出典:埼玉県立歴史資料館研究紀要第11号 1989年
 
比企西部の3城について
一特に小口にみられる共通性一
1,はじめに
2,比企地方における城郭配置
3,三つの城の概要
(1)青山城
(2)腰越城
(3)大築城
4,まとめ
 
 
1 はじめに
埼玉県内における中世城郭については、埼玉県立歴史資料館を調査事務局として、昭和58年から昭和62年度までの5年間にわたって悉皆調査が多くの方々の協力を得て行なわれた。この調査結果は「埼玉の中世城館跡」として昭和63年3月に公刊された。調査の結果、確認された中世城館跡の数は679か所に及び、新たに204か所の城館跡の所在を確認するなど、多くの成果を上げることができた。筆者はこの調査には直接加わることはなかったが、それ以前に比企地方の城郭をつぶさに観察する機会があり、数多くの縄張り図を作成し、それを発表したことがあった。表題に掲げた3城とは青山裁、腰越城、大築城の3城跡を示すものであり、現地踏査のおりから、他の比企の城郭とは異なる、或る一つの共通した手法が講じられているのではないかと考えていたことがある。これらについては、筆者の域郭に対する認識不足から、全く触れることなく、それらの域郭を紹介しておいたところである。その後、先の中世城館跡調査による詳細調査等の成果の公表や、小川町教育委員会が行ってきた町内城郭の測量調査の具体化によって、青山城、腰越域ならびに大築城の縄張りが明らかになる中で、東松山市史での藤木久志氏の研究に啓発され、共通する築城技法の検討の中から一つの見解を有するに到った。筆者は、中世城郭について多くの興味と関心を有しているが、もとよりこれを専門とするところではない。あるいは大胆な意見との危倶もまぬがれないところであるが、城郭の縄張りを遺構の面から考えて考古学的にとらえた結果得られた一つの見解として、大方の御検討をいただけたらと念じている。本稿を起こすに当たり、小川町教育委員会の高橋氏からは資料を提供していただき、城郭研究を通じての友人橋口定志氏や神奈川の友人山本暉久氏には実田城のこと等で大変世話になった。改めて感謝申し上げたい。
2。比企地方における城郭配置

 比企地方を中心とした地域における中世城郭については、その築城者、あるいは城主と築城年代が明らかにされていないものが殆んどである。しかしながら、方形館を除いたこれらの山城を中心とする城跡は、その縄張り、築城技法上の特色からみて、大方は、室町から戦国時代にかけての築域とみてさしつかえないものであろう。

