起こる。 8-P.117『鎌倉大草紙』
 
 
この年、足利成氏の家老簗田河内守持助が足立郡を制圧、市川城取り立て、大森氏小田原城取り立て。 8-P117『鎌倉大草紙』
 
1457




 
長禄1




 
 4 8 太田資長(道灌)、江戸城を築く。 8-P118『鎌倉大草紙』

 
この頃、上杉持朝、河越城を築き、太田資長、岩付の城を築く。 8-P118『鎌倉大草紙』
 
 6 23 幕府、渋川義鏡を蕨に遣わし、上杉房顕を助けて関東を平定 8-P118『鎌倉大草紙』
10 古河城完成、足利成氏古河城へ移る。 8-P118『鎌倉大草紙』
12 上杉房顕五十子に陣を構える。 8-P119『鎌倉大草紙』
1459
 
長禄3
 
10 14
 
上杉房顕、足利成氏と太田荘会下で戦い上杉教房敗死。
 
5-No.892『足利家御内書(写)』
1466
 
文正1
 
 2 4 南多賀谷・北根原合戦。 2-P.412
 2 12 足利成氏五十子に出兵、上杉房顕と対陣。この日房顕没す。 8-P.120『鎌倉大草紙』
1467

 
応仁 1

 
 9 6 上杉持朝河越にて没す。 8-P.120『鎌倉大草紙』

 
長尾景仲、上杉顕定を越後より招き、平井城を築き、足利成氏と合戦、鎌倉山内に住む。 8-P.299『鎌倉九代後記』
 
1469 文明 1 10 8 上野綱取原合戦 。 2-P.414
1471
 
文明3
 
 6 24
 
長尾景信、赤見城・樺崎城・館林城・舞木城を落し、この日、古河城攻略、足利成氏、千葉に落ちる。 8-P.125『鎌倉大草紙』
 
1472 文明4 騎西の佐々木氏ら成氏に従い古河城奪回、五十子を攻める。 8-P.125『鎌倉大草紙』
1473 文明5 11 24 上杉政真、足利成氏と五十子に戦い敗死。子定正、跡を継ぐ。 8-P.125『鎌倉大草紙』
1474 文明6  1 18 上田上野介在郷の地小河の太田道灌宿所に景春が早朝訪問。 5-No.1003『太田道灌状』
1476
 
文明8
 
 3 駿河の騒乱に乗じ、長尾景春鉢形城に移る。 8-P.126『鎌倉大草紙』
 6 長尾景春鉢形城に拠り、五十子城を攻撃 。 8-P.126『鎌倉大草紙』
1477




 
文明9




 
 1 18 長尾景春、五十子で上杉顕定、定正を破る。 8-P.126『鎌倉大草紙』
 3 太田道灌、長尾景春と戦い上田上野介らに河越城守らせる。 5-No.1003『太田道灌状』
 4 10 長尾方の矢野兵庫助、河越城を攻めんと苦林に在陣。 5-No.1003『太田道灌状』
 4 18 太田道灌石神井城を落とす。 5-No.1003『太田道灌状』

 
太田道灌、上杉顕定・定正を五十子に迎え、景春を用土原に破る。 5-No.1003『太田道灌状』
 
1478


 
 
文明10


 
 
 1 25 太田道灌、平塚城攻略。 8-P.127『鎌倉大草紙』
 2 9
 
扇谷上杉定正軍河越吉見口へ進出。
 
市史2-677『足利成氏書状』
 7 17
 
太田道灌、長尾景春を鉢形城に攻め敗走させる。
足利成氏、上杉顕定と和睦古河城へ入る。顕定鉢形城入城。
5-No.1003『太田道灌状』
8-P129『鎌倉大草紙』
1479 文明11  7 15 太田道灌下総臼井城攻略、この時、鴻台城を築く。 5-No.1003『太田道灌状』
1480

