1999年2月9日
 比企の歴史シンポジュームでのコメント要旨
北武蔵の城郭について
                                
これまでに城郭研究を支えてきたのは、城郭研究会の方がた等による地道な縄張り図作成であり、我々の研究もこれに導かれる形で進めれれてきた。
 我々は、城郭研究の出発点がまず、城郭の踏査であり、縄張りの確認とその図化であると認識している。
 従って、遺構を確実に把握し、消化しなければならなことが第一である。
私は考古学による調査研究にこれまで35年以上携わってきたが、中世史研究を進める必要性について認識を新たにすることがあり、城郭に大きな興味を持ち、北武蔵の城郭を構造的な面から研究してきた。
 
 これから、このページを中心として思いのままを発表し、調査資料を公開しながら、多くの城郭研究者と意見交換をしたいと考えている。このページでは、たいそうなことはいえないが、できるだけ多くの方々に見てもらい、私のわからない城郭の見方、考え方について意見をいただけたらと思う。
以下は比企歴史の丘シンポジュームでの発言要旨である。 
@ 発掘調査がほとんど進んでいない状況では、城郭の構造学的な分析により、形式学的 分類を進め、統一した手法、癖を探し、築城者に迫っていくこと、
A 城郭の年代決定を行う手法として、城郭が防御機能を重視した施設という性格上、地 域の合戦史を把握し、その中での役割を洗い出すこと、
B 城郭を取り巻く環境としての地域の歴史的状況をどう捉えるか、に配慮する必要がある。
   植木さんは比企の城郭網出現期を最終段階、後北条氏の鉢形に対する後詰めと見るが私は梅沢築城編年第2・3期にあると考えている。

1 築城期を捉える有効な手段は合戦史をどう見るかであろう。
  ー 植木さんとは画期の押さえ方に相違ありー
◎北武蔵の戦国史からみた時期区分を以下のように考えている。合戦分布図 

第1期(1333から1392年頃)
    建武の中興を中心として、鎌倉幕府の滅亡からの南北朝動乱期
   平一揆の乱(貞治7年1368)高坂氏、竹沢氏など旧勢力支配崩れる。
   
上田氏出現期か
 第2期(1416から1480年頃)
     上杉禅秀の乱(1416)から長尾景春の乱終焉まで   
    ・「鎌倉大草子」応永23年(1416)(鎌倉六本松にて)上田上野介松山城主、疋田右京亮討死
   ・武州白旗一揆の着倒状(応永24年1417)
     庁鼻和御陣(正月2日)、村岡御陣(4日)、高坂御陣(5日)、入間川御陣(6日)、久米川御陣(8日)、関戸御陣(9日)、飯田御陣(10日)、鎌倉到着(11日)
   ・結城合戦(永享12年1440)の際上杉憲実(関東管領)、野本・唐子逗留。行田須賀城落城。
      持氏の遺児春王丸、安王丸が結城氏朝らに押されて結城城にて反旗。
    ・長禄元年(1457)太田資長・道灌江戸城築城という
    ・文正元年(1466)足利成氏五十子に出兵、上杉房顕敗死。『鎌倉大草紙』
    ・文明9年(1477)長尾景春鉢形城に拠り五十子を攻める。『松陰私語』
     ・文明12年(1480)太田道灌長井城、日野城(熊倉城)をおとす。『太田道灌状』
 第3期(1488から1505年頃)
     山内上杉対扇谷上杉の覇権争い
       ・「梅花無尽蔵」長享2年8月17日
           17日、入須賀谷之北平沢山、問太田源六資康之軍営於明王堂畔
           6月18日須賀谷有両上杉戦死者7百余矣、馬亦数百匹、
           9月25、太田源六、於平沢寺鎮守白山廟、詩歌会、與敵塁相対
         ・「松陰私語」
          先年(長亨2年1488カ)山内與河越矛楯・・・・、向河越、須賀谷旧城再興、当鉢形普請堅固取極
 
