『埼玉県立歴史資料館研究紀要第24号』2004年3月31日


 後北条氏ゆかりの城をめぐって
                           
                              
 
 1 はじめに
 筆者は近年精力的に県内の中世城郭を現地調査している。調査を行うたびに、これまでの縄張図や実測図などに観察結果とは異なる部分が存在することに気付く。この結果は研究成果の表現の仕方の相違に基づくものと思われるが、城郭の遺構、縄張り等の研究を進める上では、現地確認の必要性を痛感している。遺構をどのように図示するかは難しい問題であるが、図示を行う調査者の研究意図による差違が最も大きなものであろう。筆者は残された遺構から、数少ない文書からは読み取ることのできない築城年代や築城者に迫りたいと言う目的から、多くの先学の研究成果をよりどころとしながら、調査を進めている。最近では築城者によって異なる手法が存在したであろう思われる特色を探ることに興味関心があるが、所沢市の滝の城跡は現地調査の中でそのあり方に大きな興味と関心を持った城郭の一つである。滝の城は山内上杉氏の武藏守護代大石氏の持城であった後、北条氏照を嗣子に迎え、その実権を北条氏照に譲られたものであり、この城の遺構の中から大石時代と北条時代の特色と違いを検出できるかどうか検討した。
 後北条氏系の城郭については、これまでに進められた先学の伊禮正雄、倉員海保、松岡進、八巻一夫氏等の研究者によって後北条氏築城とされる城郭が発表されているので、今更の感も拭いきれないところであるが、「後北条流の」「洗練された氏照の城郭」と言われるものの、どこがどのようにという点について、滝山城と滝の城という大石氏築城に関わるとされる2つの城郭を改めて見直し、それから北武蔵における後北条氏ゆかりのいくつかの城郭について整理してみたいと思う。
2 「滝山城」と「滝の城」
 (1)八王子市滝山城(第2図)
所在地 東京都八王子市
歴 史 滝山城はすでに八巻一夫氏、倉員海保氏等にによって検討されているが、八王子市教育委員会から刊行されている報告書をもとに、滝山城の特色についてふれてみたい。
 滝山城は永正18年・大永元年(1521)に大石定重が築城とされる(倉員海保1986)。北条氏照が大石定久の娘婿となって、滝山城に入城したのは永禄元年〜2年と考えられ、八王子城築城に伴って氏照が滝山城を出た年代を天正12年(1584)〜15年頃と推定し(下山治久1986、段木一行1979)ているが、一方では永禄6〜10年の間に滝山城移転があったとの指摘もある(斉藤慎一2001)。城跡は都立滝山公園として環境整備され現状保存されているので、その全容をうかがい知ることができる。縄張図は本多昇氏や八巻一夫氏作成の図が公表されているので、これを参考にし現地調査の所見を基にしながら検討したい。
遺 構 縄張図から知られる城跡全体は基本的に2つに区分される。その1つは「本丸」を中心とした内郭部で、城跡北側の段丘面に形成される集落西にある浸食谷が西・南面を区切り、「千畳敷」と伝える国民宿舎跡とつながっていた舌状台地部を掘りきった地点までのまとまりを示す。範囲は東西約200m、南北約250mの丘陵全体に形成されている。この部分は斜面部の作りも特徴的で、斜面上半分には竪堀が配される。この竪堀の配置は外郭部にはみられない。「本丸」部分が一番高く、北側にUの郭を置き、西側に掘り残しと見られる土塁がある。「本丸」は約50m×50mで小口は南側にあり、枡形小口を形成している。小口全体は坂小口で前面に馬出状の腰郭を置いて堀切底にでるように作られる。東側の「中の丸」とは堀切を挟んで「引橋」で連結されるが、ここの小口は発掘調査の結果石敷き、石垣によって固められた桝形小口となっていた。本丸西斜面部には多くの腰郭が置かれるが、これらは竪堀で区切られ3段構成を示す。U郭の規模は65×30mで一番大きく、V郭が60×30mの規模を測る他、他の腰郭は小さな郭である。