 
文明12

 
 1 20 太田道真越生で長尾景春を破る。 5-No.1003『太田道灌状』
  太田道灌、竹沢・高見の間に在陣、高見城を落す。 5-No.1003『太田道灌状』
 6 道灌は長井城、日野城を落とす。 5-No.1003『太田道灌状』
1483 文明 15 10 5 太田道灌上総長南の城を攻略。 5-No.1003『太田道灌状』
1486

 
文明18

 
 7 26

 
上杉定正糟屋館にて道灌を誅す。河越には曽我兵庫頭、江戸城には曽我豊後守を置く。
上杉顕定は定正を援け高見に出陣。
8-P.300『鎌倉九代後記』
8-P.300『鎌倉九代後記』
 
1488





 
長享 2





 
  松山で両上杉合戦。 8-P.301『鎌倉九代後記』
  上杉定正、勝呂に在陣。 5-No.1019
 6 18


 
須賀谷原の合戦。扇谷上杉定正・朝良・足利政氏・長尾景春対山内上杉顕定・憲房・長尾景長。顕定ら退く。
入須賀谷之北平沢山、問大田源六資康之軍営於明王堂畔須賀谷両上杉戦、死者七百余矣馬亦数百疋』。
8-P.301『鎌倉九代後記』

8-P.784『梅花無尽蔵』
 
11 3 高見原の合戦(扇谷上杉定正対山内上杉顕定) 顕定ら退く 8-P.301『鎌倉九代後記』
      この頃「向河越、須賀谷旧城再興」とある 。 8-P.274『松陰私語』
1494


 
明応 3


 
10 3


 
荒川の合戦、上杉定正落馬死亡。扇谷陣は高見、山内陣は藤田・小舞田。
扇谷上杉朝良は河越城に退き、山内上杉顕定は上戸に在陣、勢力数千、古河公方加勢。
6-P.17,8-P.275,8-P.497
『鎌倉九代後記』
『松陰私語』
 
1496

 
明応5
  
 
 5
 
上杉顕定、足利政氏を奉じ、武蔵柏原に陣し、上杉朝良を討つ。 『狭山市史中世資料編』P.
258  『和漢合図』
 7 上田右衛門尉、相模実田城に拠り上杉顕定軍と合戦 。 6-No.14『上杉顕定書状』
1497 明応6  9 30 古河公方足利成氏逝去。 8-P.302『鎌倉九代後記』
1504



 



 
永正 1



 



 
 8 21
 
上杉顕定、上戸陣から仙波陣に移り、上杉朝良の河越城に迫る。 8-P.302『鎌倉九代後記』
 
 9 27

 
上杉朝良、顕定と立河原に戦う。今川氏親・伊勢宗瑞、朝良を助けるも顕定に負け、河越に敗走。
『松陰私語』では「顕定負合戦也」鉢形城へ撤退と記す。
8-P.302『鎌倉九代後記』
『歴代古案』
8-P.276『松陰私語』
10 上杉顕定河越を囲み、再び戦う。 8-P.302『鎌倉九代後記』
12 1 上杉朝良、上戸陣を攻める。長尾弥五郎以下100人討死。 8-P.498『石川忠総留書』
12 26
 
上杉顕定、実田要害を攻め、落城、上田備前守朝直討死。『松陰私語』では上田上野守とする。 8-P.497『石川忠総留書』
8-P.276『松陰私語』
1505
 
永正 2
 
 3
 
上杉顕定、上杉朝良を河越城に囲む。和睦し、朝良江戸城に退隠。顕定須賀谷に移陣(4月)。 6-No51『上杉顕定書状』
 
1510



 
永正 7



 
 6
 
北条早雲、関東進攻開始。上田豹徳斎、上杉顕定を助け出陣。
 
市史2-739『上杉可諄書状写』
 7 19

 
上田蔵人入道(政盛)、上杉を裏切り北条を助け権現山城に拠る。上杉朝良攻略。蔵人は本学寺地蔵堂を根城に立て籠もる。 6-No.66『上杉憲房書状』『歴代古案』
8-P.303『鎌倉九代後記』
1511
 
