失われた城郭深谷城跡  別称 木瓜城
 
所在地 深谷市仲町19他
歴 史 深谷城は庁鼻和上杉氏の房憲によって康正2年(1456)に築城されたと伝え、埼玉県でも古い段階の築城を伝える城郭である。江戸時代に入って寛永元年(1622)廃城、正保元年(1644)に取り壊されている。木瓜(ぼけ)城とも言われる。深谷上杉氏は庁鼻和城を築いた山内上杉憲顕の子上杉憲英を祖とする。上杉禅宗の乱、永享のの乱、結城合戦などで奮戦した山内上杉氏の有力な一員で、享徳の大乱では古河公方との抗争に大きな役割を果たす。
遺 構 現在城郭遺構は土塁が一部に残されるにすぎない。堀跡については市教委の数次に及ぶ発掘調査と(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団による深谷警察署新築工事に先立つ発掘調査がある。市教委調査は本郭周辺に集中している。又、市内には江戸時代に作成された絵図があり、地籍地名とこれらによって市教委の沢出氏は調査報告書のなかで復元図を公表された。この図は「武藏志」に記される深谷古城の図に誘引される形になった。城郭縄張図としては本丸、2の丸等の配置が極めて不自然な形態を示しているように観察された。市内に残される「深谷古城の図」には地目と検地の時期が明瞭に記され、まず、水路、池、水田の表記から堀跡が推定される。そして、武藏志に記される本丸北側の蕨手状の堀も確認された。一方、この水田に平行して一定の幅を持つ畑(下下畑、下畑)が抽出され、これが土塁跡を示すことは容易に理解できる。また、大手口は桝形を形成していたようであるが、水田からの復元では表現できないが、地積図を使って水路と水田と畑を基準に色分けをしていくと概ね図のような縄張図が復元できる。深谷市役所への一方通行口部分には水田表記を忠実に再現することによって、食い違いの堀が出現し、ここが諸国古城図に記される小口を示すことが明らかになった。さらにこの図を考慮すれば市役所西通りの東側に見られる「土塁の痕跡」は図に記されている事がしれるだろう。本丸へは東曲輪から北曲輪をへて、堀が浅くなる本丸北堀中央を小口としていることが観察できるがどうだろうか。また、免除地の記載によって、本丸の北西の堀内に弁天様が祭られ、それに接して、西に弁天免と記される方形の大きな曲輪が存在し、本丸の西に八幡神社が祭られた大きな曲輪が存在したことが理解され、そこが2の曲輪であったことがしられる。2の曲輪と区画される郭は大きな長方形の郭になるが、武藏志はこの西に堀を挟んで西の丸があると記し、この長方形の郭を二分する可能性を示すが、地目では堀跡を確認できない。このほか『新編武蔵風土記稿』では掃部屋敷が大手にあり、本丸の北に秋本越中曲輪、北曲輪があると記す。そして、『武蔵志』の挿図では東西の2カ所に櫓が存在したことを示す。
 また、市教委の発掘では、北曲輪と越中曲輪の間に存在する堀跡は障子堀に造られていることが確認され、これは上杉氏時代の構築になるとされた(平田重之1999)。