 そして、これまでの研究では同期の郭群として西の谷を挟んだ対岸の丘陵先端部に見られる「山の神郭」とそれに続く「小宮曲輪」手前の郭群が括られているが、ここでは取り敢えず差違が明瞭な「本丸」を中心とした内郭部で検討しておきたい。
 次に、この「本丸」部分と対照的な普請の跡が見られるのが丘陵南端肩部に大規模な空堀群を置き、北側は「本丸」部とを浸食谷によって画される「小宮曲輪」から「三の丸」「二の丸」「中の丸」と続く郭群と、その前面に配置される東端の「信濃屋敷」を包括する外郭部であろう。この部分は北西にから南東方向に横たわる丘陵の北から大きく入る浸食谷によって、「くの字状」になる丘陵上に縄張りしたもので、谷頭部は50mもある幅広な大きな池として取り込み利用している。空堀による防禦線は南部の「滝山街道」に面した丹木地区の根古屋側に重点的に配され、屏風折りに延長約1350m程にわたっている。外郭部ではこの大規模な空堀が特色あるところで、空堀の規模は地点によって異なるものの、「二の丸」南では堀底幅約5〜6m、斜面上側深さ約20m、下側深さ約9m、上幅約20m程の規模に作られる。空堀内側に設けられたそれぞれの郭は内郭部に比べ、極端に大きく、「小宮曲輪」は南北270m、東西幅約」30〜70m、「二の丸」は底辺140m、幅100m、上辺60m程の台形の郭等となっているが、古図では現在の道を境に2つの郭に分けられる。また、「二の丸」南に大規模な馬出郭を配置し大手とし、「二の丸」には東、西、南の三方に前面に空堀を置く馬出を設ける他、各郭は古図に明瞭に記されるとおり小口を枡形小口としているという特色を示す。
 この内外の二つに区分される郭群の配置は端的に見ても築城の違いを認めざるを得ないほどの違いが歴然としているもので、郭群の括り方はには相違が有るが、基本的な普請上の違いが存在することはこれまでも多くの研究者によって指摘されてきたとおりである。
 (2)所沢市 滝の城(第3図)
所在地 所沢市大字城
歴 史 城主について福島正義氏は『所沢市史資料編中世』『所沢市史 上』で大石氏とし、築城年代については室町時代後期前半としている。大石顕重は長禄2年(1458)に高月城主(八王子市)となったが、長尾景春の乱の時(1477〜1480)には大石駿河守は景春与党として二宮城に籠城している(太田道灌状)。大石氏は天文15年の河越夜戦後、後北条氏に従属し、大石定久は北条氏照を養子とし、氏照は永禄元年か2年頃大石氏の旧領を襲封したという。また、滝の城の北条氏支配は永禄7年発給の清戸番所衆交代命令状である「北条氏照印判状」によって確認されるという。これによれば滝の城は大石氏によって築城され、北条氏に引き継がれたといえるものであるだろう(福島正義1981)。
遺 構 柳瀬川を眼下に見下ろす比高約25mの台地縁辺部に築城されている。城の主要な部分は埼玉県指定史跡として保存されているが、方形をなす外郭部は宅地化され旧状を止めない。城郭は大きく2つに分けて構成される。第1は本郭を中心として配置される本郭、2の郭、3の郭の内郭部で、もう一つは北側台地部に大きく張り出して作られる約1.3ha程の広さを持つ方形を基本とする外郭部であろう。平面的な縄張りから見ても、この2つの違いは歴然としている。2の郭の空堀の外側に更に接して土塁・空堀を配置する構造から見ても、前者の縄張りに後から外郭を追加して防禦を強固にしたと観察できる。