永正 8
 

 
古河公方の弟、上杉顕定の養子になり顕実と名乗り、鉢形城に住す。 8-P.304『鎌倉九代後記』
 
1518
 
永正15
 
 4 11
 
北条早雲新井城を攻め、三浦道寸父子討ち死に太田資高、北条氏綱と内応。氏綱江戸城主。 8-P.304『鎌倉九代後記』
 
1519 永正16  8 15 北条早雲逝去。 8-P.498『石川忠総留書』
1521 大永 1  8 28 関東管領上杉憲房、上杉朝興の河越城を攻略 。 8-P.352『北条記』
1522 大永 2 12 3 須賀合戦 。 6-No.96『新居文書』
1524










 
大永 4










 
 1 3 上杉朝興河越着陣。 8-P.498『石川忠総留書』
 1 10
 
上杉朝興、上杉憲房と和解。太田永厳、出仕し羽尾峯で対面。 8-P.498『石川忠総留書』
 
 1 13
 
上杉朝興武蔵高縄原で戦い敗る。上杉朝興、北条氏綱に江戸城を追われ、14日に河越城から松山城に移る。 8-P.304『鎌倉九代後記』
8-P.498『石川忠総留書』
 2 2 岩付城落ちる。城主討死(本土寺過去帳)。 8-P.498『石川忠総留書』
 4 1
 
北条氏綱、蕨城攻略し、橋・門を焼き、破却して江戸城へ引き上げる。 『蕨市史』資料編1-P.615 『足利高基書状』
 6 18 上杉朝興、河越城再興。 8-P.498『石川忠総留書』
10 10 山内上杉憲房、鉢形城に拠り毛呂を攻める。11日入城 。 6-No.101『北条氏綱書状』
10 16
 
北条氏綱、江戸を発し上杉憲房攻略中の毛呂城を救援。和睦。 6-No.101『上杉文書』
 
1525


 
大永5


 
 2 6 北条氏綱、太田資頼を岩付城に攻略 。 6-No.103『上杉家文書』
 3
 
この頃、上杉憲寛、菖蒲城を攻める。北条氏綱、岩付城に派兵。又、葛西城を攻める。太田氏、石戸城へ敗走 。 6-No.103『北条氏綱書状』
6-No.106『三戸義宣書状』
 8 22 白子原合戦に上杉朝興は北条氏綱を破る。800余人討死。 8-P.498『石川忠総留書』
1526

 
大永 6

 
 6 7

 
河越城主上杉朝興蕨城を奪回。

蕨城自落皆伊勢守氏縄家風也
『蕨市史』資料編1-P.621
『続本朝通鑑』
『本土寺過去帳7日上段』
1530



 
享禄 3



 1 3 上杉朝興、遠山直景を吾名蜆坂に攻め、破る。 8-P.498『石川忠総留書』
 1 8 上杉朝興江戸城攻撃、根古屋を焼き、即河越に帰陣。 8-P.498『石川忠総留書』
 6 15
 
上杉朝興、難波田弾正・上田蔵人らの軍を率いて府中へ出陣、北条氏康と小沢原に対陣、敗退。 8-P.304『鎌倉九代後記』
8-P.359『北条記』
 9 太田資頼、岩付城奪回 。 2-P.472
1535 天文 4  8 22 北条氏綱、上杉朝興を河越城に攻める。 8-P.562『快元僧都記』
1537




 
天文 6




 
 5 上杉朝興、川越城内にて没す。 8-P.305『鎌倉九代後記』
 7 15

 
上杉朝定、三木で北条氏康に敗れ、河越城から松山城に退く。この時、深大寺城再興。
 
市史2-No.774〜778,
8-P.361『妙法寺記』、『北条記』
 7 18 北条勢、松山城へ追撃。この時、松山城主難波田弾正。 8-P.306『鎌倉九代後記』
 7 20 松山城落城 。
1538
 