 第4期(1524から1574年頃)
     後北条氏対管領上杉の覇権争い
        ・永正7年(1510)北条早雲が関東攻略開始。上田蔵人入道相模権現山城にて上杉家に反旗、討ち死に。
C合戦史では
・比企の城郭を捉えるにはやはり、両上杉の合戦(第3期)
・大里、秩父、児玉では長尾景春の乱(第2期)
・第4期では松山城の攻防に重点が置かれ、どう仕置きするかに腐心。荒川以南以西の比企などでは大築城の他に城郭がでない。
・第1期では城郭分布図で見られるとおり、河原や原野での野戦であり、明瞭な形で城郭は築かれていない。  
 
2 築城期を考える上で重要な観点として築城技法があると思う。
 
◎郭配りを中心とする築城技法に注意
 比企の城郭 多郭で複雑な作りの城郭。腰郭、帯郭が発達。
         腰越城タイプ 最後は本郭に到達する。      
 腰越城の特色ー隠小口、囮小口、
          ◎小口前郭(大築城小口郭小口、青山城本郭小口、 松山城本郭小口?) 
 造り方は、「小口を坂小口に作り中を見透かされないようにし、小口前に小さな腰郭を置き、この手前は折坂に作る。」という大きな特色がある。

境目の城郭 松山城ー青鳥城ー菅谷城ー小倉城ー青山城ー腰越城ー安戸城
       
 
それぞれの役割を古記録などでみると
  2菅谷城 長亨2年(1488)須賀谷原合戦。             
      ・「梅花無尽蔵」長享2年8月17日
           17日、入須賀谷之北平沢山、問太田源六資康之軍営於明王堂畔
           6月18日須賀谷有両上杉戦死者7百余矣、馬亦数百匹、
           9月25、太田源六、於平沢寺鎮守白山廟、詩歌会、與敵塁相対、
        ・「松陰私語」
          先年(長亨2年1488カ)山内與河越矛楯・・・、向河越、須賀谷旧城再興、当鉢形普請堅固取極、
        ・「佐竹文書」
          永正2年(1505)上杉顕定、扇谷上杉朝良の軍を相模・武蔵に破り、朝良を江戸城に引退させ、須賀谷の陣に凱旋。(実田城落城時)
 2松山城 ・「松陰私語」其故者江戸・川越両城堅固也、彼城者道真道灌父子、上田、三戸、荻野谷関東巧者之面々数年尽秘曲相構
      ・「関八州古戦録」扇谷の宿老武州安戸の城主上田左衛門大夫初めてこれを築き、
        ・「鎌倉大草子」応永23年(1416)(鎌倉六本松にて)上田上野介(松山城主、疋田右京亮討死
上田上野介(1416没)ー上田上野介(1474小河在郷)ー上田蓮忠(1518没)ー蓮聖(1543没)ー蓮順・小三郎(川越夜戦松山落城時1546.4没)ー
蓮好(1571没)ー
宗調・能登守朝直「暗礫斎、又次郎政広」(1545.8松山城代、1582没)ー
蓮調(能登守長則1583没)ー日定(上野介憲定1597没)   浄蓮寺上田氏墓
       
        ・浄蓮寺古文書「右、大河原谷・西之入筋、案独斎於知行、云々」
               年号は無いが天文19年(1550)以前の北条氏康発給文書
 

  中城  ・「太田道灌状」 文明6年(1474)上田上野介在郷の地小河、
          発掘調査結果15世紀後半
  高谷砦 ・「太田道灌状」文明12年(1480)竹沢辺から高見辺に打ち出し間の山中に陣を取る
  青山城 ・「関八州古戦録」に青山、腰越の両砦と共に堅固に相守らせ。(郭配りが若干異なる。)
  腰越城 ・「寛政重修諸家譜」に山田某、安戸城に住し法名道存、寛永元年4月朔日没、97歳
  安戸城                 
  青鳥城 鎌倉大草子」永享12年(1440)8月長棟庵主(上杉憲実)神奈川を立、野本、唐子に逗留、
  杉山城 