 これらの城郭の中で、築域者カ攻献等によって伝えられている城をあげると次のとおりとなっている。
松山城「此松山城ハ上田入道カ祖父上田左衛尉政方ト云者築立…」『上杉年譜』
鉢形城「当城ハ太田持資入道道潅縄張ニシテ……」『関八州古戦録巻五』
一方、城主等としてこれらの城に在城したと伝えられる武将は
鉢形城長尾景春文明6年(1474)『太田道濯書状(写)』
鉢形城山内上杉顕定文明18年(1496)
安戸城上田又次郎政広『関八州古戦録巻二』
安戸城山田某『寛政重修諸家譜』
青山城上田安独斎『関八州古戦録巻五』
腰越城上田安独斎『同上』
中城ヵ上田上野介『太田道灌書状(写)』
 これらの他、松山城では、それが軍事的要所にあったためか、15世紀末から16世紀前半を通じて、幾度も行なわれた両上杉同士や後北条氏との攻防戦の中で、難波田弾正→塀和刑部少輔→上田朝直→上杉憲勝→上田朝直と激しく移り替わっている。
 比企地方におけるこれらの城郭は、松山城を中心として配置され、東西のライン上には、松山城一青鳥域一菅谷城一小倉城一青山城一腰越城一安戸域が並ぶ。
 比企地方の中央を南北に通過する鎌倉街道は、戦略上の要路であり、15世紀末から16世紀前半頃の合戦の中で、先の東西ラインに対して鉢形城を一方の拠点とする高見城、越畑砦、杉山裁菅谷城という南北ラインの攻防線がはられたことが理解されるのである。文明12年(1480)に太田道灌が鉢形城の長尾景春を破り、高見に凱旋したうえ、高見城に高見在陣衆を駐留させているが、須賀谷原合戦、高見原合戦等を通じて、高見城は山内上杉の勢力下におかれ、鉢形城の出城として機能していたことが伺える城である。従って、比企の城郭は、扇谷方の前線ラインと、山内方の攻撃ライン上に配置された城郭分布を示すと考えてみたい。このような観点からは、小川態谷県道に面した小川町高谷にある高谷砦は、先の太田道灌高見へ出張の折、竹沢、高見間の山中に在障という太田道灌状の記録を受けて、高谷砦がその対象地として浮上してくるのであろう。一方、このような流れの中では、小川町の古寺砦と本稿で検討しようとしている大築城は、その位置と役割が説明されない城である。
3、三つの城の概要
(1)青山城小川盆地東縁を区切る山嶺の一画にある。この山並は仙元山を北端として商行し、青山城の商方でさらには東に向かう。東端の山峻上に小倉城をのせている。青山城の位置は仙元山のすぐ南方で、山頂の標高は264mとなっている。城への登り口は、東側に下里割谷口があり、西側には青山大原口が残されているが、郭配り上からみた場合、商方から上る「玉川口」の存在も考えられる
 城の縄張りは三叉状を示す馬背状の尾根筋を使って行なわれ、仮称「本郭・二の郭・東郭・西郭」の4郭から構成される城郭である。この4つの郭は相亙に掘切り等によって仕切られ、一番北の郭が規模も大きく、最高所にあって本郭と呼ぶにふさわしい。東郭は割谷口から上りつめた所にあり、南は小倉城へと尾根が続いている。郭両端部が掘切られているが、南の掘切りは大きい。郭の形態は略長方形を示し、その規模は22×16mを測る。東西の両端は山腹が切り落とされ、土塁は認められないものの、その備えは十分である。西郭は、西側眼下に矢ノロを見下す所に位置し、畏方形に近い平面形を持つ郭で、その規模は24×20mとなる。商西端では、掘割られて直登する通路と、北辺を一段高く直登する通路が並行して設けられる。本郭とは両端から延る竪堀状の掘切りと、さらに続く比高4m程の斜面によって、完全に分離されていると理解したい郭形成である。

第3図青山城本郭北小口実測図         第4図青山城本郭南小口実測図
 
北端中央に形成される郭は本郭であると考えられる。櫓台跡と思われる10×8mの平場を備える土塁によって2の郭と区切られる。2の郭はさらに2m程低く造られる。本郭は四周に土塁が配される構造を持ち、その規模は35×18mを示す。大原口側と東郭側に2ヶ所の小口を認めることができる。大原口に傭える北小口は、比高差約3mを示す坂小口に本郭端部を掘割って造られる。小口前には、15×16mの規模を持つ卵形の腰郭を配置し、その前面は掘割って桝形を形成している。腰郭への進入路は折坂を示す。本郭北小口端部には、小規模な土塁を掘り残すが、掘割りと合わせて、その防禦的な効果は高い。前の桝形形成と共に、この小口の在り方は、本城にみられる傑出した特色といえよう。南小口も、前庭部に腰郭を配し、掘割りによる坂小口としてあり、掘り割った小口下幅は3mとやや幅広で、比高差も1.6mではあるが、構造的には北小口と同じ造りであると理解して良いだろう。腰郭は15×4m程の緩傾斜を持つ平場である。そして、これらの腰郭は、前面眼下に設けられた掘切り、あるいは空堀に進入してくる敵に対しての攻撃効果も十分な施設として機能する。
 (2)腰越城
 小川盆地西縁にあって、小川盆地と大河原谷津を分断するかのように横たわる細長い山峻上にある。山麓は両端とも槻川の攻撃面となる。槻川は交通を妨げるように蛇行して流れる形を示し、かっては4回程渡河をしないと安戸へは入れず、大河原谷への天然の要害そのものとなっている。小川口に大手である榎木戸があり、東秩父側の山懐に根小屋が形成されている。城の形成される山頂の標高は216mを測り、160〜216mにかけて郭配りが行なわれている。城の縄張りには特異な工夫が認められるところで、掘切りを利用した「隠し小口」と「囮小口」である。又、東西の山腹には多くの竪堀が設けられているのも特色で、「木落し」という地名の起こりにもなっている程である。不明確なものまで含めると20本余りにもなる。城の郭配りでは、東側山腹に設けられた帯郭と山頂部の本郭等カ潔められるが、帯郭は、北東鞍部に設けた2条の掘切りから連なって、西端の大手口の上りつめたところまでのびている。西端部では大手口を形成していることから6〜8m幅の帯郭とし、囮小口をはさんで東側に一段高く36×9mの帯郭がおかれる。そして、構堀から又、東方へ幅2〜3mの帯郭が伸びる。中央部の構堀は両端に配される竪堀と一帯となって上部におかれる腰郭を防禦している。腰越域の主たる郭は標高216mの最高所に造られる本郭で、その規模は35×18mを測る。そして本郭南側には35×7mの規模を持つ2の郭があり、「隠し小口」西側には40×10mの規模の西の郭がある。本郭への進入口は、西帯郭から一段上った段築を越えて造られる西の郭東端の掘切りにある。この掘切りは反対側に竪堀の頂部が迫って造られるが、これをさけて右に折れると小口郭への通路カ畷けられている。この掘切りの幅は極端に狭く、上幅2m、下幅1m程しかなく、その掘切りの深さも2.5m程しかない。まさに完全に防禦された「隠し小口」なのである。そして別の掘切状を示す「囮小口」は、帯郭の東端切れ目にあり、地形的には自然に入っていくように形成される。しかし、中は袋小路に造られており、1m位の頭上から壊滅的な攻撃を受けるように工夫されている。まさに「囮小口」といって良いだろう。この小口形成は、本城における第1の工夫ともいうべき施設で、他例を知らない。