天文 7
 
 7
 
後北条氏と両上杉氏河越にて戦う。上杉朝定討ち死に、上杉憲政上野に敗退。 8-P.306『鎌倉九代後記』
 
1541 天文10 10  河越合戦 6-No.151『北条氏康感状』
1545 天文14  9 26 上杉憲政、砂久保に陣し河越城を攻める。北条勢籠城戦。 8-P.307『鎌倉九代後記』
1546




 
天文15




 
 4 20
 
河越夜戦「古河公方・両上杉(今川義元・武田信玄)対北条、上杉朝定・上田小三郎・難波田善銀敗死 『浄蓮寺過去帳』
8-P.307『鎌倉九代後記』
 
 
(松山城落城、北条氏塀和刑部少輔を城代に置く。 上杉氏敗走) 市史2-No.809
『関八州古戦録』
 8 28
 
太田資正、松山城攻略。上杉憲勝を城主、上田闇礫斎を置く。
 
市史2-No.816
『太田家譜』
1547
 
天文16
 
12 13
 
北条氏康に上田又次郎内応、太田資正を岩付城に囲む。
 
北区史資料編古代中世2-P.146『年代記配合抄』
      この頃、松山城主上田朝直、慈光寺を焼き討ち。 『慈光寺実録』
1550
 
天文19
 
12 31
 
上田朝直、浄蓮寺に大河原の内斎藤分の地ならびに平村のうち山王免の貢租3貫文を寄進。 6-No.192『浄蓮寺古文書』
 
1551
 
天文20
 

 
北条氏康、平井城攻略。忍城主成田長泰・天神山城主藤田泰邦、氏康に帰順 。 8-P.467『豆相記』
 
1552




 
天文21 



 
 1 10
 
山内上杉、白井城から越後長尾氏に拠る。
長尾景虎に関東管領職を譲る。
8-P.308『鎌倉九代後記』
8-P.378『北条記』
 2 御嶽城合戦、北条氏康攻め。 埼玉県史研究22号『仁王経科註見聞
 
 2 15       金鑚一帯焼き討ち。
 3       御嶽城(城主安保信濃守泰広)攻略 。
 7 21 北条氏康、松山普請。高松筋へ敵動き。 6-No.203『北条氏康書状』
1554
 
天文23
 
10 4
 
北条氏康、古河城攻略。足利晴氏父子を捕らえ相州秦野配流。 8-P308『鎌倉九代後記』
 
1559
 
永禄 2
 

 
『小田原衆所領役帳』できる 。
 
8-付録『小田原衆所領役帳』
1560


 
永禄 3


 
 3 この頃、太田資正、松山城を占領。 『旧県史』4
10 秩父大宮合戦、北条氏康、松山在城。 6-No.275,278
12
 
北条氏康、上杉景虎の来攻に備え池田安芸守を河越城に籠城させる。 6-No.286
 
1561
 






 
永禄 4







 
 3 上杉景虎小田原城下を攻め、鎌倉八幡宮参拝、河越城攻め。 6-No.286,300〜307
 9 10 太田資正は松山城占領、上杉憲勝を城主に置く。 市史2-858,859,860
10 5
 
北条氏康、武田信玄に応じ、松山城を攻める。近衛前久、上杉政虎に松山城の危急を告げ、関東出陣を促す。 市史2-862
8-P.311『鎌倉九代後記』
11 21 太田資正は比企左馬助を比企郡代とする。 『太田資正印判状』
11 27 この日、上杉政虎、児玉生山に戦う。 6-No.322『北条氏政感状』
12 3 北条家、高松城明け渡しを命じる。 6-No.327『北条家印判状』
12 18
 
乙千代は秩父衆に対して千馬山城の用土氏に証人を出し、忠誠を誓えば、知行従前通りを約す。 『中世の秩父』No359,360
 
1562

 


 
永禄5

 


