石戸城跡
所在地 北本市石戸宿字城山耕地
歴史 本城は戦国時代には岩付城の付城として機能していたようで、大永五年(一五二五)岩付城主太田資頼は家臣渋江三郎の後北条氏への内通により本城へ逃れ、六年間在城したと伝えられる。また永禄六年(一五三六)の松山城後詰めの際、上杉謙信が「石戸着陣」と述べた陣城に比定される。太田氏にとっては本城は松山城に対する向城として重要な役割を担っていたようである。
遺構 大宮台地の西端の北に延びる舌状台地先端部に築城されている。台地の東、北、西は六〜九mの急崖となっており、西は荒川河川敷となるが、元禄九年の絵図では台地直下に荒川の流路が描かれている。北と東は深い溺れ谷になる。城郭の備えは南側の石戸宿との間を大きく掘りきっている堀切と、台地上の空堀・土塁によって行われている。埼玉県立歴史資料館(現・埼玉県立嵐山史跡の博物館)の実測で、確認できる城域は南北二五〇mに及ぶ。本城は近世に行われた「ドロッケ」による河川敷きからの客土(ヤドロ)が行われており、城域内には多量の「ヤドロ」が遺構を被覆している事が知られている。南端の堀切跡などはこれによって完全に埋没しており、石戸城の遺構は一の郭を含め、全体に不明瞭なところが多い。市教委の調査によって、多少の所見が得られているが、現状で観察される城跡の姿は、今後の調査によって大きく変わる可能性が高い。現状観察された石戸城の大凡の遺構は次の通りとなる。南端には堀切と見られる幅広の窪地が存在し、これは幅二〇〜四〇m程の堀切が喰違いに置かれたとみられるが、市道西側の堀切は上幅一〇m程と狭い。この、堀切の形は内枡形構造を示すと考えられるところがある。その西端は一五×三〇m程の範囲が若干高なり、市教委の資料では四の郭とされ、空堀がめぐるとされるが、市教委の示すように北側まで囲画するかどうかはわからない。台地東縁部は段築され井戸のある幅五〜一〇mの帯郭となり、台地北端部の腰郭に連なる。上部には二の郭が置かれる。一の郭は台地先端部に置かれ、略方形であり、六〇×七〇mの規模となる。東南部に櫓台と見られる基壇が備えられる。この一の郭は南部に「オオタニ」と呼ばれる大規模な堀が「かねの手」に置かれ、二の郭・三の郭との間を堀切っている。二の郭との間のこの堀切は現在市道となっている。南部の「オオタニ」部分は市の調査で一の郭側の肩部落ち込みが確認され、深さは四、五m以上で堀底の確認はできていない。二の郭は先端部が土取され、大きく破壊されているが、狭長の郭で一の郭の櫓台と見られる遺構の存在を考えると、一の郭への進入路をなしていた可能性が高い。市教委の見解で第二次調査区の南に空堀の存在が指摘されているが、その存在が確認されれば、堀の西端部と想定される部分に虎口が考えられる。市教委の実測図から復元できる石戸城跡は方形を基本とする縄張りの中で主郭を中心に、二の郭・三の郭と台地東側にある帯郭で構成されると考えられる。これまでに市教委によって三回の発掘調査が行われ、堀跡・土壙・柱穴跡などが発見されている。出土遺物もカワラケを主に灰釉小皿・緑釉小皿・小札などが若干出土し、その年代は十五世紀末から十七世紀までの年代観を示し。その主体は十六世紀代のものであるという。(2012/01/31
(火)
関係文献
磯野治司・斎藤成元 二〇〇二『石戸城跡第一〜第三次調査』北本市教育委員会

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