第6図腰越城小口郭小口            第7図腰越城本郭小口実測図
 第2の工夫も小口の造り方である、これは青山城の中で説明したものと同様である、「小口郭」は西の郭と向かいあう東側の尾根上に造られる。隠し小口から延び、幅1.5〜2m程で、折坂に造られる通路は小口郭前で、15×3m程の腰郭へ違をる。小口郭へ入る小口は坂小口で、1.5m程の比高を持つ。小口両剃こは土塁はみられないが、掘割りの効果によって土塁があるかのようにみえ、内部を見透かすことはできない。このような小口の造りは、本郭小口において顕著に認められる。二の郭から折り坂をなす通路を登りつめると、17×6mの規模を有する小口前腰郭が置かれる。直下には小口郭から二の郭へ至る通路があり、効果的な防禦施設としても機能していることが伺える郭となっている。本郭へは比高差3.5mを測る掘割り状の坂小口が形成され、小口両端に掘り残されて造られる土塁と一体となって、侵入者への威圧効果はすこぶる高い。本は東側を除いて高さ50p程の掘り残された土塁があるが、端部は切り落とされたのか急崖をなし、防纂されている。(3)大築城都幾川村椚平と越生町麦原との村境をなす山峻上にあるこの山城は、慈光寺南方5qの地点に位置している。城の縄張りがみられる大津久山は、標高450m余を測るもので、西方の飯能市飯盛峠方面よりのびる外秩父山嶺で、東端は都幾川村大附となる。大津久山の西側と北側は、直登するには困難な程の急傾斜を示すのに対して、東側は緩急傾斜で尾根が続いている。商側には中腹にテスス状の平坦地があるが、ここには「モロドノ郭」が置かれている。従って、本城における防禦は東側の尾根方面に対して十分なされれば足りるものといえよう。この防禦は第8図に示したように徹底的に掘りあげら机た2本の大規模な掘切りによってなされるもので、その他は切り落としによるものといっても良い程簡略化された山城である。
 主要な郭は1つで、尾根西端に置かれる。東側にはつなぎの郭や小口郭を置くが、掘切りより西が本城の主たる部分であったとみえる。西側の掘切りは、小口郭側傾斜面で見かけ上の高さ7m75cmを測り、東側の掘切は約9mと大規模である。そのまま北斜面に設けられた竪堀へとつながっている。本郭は幅15m、長さ65mと細長く造られ、北辺に高さ50cm程の土塁が45mにわたって掘残される。他の三辺には何ら施設は施されていないが、いずれも「切落とし」によって、急崖に地形がなされている。小口郭から本郭へ至る通路の造りは全く粗雑であるが、狭くて堀状を示す掘割道で、曲手状の折りを設
                        第10図松山城本郭北小口実測図
 
け本郭へとつないでいる。この中でも、本城一級の造作は、小口の造りであろう。18×25mの規模に縄張りされた小口郭を坂小口に掘割り、比高差約3mを有する2m幅と狭くて長い上り坂を形造り、その小口前に14×7mの規模を有する腰郭を置いている。この小口形成の在り方は今までに詳説してきた青山城、腰越城の小口郭の工夫と全く同じ工夫だったのである。
 