これに対して、内郭部では本郭などは折りを多用した屏風折りの幅が狭く低い土塁(現状では内部高0.5〜1m)、幅が広く深い空堀によって、縄張りが規定され、こじんまりとした城郭にまとめられている。堀底も畝等をおいて高低差をつけ、水が溜まるように作られていることがわかる。2の郭の土塁は基底部幅4mの小規模なもので高さは1〜2mしかない。3の郭も同様であるが、土塁が小口部を除いて明瞭では無いが多くは存在しなかったものと見られる。内部は窪んでいるように観察され、東部では土塁の手前が掘り窪められ、見かけ上の土塁見たいに高さを保っている。空堀は土塁の規模に比べてその作りが大きく、上幅12〜20m、堀底幅2〜5m深さ5〜6mとなる。本郭小口は神社裏に発掘調査によって四脚門を置いたと見られる門跡遺構が発見され、ここが小口であった事がわかる。空堀は深さ約8mと深い堀になっているが、小口部では3mの高さを持つ仕切土橋が築かれる。この土橋面から本郭小口面までさらに4m程の高さがあるので、ここには橋脚の存在を考える必要があろう。本郭内は小口西に高さ3m程の物見台と見られる高台があるほか、土塁は掘り残し状に高さ50cm〜1mで存在する。本郭と2の郭、3の郭の関係はその繋がりが明確ではなく、2の郭と3の郭は本郭前の「馬出郭」を挟んで両側に位置し孤立して存在する。これに対して2の郭、3の郭の空堀は規模が極端に大きく、さらにはその外に接して作られる幅広の大きな土塁と空堀の存在は、内部と外部の違いを明確にしている。外部の空堀については市教委の調査で一部が確認されている。土塁は上幅5〜9m、基底部幅9〜16m程の規模で、2の曲輪外部の空堀も上幅6m位、深さ約3mの規模となっている。市の調査によって確認された外郭線は2の郭と3の郭の間に形成されていた小口の外部に形成された東西100m、南北100mの略方形の平坦地とこの南部に付属する径60mほどの平坦地を囲む点在する土塁と空堀から復元されるもので、広大な外郭を防禦する。これらは外郭と同期の構築と考えたい。外郭では滝頭部に接して障子堀が確認されているが、ここには、市教委の発掘と確認調査で確認された土塁・堀によって桝形小口に作られる。さらに、溺れ谷を取り込んだ大きな馬出状の出郭を備え、空堀は上幅8〜13m堀底幅1.3〜1.5m、深さ5〜6mの規模を有する。この結果、滝の城は第1段階に内郭部の空堀の大規模化の改修が行われ、櫓台状に形成される大きな土塁を前面に置いて守られる「馬出郭」が大手口として主要な機能を果たしていたが、第2段階で外郭部の増設が行われ、大手口の機能が外郭に規模を拡大して移されたと理解できるだろう。
 滝の城は北条氏の関東支配を進める上で起点となった氏照の滝山城を中心とする枝城群の一つで、滝山城から川越城、鉢形城、岩付城をつなぐ交通の要路に存在する等、氏照の北進策を進める上で重要な役割を担っていたと見られている。滝の城の外郭の整備はそこが兵站基地の役割を付加された結果であると考えられ、福島正義は平時は滝の城の対岸には置かれた清戸番所が機能し、異変が起きると滝の城に立籠ったと考えられている。

 以上が滝山城と滝の城の2城の縄張りの概要である。この二つの城郭はいずれも武藏国守護代大石氏の領国内に有り、大石定久ゆかりの城郭であるが、氏照を娘婿に受け入れた事によって大石氏の城郭は北条氏の城郭として整備拡充されたことが推定できる事になる。そして、氏照の滝山城入城は永禄前半と指摘される。2つの城郭を比較した結果は、構造的には縄張りや普請の面で明瞭に区分される内郭部と外郭部から構成されたことが理解された。内郭部に比べて外郭部は
 (1) 郭の規模に関係なく、空堀が幅広で、深く、大規模に造られる。
 (2) 塁線に折りを多用する。
