管理者のページ 2006/02/08 更新
このページは調査研究を行っている中で、疑問が生じたことなどを、紹介し,
読者とともに解決しようとするものです。少しづつでも良いから向上したいという管理者の心情をご理解いただき、ご協力ください。
1 最近、花園城の再調査を行っています。この調査で大きな疑問が生じました。
従来から、花園城には斜面部に後世の耕作による改変が著しく行われているといわれ続けてきました。しかし、調査をしてみると、東斜面中央部の竪堀から南側にのみ見られる段築状の平場の存在は、単に後世の改変として片づけられないように見える。最高19段にも及ぶ幅2から3m、高さ1.2から2.5mの規模を有する段築は南側に向かって徐々に上っている。そして、端部に近くなると平坦部は上部の段築平坦部に繋がるという特色を認められる。そして、この段築構成は、本郭や二の郭直下にある帯郭の構成と変わらない。しかも、肩部には緑泥石片岩を使用して2から3段の小口積の石垣を多用しているのである。一部には畑のように奥行きのある平場も見られるが、それはわづかでしかない。この、19から17段にもなる、帯郭風の段築は花園城の大きな特色といえる築状技法なのではないかと考えるこのごろである。このような段築は背後に存在する花園御獄城跡にも小規模ながら存在するが、このような構造物は他に知らない。読者はどう考えるか伺いたい。図面を用意しているが規模が大きくて未だ表現できていない。
2.城郭フォーラムのページを開いてから丁度1年を経過しました。この間、城郭の調査と、更新を繰り返し、公開した城郭も50箇所を越えました。アクセス件数は約1700件となりましたが、最初は月100件のペースでしたが、2月頃からアクセス件数の上昇傾向を示し、月200から300件へと利用者が増えました。管理者としてはこれを励みに新規公開と、更新に励んできました。
これからは山の木が緑で覆われ、調査はできません。しばらくの間、城郭の調査はお休みですが、この間、城郭に関する記録などの調査や写真の整理を行っていこうと考えております。調査再開は又、11月頃になります。6ヶ月更新が無かったらページが消去される事になっていますので心配です。
3 最近は毎週毎週雪が降り、城郭の調査も思いのままになりません。秩父の城郭調査が終期に成っているのに残念です。先週、『秩父風土記』の写本コピーを手に入れました。友人の配慮ですが、是を読んで驚いたのですが、写本によって記載内容に違いが有ることです。記載が有るもの、無い物、記載内容が異なるものなど、多彩です。城郭調査でも役に立つ史料ですので熟読してみたいと思っています。02/02/01
4 しばらくぶりのコメントです。今年の冬は正月早々初雪が大雪となり、山が雪に埋まって調査はできませんでした。3月の終わりになってようやく雪が無くなり、調査再開しました。県内の城郭も調査未了が少なくなりましたが、その分高い地点にあり、登るのも大変になりました。最近調査をしていて感じることは、縄張図が書く人によって大きな違いが存在するということです。一つ一つ調査をしながら、確実に図化をしたいと考えています。
5 一つ良い情報が有ります。今松山城跡は見時です。下草がきれいに伐開されていて、きれいな保存の良い遺構が丸見えです。最高の写真が撮れます。菅谷館跡も今がチャンス堀・土塁も下草が無くカメラチャンスです。是非ご覧ください。
6 久しぶりに城郭の説明を多くのせることができました。春先の調査や、これまでためてきたものです。大河原城に付いてはマンガン鉱石の採掘に伴う掘削抗との区別が難しく悩んでいますが、岩を掘削しているものについては除外しました。ご意見を願います。(
01/04/21)
7 秩父郡吉田町教育委員会は『秩父・中世吉田町の城`01』をこのほど刊行しました。吉田町内に所在する城郭についての詳細調査報告書です。8城郭、44p記載、カラーグラビヤ10p。(01/4/30)
8 騎西町教育委員会は『騎西町史考古資料編』を刊行しました。騎西城の発掘調査の詳細が詳述されています。お問い合わせください。一読をおすすめいたします。tel0480-73-1111。(01/4/30)
9 埼玉県の中世城館跡目録を掲載しました。ベースになっているのは、埼玉県立歴史資料館が主体となって刊行した『埼玉の中世城館跡』です。web版を作成するに際して、筆者なりの調査と所見に基づいて若干の修正を加えたものがあります。しかし、主に伝承地についてはコメントしようがないので、そのままです。(
01/07/05)
10 ホームページ開設2年が経過しましたが、訪問者の数は1年目の4倍に増加しました。ページ解説者としては嬉しい限りですが、少し残念なのは、ご意見がいただけないことです。(