  越畑城 発掘調査の結果、15世紀、狼煙台。

  高見城 構造の違い、長尾景春の乱には機能、
       松山ー安戸ラインに対する向城。15世紀後半
       ・文明12年(1480)11月28日の「太田道灌状」に高見在陣衆を置   

  大築城 天文15年(1546)の川越夜戦以降、天文19年(1550)までの間に慈光寺焼き討ちとみられる。

児玉・秩父・大里の城 
  連郭を基本とし、比企の城郭ほどではないが多郭である。
  特に山崎一氏のいう崖端城に大きな特色。
    鉢形城タイプ河川の合流の崖端に立地するということ。
              掘切って3角地形を区切る
     五十子城、秩父諏訪城金仙寺城永田城鉢形城小暮城
    高見城タイプ 山城でも同じ。尾根を掘切って城郭とする。
    ・高見城(四津山城)、熊倉城吉田龍ヶ谷城
    ・花園城は尾根筋だけ見ると同じ。前面に竪堀多用、段築の多用に違い(天神山城、千馬山城)
 熊倉城  荒川村  文明5年長尾景春が拠る。連郭式。山頂

鉢形城  寄居町、文明9年長尾景春がよって五十子城を攻める。
・「松陰私語」文明9年(1477)景春が鉢形城により五十子を攻める。
・文明10年上杉顕定が入る。
・永正9年長尾景長により落城。上杉憲房奪回
・天文15年頃藤田康邦城主。
・永禄4年氏邦を養子に迎える。
・永禄12年武田信玄鉢形城攻める。
・小和田哲男1984「後北条氏の鉢形領と鉢形城」『武蔵野の城館址』名著出版
    
  
 花園城タイプ 連郭式に竪堀を使い多段の腰郭を配置。
・「氏邦印判状」天正元年(1573)末野の鐘阿弥、氏邦から鐘打司に任命され、屋敷を 与えられ、小田原鉢形の1月に5度の飛脚役に当たる。
・天正17年(1589)「丑正月3日付文書」20人の末野の飛脚鐘打は、氏邦から屋敷を 与えられ、花園山と共に厳密に守るよう命じられていた。天正5年でも良いのでは
 花園城 藤田康邦築城とするが、記録に登場しない。鉢形の後詰めか。
      ・「太田道灌状」に文明11年長尾孫四郎日野城[彼城被討落候事]。
  天神山城 藤田右衛門佐重利築城と伝える。岩田対馬守居城。
       氏邦永禄3年(1560)鉢形城へ移る。
  千馬山城 竜ケ谷城。用土新左衛門(父藤田右衛門佐重利築城という)
  高松城  皆野町 逸見一族。逸見若狭住す。逸見蔵人佐は落城後薬王寺開      基。家臣小池佐馬助は大塚に土着。
      ・「鉢形北条分限録」逸見若狭守は野巻と本国甲斐で1150貫
        ・永禄4年(1546)氏政高松城衆中に城明け渡しを命じる。
      ・「北条氏邦印判状」元亀3年(1572) 朝見伊賀守を配す、
  4日尾城  小鹿野町 城主諏訪部遠江守定勝、天正年間築城(16世紀末)。
 
3 まとめ
・単郭城(館城)(高坂館1417、中城1474、実田城1486、権現山城1510)から複郭城への変遷過程を考えたい。
・北武蔵の主たる築城期は第2期と第3期と考えたい。
・比企の城郭のうち松山城主上田氏築城と考えてよい城がある。(歴史資料館研究紀要第11号 平成元年3月を参照してください。
・秩父・児玉・大里(鉢形・高見)は山内上杉氏の勢力圏にある城郭の構造に類似点が多い。長尾氏が主たる築城者か。
 
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