 (3) 郭部が大きく広く造られる。 
 (4) 小口では馬出郭の構築が主要な普請要素になる一方、枡形小口の形成が一般化される。
 以上の4点に集約されるだろう。特に空堀の持つ特色は極めて特徴的で、この転換期は永禄2年〜8年前後と推定されているので、この点から後北条氏に関わりがある、あるいは関わりが有ると伝えられる北武蔵の城郭を見直してみたい。
3 類似の城郭
 (1)狭山市 柏原城(第3図)
所在地 狭山市柏原2376他
歴 史 この城は、天文15年の川越夜戦の際、河越城を守る北条勢を攻めるために山内上杉憲政によって築かれた陣城と伝えられている。又、『狭山市史中世資料編』では伝承を捉えてこの城を足利基氏の入間川御所を守る一連の城郭の一つと考えている
遺 構 昭和48年3月1日に市指定文化財史跡に指定され保存されている。入間川の河岸段丘面との比高10m程の台地縁辺部にあり、台地の屈曲点を掘り切って構える。堀は箱薬研堀に作られ、最大約9m〜18m程の上幅を持ち、堀底の幅は約2m。本郭と二の郭を区切る堀切は大規模なもので、本郭側は4.5m、2の郭側は1.6mの深さを保つ。2の郭の空堀は相当埋まっていると考えられる。2の郭には土塁は見られないが、小口際に稲荷様を祀る低い塚状の高まりが存在する。本郭の土塁は出桝等を設け、折りを多用し、塁線を複雑にする。堀底からの高さは約6mを保ち、内側では約3mの高さを持つ。土塁上は3mと比較的狭いが北端部では三角形状に広げて作られる部分がある。主郭の規模に比べ土塁、空堀が大きく作られることが特徴である。2の郭に作られる城内への小口は喰い違いに作られ、本郭へは西南部に開かれた落差1.5mほどの坂小口が存在し、土橋を通じて通路が開かれる。本郭内は平坦で、台地端部側には土塁は存在しない。2の郭は大きな馬出郭であると言う見解もあるとおり、前面に空堀を配した角馬出とも看取される。本郭小口に見られる「横矢掛かり」は変則的なもので、狭長に本郭土塁が西に突出する形で存在する。
 八巻氏は二の郭に見られる「馬出郭」の存在と本郭に入る土橋にかかった「横矢掛かり」を捉え「縄張りは洗練された氏照の城郭に類似していることから、永禄期の一連の築城でできたものと考えられる」としている。郭の規模の割に大規模な土塁と空堀の構築は、滝山城、滝の城と共通するところがある。
(2)寄居町 鉢形城跡(第2図)
所在地 大里郡寄居町大字鉢形
歴 史 文明8年(1476)長尾景春が主家の山内上杉に反旗をひるがえし、鉢形城にこもると有るのが鉢形城が記録に現れる最初として知られている。その後、鉢形城は北条氏邦が永禄3年(1560)頃(この年代観には各説あり)天神山城から移り、後北条氏の関東支配の北への備えの支城として整備したと伝えている。後北条氏支城群の北の拠点と位置づけられる重要な城郭である。永禄12年には武田信玄、天正2年には上杉謙信の焼き討ちという大きな戦乱が城下を襲い、天正12年(1582)北条氏邦によって大普請が行われている。
遺 構 鉢形城の初期遺構の基本的部分は本郭部にあると見られる。荒川の急崖と深沢川に刻まれた急崖に2辺を区切られた天然の要害で、現在の林業試験場の西側を掘切って城郭としたと考えられる構造上特色ある城郭である。堀切は両側から進められ、県道の部分が土橋状に掘り残されたものだろう。この堀切は深く掘られ、試験場の裏に残る高さ約4mの土塁と合わせると極めて強大な防禦線を形成するが、この土塁は後補と理解しておきたい。本郭は御殿曲輪と御殿下曲輪、笹曲輪に分けられる。御殿曲輪も3つの小さな郭に仕切られる。本郭には基本的には土塁がめぐっていたものであろうか、西端に低い土塁が見られ、「本丸跡の碑」が存在する第3の平場には北端部に高さ1mほどの土塁がある。
