岩付城跡 
所在地 岩槻市岩槻太田269他
歴史 岩付城は長禄元年(1457) 太田資清(道真)、資長(道灌)父子によって築城されたと伝えるが、『鎌倉大草子』では永享12年(1440)の永享の乱の時村岡河原の合戦には岩付より後詰め出兵とあって『岩槻市史通史編』ではこの段階に岩槻に扇谷上杉方の軍事的施設が置かれていたと考えている。岩付城を築いたとされる太田氏は元来相模を中心に勢力を持っていたものと思われる。関東管領上杉氏の一家「扇谷」に属し家宰 として勢力を伸ばしていった。岩槻は享徳の大乱時において古河公方勢力と上杉勢力との境目を形成する元荒川を前面に置き、上杉勢力圏の最前線に築かれた城郭である。菖蒲城と常に対峙し、同時期太田氏築城と伝える河越城、江戸城と共に関東南部の扇谷上杉勢力圏を守る大きな役割を担っていたと思われる。道灌死後養子資家、子資頼と続いて城主となり子資正(三楽斉)が跡を継ぎ上杉方として孤塁を守る。永禄4年嫡子氏資と次子政景の争いの中で資正・氏政父子は北条氏康・氏政連合に破れ忍の成田氏に身をよせたが岩付城は回復できずに終わる。永禄10年(1567)太田氏資が上総で戦死し、太田氏が消滅すると、完全に後北条氏に支配下入り、北条氏房が太田の名跡を継承した。
城 跡 岩付城は岩槻台地の縁辺部に築かれた大きな城郭であり、現在は岩槻城公園として新曲輪の一部が保存され県指定史跡となっている。城郭の主要な部分は台地東端に大手を置き元荒川の湿地帯を取り込んで縄張りした本格的平城である。中世岩付城の位置については「古来の本丸」との伝承を残す新曲輪部分とする説と本丸・二の丸を中心とするという2説が存在したが、市教委の発掘調査結果では戦国末期に本丸南部の守りを固めるために築造されたものと考えられる。また、3の丸では後北条氏によると見られる大改修の遺構が確認されるなど、最近の発掘調査によって中世の岩付城の実態が明らかになりつつある。岩付城絵図では竹束郭を古本丸とし、絵図で知られる岩槻城跡は台地縁辺に作られた沼地の中に島状に浮かぶように配置された城郭である。縄張図は近世岩槻城の実態を表しているが、大手口西側に城下を配置し、龍門寺、願生寺から西光寺までを繋ぐ線に土塁と大溝を巡らし、田中口、加倉口、諏訪口、富士倉門と繋いで総構とする大規模な城郭を形成しているが、この総構は戦国末期に形成されたもので、土塁は3m前後、堀は一部の発掘調査では深さ4.3m、底幅7.7mの大規模な障子堀であることがわかった。加倉門に西光寺、鳩ヶ谷道に富士倉門を配す。本城は本丸地域と新曲輪地域とに2分されるが、『北條記』によればいづれも戦国末期に存在したことが伺われる。本城部は本丸、樹木屋敷、三の丸と並び、東側に二の丸を挟んで竹沢曲輪、本丸北続きに腰曲輪、御茶屋曲輪が配置されている。二の丸続きの北側に天神曲輪が置かれ、天神社と武器倉があった。そして、天神曲輪門を出て掻き上げ道を渡って明戸口となる。東南端部の新曲輪は南東部小口に馬出を置き、堀を隔てた東側に鍛冶曲輪が配されるが、この間の堀も障子堀であることが確認されている。西側台地方面への備えは新曲輪と同じ備えとなり、やはり馬出を置く。いずれも台地を堀切りしているが本城部の主要な部分は掻き上げによる地形がなされ、築城されたものであろう。岩槻城絵図によれば本丸は林で、総坪数2706坪であるという。主たる屋敷は通常三の丸におかれ「居宅」と描かれる。これは本丸、二の丸ともに湿気で住むのに適しなかったためという。絵図では二の丸に土塀に囲まれた御屋敷を置くが、この屋敷から竹沢曲輪への小口が見られる。埼玉の中世城館跡では太田時代を新曲輪部分、北条時代を本郭部分に推定する見解を示しているが、「古来の本丸」という以外さしたる根拠は見られない。
 市教委の発掘調査結果では堀の変遷から城郭の変遷が5期に亘るものとして把握されると言う。
 第1期 岩付城築城以前
 第2期 15世紀後半〜16世紀前葉・15世紀末葉中心
 第3期 16世紀後葉中心であるが、末葉までには至らないという。3の丸では16世     紀後葉に大規模整地が行われ、遺構の向きが変わる。後北条氏支配に組み込ま     れ、大規模改修が行われた段階。
 第4期 第3期の堀が大規模化された段階。短期間に破棄される。時期は把握されてい     ないと言うが、天正15年の改修を示すものと考えられる。
 第5期 これまでの堀とは規模位置共に異なった堀が配置される段階。近世段階で、樹     木屋敷と本丸の間の堀がそれと確認されている。
岩付城の軍団編成
天正5年(1577)北条家は結城晴朝攻略に際して一回限りの軍団を編成している。
小旗  120本余  奉行 中筑後守、立川籐左衛門、潮田内匠助
鑓   600本余  奉行 福島四郎右衛門尉、豊田周防守、立川式部丞,
              春日与兵衛
鉄炮   50挺余  奉行 河口四郎左衛門尉、眞野平太
弓    40張余  奉行 尾崎飛騨守、高麗大炊助
歩者  250人余  奉行 山田弥六郎、川目大学、島村若狭守
馬上  500騎余  奉行 渋江式部大輔、太田右衛門佐、春日左衛門、宮城四郎兵衛              小田掃部助、細谷刑部左衛門尉
歩走   20人   奉行 馬場源十郎
合計 1580人余
 
他        陣庭奉行 春日左衛門尉、宮城四郎兵衛、細谷刑部左衛門尉、
              福島四郎右衛門尉
              *陣庭の取り様は大方氏照の陣取りの様に致すべし。
         篝奉行 1夜  春日左衛門尉 細谷刑部左衛門尉
                 立川藤左衛門尉
             1夜  宮城四郎兵衛 福島四郎右衛門尉 立川式部丞
                *当番の侍3人づつ2箇所、夜通し燃やし続ける。
         小荷駄奉行 1番 春日左衛門尉 福島四郎右衛門尉 立川式部丞
               2番 宮城四郎兵衛  細谷刑部左衛門尉 中筑後守
            (新編埼玉県史資料編6p451資料No915による)
 
参考文献 岩槻市立郷土資料館2002『企画展岩槻の中近世遺跡ー岩槻城とその時代ー』
     埼玉県立歴史資料館編1988『埼玉県中世城館跡調査報告書』
     岩槻市教育委員会1993『岩槻城樹木屋敷発掘調査報告書』
     岩槻市教育委員会 1997『岩槻城関連遺跡群発掘調査報告書1』
     岩槻市教育委員会1998『岩槻城関連遺跡群発掘調査報告書2』



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