 
 4 17 用土新左衛門、金鑚御嶽城普請。 6-No.356
726
 
赤浜河原合戦で上田案独斎人衆山田伊賀守は道祖土図書助に討たれる。 6-No.316『道祖土家文書』
 
10 上杉輝虎、松山城攻略。 6-No.372『上杉輝虎書状』
11 11
 
北条氏康・武田信玄は松山城を攻める。
「武州ノ大ガラン岩殿ヲ始トシテ大加ラン悉クハウ火」。
6-No.372『上杉輝虎書状』
『正法寺文書』
1563


 
永禄 6


 
 2 4


 
岩付太田方の松山城、北条・武田軍に敗れ落城。上杉憲勝城を明け渡す。上杉輝虎、救援のため石戸に至る。帰途、騎西城攻略。北条氏康、上田又次郎に松山城を元のごとく守らせる。 8-P.311『鎌倉九代後記』6-No.367『上杉輝虎書状(写)』
 
1564


 
永禄 7


 
 1 8
 
国府台合戦。北条氏康対里見氏。太田資康、岩付城主太田資正と戦う。 8-P.312『鎌倉九代後記』
 
 7 23 北条氏康、太田資正を岩付城に攻め追放。子、氏資を城主 6-No.409『武州古文書』
 8 23 北条氏康、岩付城主太田氏資に人質を求める。 6-No.411『北条氏康書状』
1565

 
永禄 8

 
 2 北条氏康、深谷合戦の戦功を賞す。 6-No.433『北条氏康判物』
 5 7
 
太田資正、岩付城奪回のため岩付城を攻撃するも負け、成田氏の元に退く。 『永禄日記』
『川越市史』中世Up569
1567 永禄10 11 上杉輝虎、深谷近辺まで放火。 6-No.505『上杉輝虎書状』
1569









 
 
永禄12









 
 
 2 甲相同盟破綻。 6-No.530『北条氏康書状』
 2 20
 
武田信玄、鉢形城攻撃。
 
6-No.593『北条氏邦印判状』
 4 23 上杉輝虎、松山城引き渡しを求める。 6-No.553
 4 24 北条氏康・氏政、松山は上田の本領と主張。 6-No.555
 8 5 北条氏政、松山は上田の本地本領と再び主張。 6-No.589
 6 5 武田信玄、御嶽城攻略、兵数千人置く。 6-No.574『武田信玄書状』
 7 11 武田信玄、武蔵に入り、北条氏邦と秩父三山谷に戦う。 6-No.580『北条氏邦感状』
 9 9 武田信玄、金鑚御嶽城を攻める。 6-No.594『中世の秩父』
 9 10 武田信玄、鉢形城の北条氏邦を攻める。大激戦。 6-No.594『上杉文書』
10 6 武田信玄、滝山城から小田原城を攻める。三増坂合戦。 6-No.601『上杉文書』
10 19 武田信玄、秩父在陣、人民断絶と記す。 6-No.601『武田信玄書状』
1570

 
元亀 1

 

 
武田信玄、箕輪城攻める。北条氏政、秩父に出陣。信玄撤退。 8-P.314『鎌倉九代後記』
 
 9 5 武田信玄、武蔵に出兵し、鉢形城を攻める。 6-No.665『上杉文書』
1571




 
 
元亀 2




 
 
 2 27 石間谷の合戦。 6-No.680,681
 2
 
上田能登守源朝臣朝直入道案独斎桑門宗調生年78法華経供養塔を造立。(東松山清正大神社境内)
 
 6 22 武田信玄、甘棠院に高札を出す。 6-No.689
 9 15 武田信玄、北条氏政と榛沢に戦う。 6-No.695『武蔵吉田文書』
10 1 武田家、阿熊に高札。 6-No.697『武田家高札』
12 3 武田信玄、武蔵に入り北条氏邦と戦う。 6-No.709,710『武州文書』
1572 元亀 3  3 5 北条氏邦、横瀬を朝見伊賀守に宛う。根古屋城主。 6-No.727,728
1574


 




 
天正 2







 