 2の曲輪には荒川沿いに高さ1mほどの小規模な土塁が設けられる。土塁に続く城山稲荷のところが一つの小口となり、細い土橋を伝わって、御金蔵跡と伝える小さな馬出郭に入る。又、稲荷の乗る土塁は迅速図や発掘調査によって、南へ延び町道部分を越える土塁として存在したことが理解され、3の曲輪との間は大規模な堀と土塁によって仕切られている。御金蔵跡が馬出郭であったことは史跡整備に伴う発掘調査によって確認された。西から北に置かれる高さ2.3mの土塁は内側に5段の階段状に積まれた石積みを持ち、上幅12m、深さ7.4mから上幅6.4m、深さ6.5m程の空堀に囲まれる完全に独立した馬出郭となっていた。推定されるもう一つの小口は現在の道路部分に有り枡形をなしている。2の曲輪と3の曲輪の間を仕切る空堀は大きなもので発掘調査によって上幅15.9m、下幅9m、深さ4〜4.5mの箱薬研堀の存在が確認され、馬出郭側は障子堀を成しているのが確認されている。2の曲輪土塁は削平されているが、調査で基底部幅約7〜9mの規模をそなえ、2の丸側に稲荷社から続く高さ3m程の同規模な土塁が備えてあったことが迅速図の記載とあわせ理解される。3の曲輪は北端部の秩父曲輪、南部の逸見曲輪に分かれるが、中間に諏訪の池がおかれ、池南の切れ口に上幅20mの空堀に挟まれた幅2mの喰違い小口があり、これを今でも大手と伝える。小口内側には大きな捨堀も備えられる。しかし、逸見曲輪には現在の所土塁の施設は見られず、空堀を挟んで直に外部と接触している。秩父曲輪の土塁は内側の高さ約3.5m、上幅約5.3mとなる。内側に3段の雁木状に造られた3〜6段の石積みが確認されている。空堀は上幅26m、深さ6〜8m程に作られ、土塁、空堀とも幅広で規模も大きく、塁線を変化させ、横矢がかりを多用するなどしている。諏訪神社の部分は完全な馬出曲輪となる。
 鉢形城は以上のように本曲輪と2の曲輪の間に置かれる堀切によって二つに分けられる構造上の大きな違いが存在している。
 (3)長瀞町天神山城(第3図)
所在地 秩父郡長瀞町岩田字城山1871
立 地 長瀞町の東部に位置する天神山城は東岸に横たわる低位の残丘性の丘陵上にあり、最高所は221.8m、段丘面との比高は約86mを測る。荒川は城郭の直下を流れ、山裾と川の間には狭い段丘面が存在するが、荒川によって、上州方面に連なる北側段丘とは断絶される。城からは仲山城が眺望されるのみで、寄居要害山城や、円良田城は北にある山並みに遮られ見えない。古くから、武蔵7党の一つ丹党白鳥氏の根拠地として、そして、中世室町期には阿保氏、あるいは岩田氏の支配地として開発が行われた地域である。天神山城は藤田氏が築城したと伝えるものであるが、藤田重利が川越夜戦によって北条氏の支配が確立すると北条氏の軍門に下り、北条氏邦を娘婿に迎えた天文19年頃この天神山城を氏邦に譲り、用土城に隠居したと伝える。そして、氏邦は永禄3年頃天神山城から鉢形城に移っているともいう(小林茂1979)。しかし、永禄4年頃の秩父「郡内一乱」の時北条氏政によって攻略された反北条の城郭として存在したという加茂下氏の研究によって(加茂下1992)、永禄4年頃は反後北条氏の城郭として存在したことが理解され、後北条氏支配に一つの時代観が示された。氏邦入城の年代はこれ以降である可能性が高い。
遺 構 縄張りや地形上から見て本城も郭構成上2つに区分される城郭である。その一つは独立した丘陵の北端部の最高所221.8mを本郭とし、尾根上に二の郭、三の郭を配置し、西側斜面部には多段に腰郭を置き、東斜面部には出郭(『秩父志』に記載がある)が置かれている。尾根上の各郭は、1972年の山崎一氏の調査記録によれば二の郭南端部に堀切が二本描かれているので、従前の調査者に倣い記入した。特に二の郭と三の郭は観光開発による造成によって削平されており、詳細が掴めないが。山崎氏の言う堀切部に当たる東肩部には石積みと堀の切り込みが残存しているので、大凡の位置は確認される。