 
 大築城の造り方は、前にも延べたことがあるように、極めて短期問のうちにつくられた粗雑な城であることが把えられる。しかし、本城の縄張りの在り方は巧妙であり、それを小口の造りが如実に示しているといえるだろう。この築城者はいずれにしても勝れた技術の持ち主であったと考えている。
 6。まとめ
 比企地方に残される城郭のうち、青山城・腰越域・大築城の3城について詳述し、城普請の中で認められる特色ある技法上の工夫について触れてきた。中でも小口の造り方は一級の造りで、前面に腰郭を配し、小口が掘割られて高い比高差を持つ坂小口となり、掘割りの両端部は高い障壁となり、そこに門の存在を感じさせる程のものである。この小口の造り方は、3つの城すべてに共通して認められるもので、青山城、腰越城においては、2ヶ所の小口において採用されている。この在り方は、特に注目すべき技法ではないだろうか。比企地方をはじめとして、入間・秩父・大里・児玉地方の山地・丘陵部分には、数多くの城郭が残さ机ている。この実態は「中世域館跡調査」を通してだいぶ明らかにすることができた。しかし、註4先学による実施踏査の報告や、今回の調査結果に基づいてこれらの城郭の縄張りや郭形成を比較してみても、青山城・腰越城・大築城に共通して認められる小口の構造を持つ城郭は美里町猪俣城に近似した構造が認められる他、寡聞にして知らない。高見城・小倉城・杉山城は先の3城と同一地域内にある城郭であるが、共通する技法は、「切落し」「掘残し」等による段築・土塁の形成や、掘切り、竪堀の形成であった。そして高見城・小倉城・杉山城などでは、郭配りや築城上の抜法にそれぞれの特色を有し、共通性を主張することはできないのである。従って、青山域・腰越城・大築城の3城にみられる共通した特色は、かって中田正光氏が花園城・天神山城・千馬山城に認めた共通した特色から、その築城者を藤田氏によるものとして「藤田
系城郭」と呼称したように、特定な武将による独特な技法しとて取りあげることができるのだろうか。比企地方の城郭を考える上では、考古学的手法のうえに文献に示される出来事を加昧して考えなければならないが、ここでは、藤木久志氏による『東松山市史資料編第2巻』ならびに『東松山市の歴史上巻」を参考にしながら考えてみたい。『関八州古戦録巻五jには永禄5年(1562)、松山城を後北条・武田連合軍が攻略した後のこととして「松山城エハ上田晴礫斎(案独斎のこと)・同上野介朝広ヲ還住ナラシメ青山・腰越ノ砦ト共二堅固二相守ラセ甲商両家ハ姑ク立馬セラレケリー…・・」と記されている。上田氏は文明6年(1474)の太田道灌状に「・・道灌参陣時・・上田上野介在郷之地小河一宿仕侯処……」とみえることによっても知れるとおり、早くから比企地方西部に拠点をもった戦国武将の1人であるといわれている。『関八州古戦録巻一』には「扇谷ノ宿老武州安戸ノ城主上田左衛門太夫・・・」とあるなどから、藤木氏はこの上田氏が、北進する扇谷勢力の一員として早くから小川・東秩父方面を拠点として、勢力を伸長させていたことを指摘している。上田氏に関わる検証は、藤木久志氏の先の研究に詳しいので、再論はさけるが、関八州古戦録巻五の記録によって、青山城・腰越城の両城は、上田朝直ゆかりの城郭であったことが知れる。特に、腰越城が極端なまでの工夫を凝らして、防傭がなされていることや、それが、大河原谷を完全にふさぐ形で存在していること。しかも、度重なる松山城攻防戦の折り、落城後は安戸に引きあげ捲土重来をきしていること。そして、安戸域が極めて小さな物見的な規模と構造しか有していないこと等を考え合わせると、腰越城は上田氏の在郷の地を守る詰の城として重要な位置を占めていたといえるのである、このようなことから文献史料の質が間題になるにしても、こ机ら両城は上田氏の手になった城郭と考えて良いのかも知れない。上田氏は『松陰私語第五』に「彼城者、道真・道濯父子、上田・三戸・萩野谷、関東功者之面々、数年尽秘曲相構・・・・」と記され、江戸城・河越城の築城に参画した扇谷上杉の重臣であったと伝えられる。