 
北条氏繁羽生出陣、花崎城自落。

 
『群馬県史』資料編 7-No2770『北条氏繁書状』
閏11 19 羽生自落、関宿城開城。
 
6-No.848『北条氏政書状』
 
閏11 20
 
上杉謙信は鉢形・松山・忍・深谷城下・その他を焼き払う。
騎西城・菖蒲城・岩付などに放火。羽生城を破却して厩橋城に19日帰陣。
6-No.849『上杉謙信書状』

 
 12 16 簗田持助、関宿城を北条氏政に渡す。 6-No.854『北条氏政条書』
1576
 
天正 4
 
  2
 
河越城普請。
 
6-No.871『大道寺政繁書状』
1578


 
天正 6


 
  3 13 上杉謙信没す。 8-P.315『鎌倉九代後記』
 8 16
 
上田長則、松山本郷宿中に、茂呂在陣衆に対して兵糧・馬飼料等を売り渡すこと禁止する。 6-No.96『武州文書』1
 
  岩付城大普請。 6-No.983『北条家印判状』
1580
 
天正 8
 
 10 12
 
武田勝頼、出陣。北条氏政、後詰め。本庄城等攻略し帰陣。
 
6-No.1050『武田勝頼書状』
1582





 
天正10





 
  3 19
 
織田信長関東平定のため上野に滝川一益を送る。箕輪城に入る。上田案独斎ら人質を箕輪城に入れる。    『小田原北条記』
8-P.315『鎌倉九代後記』
  5
 
鉢形大普請。
 
6-No.1122『北条氏邦書状』
 6 19

 
金窪合戦 北条氏邦、滝川一益と戦う。北条氏直本庄城に入る。滝川勢勝利、首600余討ち取り。
 
6-No.1133『松平義行文書』
8-P.499『石川忠総留書』
1585


 
天正13


 


  1 4
 
(上田闇楽入道、成田下総、大道寺駿河守を大将にすえて新田・館林両城請け取りに軍勢をむかわす。)
北条氏照、金山・新田両城を攻略。
 
小田原北条記(下)教育社版P212,
後北条氏と東国文化-P.200
1586
 
天正17
 
 10 3
 
上田憲定、比企郡かたせ郷百姓中にあげて奉公を求め、松山城出仕を求める。 6-No.1479『石川家文書』
 
1590













 
天正18













 
 2 20
 
上田憲定、小田原籠城につき、木呂子丹羽守等に松山城中の後事を託す。 市史2-No1043
 
  2 28
 
上田憲定、犯科人・負債ある者にも参陣を促し、扶持・褒美・取立てなどを約す。松山城代上田河内守。 6-No.1514『武州文書』
 
  3 11
 
上田憲定、小田原陣中から松山本宿・新宿町人衆に宿中の者総ての松山籠城を呼び掛ける。 6-No.1516『松村家文書』
 
 4 20 松井田城落城。 『埼玉県史通史編2』
  4下
 
松山城攻略 『埼玉県史通史編2』
この頃、江戸城・箕輪城・佐野城・前橋城落城。 6-No.1532
  5 3 河越城落城。 『埼玉県史通史編2』
 5 20 岩付城、討死1000人余を出して落城。 『埼玉県史通史編2』
  6 14 鉢形城落城。 『埼玉県史通史編2』
  6 23 八王子城落城。 『埼玉県史通史編2』
  7 6 小田原城落城。 『北条記』等
  7 16 忍城落城。 『埼玉県史通史編2』
 
註1 この年表は『新編埼玉県史』通史編2、資料編5・6・7・8、『東松山市史』資料編2、『埼玉大百科  事典』5巻所収年表を参考にして作成した。
註2 「出典」欄の、数字-P、数字-Noの数字は、原則として『新編埼玉県史』の巻数(2は通史編、5〜8は  資料編)を示し、Pは該当資料があるページ数を、Noは掲載文書番号を、市史2は『東松山市史資料編  2』を示し、番号は史料番号を示す。その他は文献名-P.数字で掲載ページを示した。
註3 北条支配下の各城の落城の月日については下山治久1989「氏直、和戦両派の前に進退を誤る」『歴史群像   シリーズ』Mに詳しい