 本郭は尾根幅約8〜9m、長さ20mの狭い平坦地に2段に造られる。北側は、約10mの落差を持つ切落しがあり、腰郭、そしてさらに10m下がって浅い構堀と二段に防禦される。さらに下がって、2本の竪堀が幅60cmの土橋を置いて東西の斜面部に置かれる。西側斜面部は、山麓の白鳥神社からの登り口に当たる。折坂による登坂路となるが、中段部以上に小さな腰郭が置かれ、途中に横幅35m位、堀上幅2m、見かけ上の土塁幅約1m、深さ1m位の構堀が置かれる。さらに上段は途中に小さな腰郭を置き本郭に到達する。このルートは南側を大きな竪堀に、北側は急斜面によって区切られるもので、搦手口らしき構成が読みとれる地点である。
 2の郭は造成による改変が大きいと考えるが、現状では最大幅約30m、長さ110m程の規模を有する。特に2の郭肩部には各所に石積が見られる。これは肩部の補強として築かれたと見られ、山内で産出する片岩と荒川の川原石を使用して築いているのが特徴である。2の郭西下部には腰郭の背後に幅2m、深さ1m、見かけ上の土塁幅約2mの構堀が置かれる地点が1カ所存在する。そして、3の郭境となる斜面部には、登り口と見られる竪堀、そして、それに続く横堀が構堀状に置かれている。土塁には折りが設けられており、ここが主要な通路であった可能性を示す。3の郭は尾根の南端部にあり、東西13m、南北22mほどの広さを持つ楕円形の郭で、南側には5m下に半周ほどする「鉢巻き状」の深さ1m、幅3m程の構堀を置き、東斜面部に大きな竪堀を配する。3の郭東斜面部、腰郭下には井戸状の窪地が2カ所見られる。
 もう一つは本城で問題となる「出郭」で、二の郭下の東側中腹にある。『秩父志』に記載されている。1985年の関口一也氏等の調査によってその存在が公になったものである。標高180mから160mにかけて郭形成が見られる。25m×19mの大きな方形の郭を中心に地形されるが、この郭は深さ2mほどに大きく掘り切られた堀切で尾根先端部に独立される。ここの大きな特色は大規模構堀が大胆に配置されるということだろう。2の郭から下る尾根ラインには4段に腰郭を配するが、最先端の出郭は約2mから6m下の周囲をL字状に段築し、その段面に造られた構堀で完全に防禦されている。構堀の深さは50pから1mある。出郭南部の斜面部は下部には出郭から一直線に伸びる幅50pほどの小道に沿って、10m×12mの腰郭と、8m×6mほどの腰郭を置くだけで、それぞれ8mほど下に二段に構堀を配している。構堀の規模はほぼ同じで、下幅3〜4m、深さ2〜2.5mほどに造る。この構造を八巻氏は馬出郭と捉えている(八巻1990)。また、出郭小口には坂道が直に入って若干窪んでおり、枡形小口に造られた可能性が高い。
 以上が天神山城跡の概要であるが、出郭部分は本郭から3の郭を中心とする稜線上から西斜面部の造りと大きな相違がある。その大きな違いは規模の大きい構堀が執拗なまでに多用される事だろう。この出郭部分は天神山城でも山頂の郭とは造りが異なる興味深い地点である。
 加茂下氏の研究に拠れば永禄4年頃後北条氏によって攻略された城郭であり、以後鉢形城にあって秩父地域を支配した北条氏邦による改修が考えられる城郭の一つである。
(4) 嵐山町 菅谷城跡(第3図)
所在地 比企郡嵐山町大字菅谷字城