01/07/05)
10 1年ぶりの更新です。4月初旬に県内の現存し、縄張図がかける中世城郭をすべて調査終了しました。全部で88城。そのうち新規の城郭は寺尾城跡、谷ツ城跡の2城です。最後は室山城跡でしたが、大変でした。あんな山中の山頂部に物見や砦が必要だろうかと考えさせられています。このような城郭は、秩父を中心に幾つか有り、この性格を考える必要があると思っています。最近は、すでに消滅した城郭伝承地を訪ねています。現地に立つと、発掘調査をすれば堀などの遺構は存在するだろうと思われるものも少なくないことを実感しています。(2002/4/24)
11 調査で感じたことを中心に「後北条氏ゆかりの城郭について」を『埼玉県立歴史資料館研究紀要第24号』に書きました。後北条氏の城郭とはについて記したものですが、調査事例が少ないためしまりが悪いですが、ご批判ください。紀要は実費(1000円送料は別)で頒布しています。(2002/4/24)
12 4年近くご無沙汰です。城郭関係のページに、腰越城タイプの城郭についての意見がのせられているのを見ました。どこにでもある普通の城郭といわれておりました。私の規定した腰越城タイプは、城郭全体の導線が固定したルートになっているもので、本郭に到る基本的進入路は1つ、そして、本郭からはその先が確保されない。という形の構造を備えている城郭で、近世の城郭に主体的な、大手から天守に到る導線と縄張り思想を兼ね備えている城郭です。腰越城タイプ以外のタイプの城郭では、守るべき郭が固定されず、退路はいずれの方向にも確保できるものとなっております。腰越城タイプは守りきるのは本郭であり、時間をかけて城を守りきるという強い意志が読み取れます。他のタイプとは大きな違いが存在すると考えています。
13 さきたま出版会から『武蔵松山城主上田氏』−戦国動乱250年の軌跡−を出版しました。上田氏関係の資料を網羅し、東秩父村浄蓮寺に保存される慶長8年過去帳を分析し、上田氏268年間を研究しました。『浄蓮寺慶長8年過去帳』は記録される2206人のうち、約70%は慶長8年以前の人物であり、その中から主として抽出された上田氏は68名になる。
出版のねらい
動乱の時代であった中世社会の中で、戦国領主は戦国史を飾る歴史の舞台に、多様な形で登場するが、この戦国領主を支えた地方領主や武将は、日本史の舞台に登場することもなく、地方史の中でも触れられることは少ない。しかし、地域史を動かしたのはこれら戦国大名を支えた地域領主達であったのである。上田氏もその典型的な武将の一人である。しかし、これまでの戦国史研究の中で、上田氏は武蔵の戦国期に重要な位置を占める松山城主として、常に問題にされながら、その出自を含め、資料不足からか、研究の対象として取り上げられることが少なかった。
上田氏は源姓を名乗るが、その経歴は全く不明で、上田蔵人親忠法名希道が、鎌倉円覚寺大般若経施主の一人として、永徳二年(一三八二)関東中世史上に出現し、関東管領上杉氏の重臣で、相模守護代という重要な地位を占めていたことが知られる。この上田氏は、筆者が生活している東秩父村御堂の日蓮宗浄蓮寺の大檀那であり、戦国末には松山城主として君臨した比企の領主であった。本書では、これまでに『新編埼玉県史』や『東松山市史』等のなかで集成され、解読されてきた上田氏の関係史料を最大限活用した。そして、貴重な史料でありながら研究資料として未だ十分に利用されていない『浄蓮寺慶長八年過去帳』を分析し、その成果をまとめた。
地域に密着した視点から資料を詳しく分析し、新しい角度から松山城主上田氏の本拠や、戦国史上での上田氏の政治的位置付けや、系譜について研究を進めた。地域研究を志す者として、どのような攻め口があるかを模索した。
目 次
序 章
前 編 上田氏をめぐる合戦と城
第一章 争乱の北武蔵・境目の合戦
第二章 上田氏出現
第三章 上田氏ゆかりの城郭
第四章 慈光寺僧坊跡群と上田氏による焼き討ち
第五章 後北条氏領国圏内における松山領
後 編 上田氏の復原的研究
―『浄蓮寺慶長八年過去帳』のデーターベース化と分析 ―
第六章 上田氏と浄蓮寺 ―『浄蓮寺慶長八年過去帳』の検討
第七章 上田氏の家臣達
第八章 上田氏とその系譜
資料編 上田氏関係年譜
上田氏関係・関連史料一覧
『浄蓮寺慶長八年過去帳』などに記載される上田氏一族一覧
『浄蓮寺慶長八年過去帳』データー一覧表
参考引用文献目録
あとがき
体裁 A5判、縦書、総頁296頁、上製・カバー装。図版・写真41枚、本文中表八。
著者 梅沢太久夫・出版 さきたま出版会。刊行 2006年2月1日。定価3150円(税込み)。
トップに戻る 目次に戻る