しかも、松山城についても、「此城ハ上田左衛門取立」『小田原編年録』、「此松山城ハ、上田入道カ祖父上田左衛門尉政攻防ト云者築立……」『上杉年譜』、「当城扇谷ノ宿老武州安戸ノ城主上田左衛門太夫始メテ是ヲ築キ……」『関八州古戦録巻一』、「此城ト申サハ上田左衛門尉トリ立テショリ・・・」『相州兵乱記』と記され、上田氏が松山域の築城者であったことが知れるのである。従って、早くから比企地方西部の小川・東秩父方面に在住し、かなりの領地を有していたと考えられる上田氏は、この時代における城造りの巧者の1人であったことが理解できるだろう。大築城については、先に、比企地方の軍事的な流れの中では、古寺砦と共に説明できない城であるとしたが、それは、軍事的には、殆ど意味のない街道等から遠く離れた山中に存在すること等に由来する。この城の築域された経緯については、小論を発表したことがあるが、都幾川村西平にある、天台宗関東別院慈光寺攻略に際しての域郭であったと考えている。慈光寺は、中世においては鎌倉幕府、特に将軍源頼朝の厚い庇護を受け、寺勢を伸長された寺であり、一山75坊を有する関東屈指の大寺院であった。この慈光寺には、「太田道灌の軍勢・雑人が押入り寺宝を略奪」し、後には「小田原北条の臣松山城主上田朝直、大津久山に出陣、慈光寺をう
かがい、焼打ち、観昔堂のみを残して堂宇ことごとく灰壷に帰す」と記された『慈光寺実録』が残される。一山75坊の存在や、焼打ちの記録は、慈光寺75坊の調査や中世瓦の検討等によって、すでに明らかにしたとおりである。従って、この慈光寺側の記録によって、大築城は、慈光寺攻略の拠点として、上田朝直によって築かれた城だったと考えられるのである。青山城・腰越城・大築城の3城は、これによって、1人の築城者・上田朝直とつながることができた。このことによって示されるとおり3つの城に認められる小口形成の持つ独特な癖は、上田氏特有の縄張りであると指摘できるのではないだろうか、このような見方で、上田朝直築城とされる松山城をみると、本郭岩室観音側小口にそれと同じ技法によったらしい小口形成を認めることができる。本郭北側に造ら机るこの小口は、掘割って比高差約3mの坂小口に造られ、小口前には20×12m程の腰郭が置かれている。腰郭と本郭をつなぐ坂小口は土橋となっており、両側には空堀が迫って造られる。この小口形成は、今まで検討してきた3城と、(1)掘割って坂小口とする。(2)小口前に腰郭を置く。の2点については一致するところであるが、(3)腰郭への通路が狭く折坂となる。という点が欠如し、松山城は、下段に大きな「兵糧郭」を置いている。松山城は各郭が複雑に入り組んでおり、特に小口が明瞭ではなく、各郭相亙の連絡が把えにくい点では定評のある城である。度重をる攻防戦の中で、改造が重ねられ、このような形になったものと考えられるところで、先の小口の構造も、上田氏築城のままの姿を残しているとは考えにくい。従って松山城については、本郭北小口に、一応それらしい小口を認めることができるという程度にとどめ、今後の検討をまちたいと思う。
註1 埼玉県教育委員会r埼玉の中世城館跡』昭和63年3月
註2 梅沢太久夫「東松山市、比企郡」『日本城郭大系5』新人物往来社昭和54年8月
註3 註2に同じ
註4 梅沢太久夫「慈光寺僧坊跡群について一所謂七十五坊の成立と終焉一」『埼玉 考古第19号』埼玉考古学会昭和56年5月
註5 中田正光『埼玉の古城趾』有峰書店新社昭和58年12月
註6 中田正光r秩父路の古滅趾』有峰書店新社昭和57年3月
註7 大多和晃紀『関東百城』有峰書店昭和52年7月
註8 小室栄一『武蔵野の城館跡』名著出版昭和59年7月
註9 藤木久志「戦国時代」『東松山市史資料編第2巻』東松山市昭和57年8月
註10 藤木久志「第6章戦乱の世」『東松山市の歴史上巻』東松山市昭和60年3月
註11 註6に同じ
註12 慈光寺96世信海(99世義仙写)『慈光寺実録』寛政12年正月
註13 註5に同じ
註14 梅沢太久夫「慈光寺出土瓦について」『埼玉県立歴史資料館研究紀要第3号』埼玉県立歴史資料館昭和56年3月
註15註3に同じ