歴 史 菅谷城跡は菅谷台地の南端に位置し、槻川と都幾川の合流点を背後に控える急崖の上にあって、平城とはいえ都幾川という天然の要害を背後に置いた城である。城の東・西にはそれぞれ浸蝕谷が入り込み、東谷は北方へ回り込んで大きく城を包み込む形を示している。浸蝕谷はきわめて深く台地を刻み込み、菅谷城跡はこれらの天然の堀に囲まれた所に築城されたものといえる。城跡の西方約50mの地点に「中世の道・鎌倉街道伝承地」があり、北方で市の川の西側を南下し、西方で槻川・都幾川の合流点を通過して、笛吹峠へまっすぐ南下している。したがって館は鎌倉街道の渡河点を押さえ、北方から市の川の谷間を南下する敵に備えた城とみることができる。菅谷城跡の構築年代については不明であるが、長享年間(1487〜89)に入ると、山内・扇谷の両上杉家の争いの中にあって、菅谷城跡には扇谷上杉定正が家宰の太田道灌を謀殺した後、扇谷の陣営を去って山内上杉顕定に属した道灌の子太田資康が居住していたふしがうかがえるという意見もある。太田資康は須賀谷原において扇谷勢を相手に長享2年6月18日激しい戦闘を繰り広げている。この合戦の様子については僧万里集九の『梅花無尽蔵』に詳しい。万里の訪陣は須賀谷原合戦の2か月後のことであるので、資康は守勢に不備な菅谷城跡を出て平沢寺内に布陣していたと考えられている(大多和晃紀『関東百城』)。これに対して太田資康は菅谷館に居城していなかったとする考え(伊礼正雄1972)もある。いずれにしても須賀谷原の合戦の中でも菅谷城は記録に現われない。わずかに、『松蔭私語』に須賀谷原合戦直前と見られる時期、松山で合戦があり、「向河越須賀谷旧城再興」、永正6年(1509)『東路の津登』に「須賀谷の小泉掃部助が宿所」と知られるだけである。菅谷城の構造を研究した伊禮正雄氏は、本城が後北条氏の築城技術によって現存の姿に整備されたと指摘し、戦国期に至っても後北条氏支配下の城として機能していたことを主張している(伊礼正雄1972)。これは後述する菅谷城跡の発掘調査によっても、出土品によってある程度存在が確認される。
遺 構 西の郭・三の郭・西の郭・南郭・本郭とある五つの郭は、本郭を中心として扇形に配置され、それぞれ堅固な土塁と空堀によって防備されているが、北側の堀は湧水点が浅い事もあって深さは無いものの水堀をなす。各郭を防備する土塁は、堀底よりの高さ約4から8m、上幅3〜4mを示し、その斜面は急勾配をもって築かれている。なかでも本郭の土塁は高さ9m、二の郭西側の土塁は11mという見かけ上の高さを示し、この城の中でももっとも大規模なものとなる。城のもう一つの防備施設である堀のうち、外堀を形成する部分は、自然の浸蝕谷を利用したもので、搦手門北側の発掘調査の所見では、谷自体に人為的な工作を加えず、あるがままの形を利用して泥田堀としていたことが理解される。これに対して、各郭の間を仕切る堀は明らかに人為的に掘割られたものであることがわかる。これらのうち、二の郭と三の郭の間、特に二の郭門付近の堀には水堀を示す部分がみられる。これは城の地下水脈が浅いため、空堀形成時に湧き水をとらえ、部分的に水がたまるよう堀底に変化がつけられた結果であるとみることができる。このほか菅谷城跡には、西の郭に大手門、三の郭に正てん門・搦手門、二の郭に二の郭門、南郭に水の手小口、本郭に正門と呼称されるそれぞれの門跡がある。これらのうち西の郭から三の郭に通じる正てん門と搦手門、三の郭中央から二の郭へ通じる二の郭門がもっとも明確な形で保存されている。正てん門跡はその内側に「蔀土塁」が設けられ、橋脚台や斜面部の石張りなどによって橋の存在が確認されている。「引き橋」であった可能性が高い。搦手門跡についてはすでに発掘調査が実施されたが、この部分の土塁が喰違いを示し、土橋が掘り残しによって設けられていることと、その前面に小規模な箱薬研堀が存在したという搦手門付近の構築手法が確認されたのみで、搦手門そのものについてはなんら手がかりを得ることができなかった。二の郭門はその前面に幅約30m、深さ4mの水堀あるいは空堀を置き、橋を架けその前面は東側の城山神社を乗せる「L字形の土塁」に囲まれ内枡形状の空間を形作る。二の郭門内部には、さらに本郭の出桝形土塁がある。水の手小口は城から河川敷に下る町道の出口に該当し、これも両側の高い土塁と、外郭の浸蝕谷によって桝形になり有効に守られている。本郭の正門跡と称される部分は、東端に存在する土塁の切れ間であるが、この部分への進入路は、二の郭の東端外郭の空堀道から本郭の空堀へ下って高さ8mの急斜面にみられる折坂を登る経路である。この部分はいままでにほとんど触れることのなかったところであるが、二の郭の東端外側の空堀道から下る経路は、現在でも認めうるので、この正門も本郭への進入路の一つと考えてよいだろう。最後に本城大手口を形成していた西の郭大手門跡が残っているが、この部分については土塁の破壊が著しく判然としない。西の郭西端のほば中央付近に、それとおぼしき窪地がみられるところから、ここに存在したと考えられる程度である。明治11年に隣村の蘭学医小室元長によって描かれた絵図では、この部分になんらかの小口が存在したとする様子はなく、大手はいまの搦手門の所となっている。そしていまも残る三の郭と西の郭を区切る空堀の北端の土塁欠失部分に、きわめて明確な形で桝形が描かれている。伊禮氏はこの部分について一つの小口の可能性ありと推察している。最後に発掘調査によって示された三の郭の内部遺構は搦手門の内側を仕切る空堀一か所、捨堀と思われる大きな窪地、建物跡5、井戸5、溝5本であった。建物跡は最大のもので7間×4間、最小のものでは3間×1間というものもあった。井戸跡は大小二種類のものが発見されたが、なかでも搦手門のすぐ内側で発見された井戸は径2.8m、深さ2.8mと大きく、素掘りのまま使用されていたものである。一方、空堀は三の郭の内側に横たわって発見された箱薬研形堀がある。この部分の発掘調査から得られた遺物は僅かであるが「かわらけ」の年代は16世紀代を示す。
(5)嵐山町 杉山城(第3図)
所在地 比企郡嵐山町杉山字雁城645
歴 史 本城は中世の築城理念を入念に再現しようとしたことが知られ、いまに残る中世の築城教本といわれているにもかかわらず、その歴史については不明な点の多い城郭である。『新編武蔵国風土記稿』には本城の居住者は「庄(杉山)主水と伝える」とある。
遺 構 都幾川以北で比企西部を通過する鎌倉街道は市の川に沿って、その西側を南下している。この市の川東縁には南北4.2qの規模を持つ長尾根状を示す低い丘陵が存在する。この丘陵はその東・西両側における形状にきわめて著しい違いがあり、西側が急崖をなすのに対して、東側ではゆるやかな傾斜を示し、各所に舌状の突出部がみられる。この丘陵上に杉山城と越畑城の2城がある。杉山城は長尾根状丘陵の南端部に近い(開析残丘状を示す)長さ570mの独立丘陵の全域にわたって築城されたものである。本郭部分の標高は95.3m、北三の郭は96.3mを示し1mほど高くなっているが、この比高差は実際にはまったく感じられない。城は大規模な空堀によって十余の郭が本郭を中心にして配される多郭式の城郭である。この郭配りを実測図によってみると、本郭を中心に置き、他の郭は三方に配される。それらは相互に連絡がとれ、連携して戦うことが容易になるよう工夫されているのが知られる。そのことは、本郭への小口が東・南・北の三方の郭からそれぞれ配置されていることによっても納得される。大手口は本城の東南端にあり、外郭を構成している。東側に延びる舌状の丘陵突出部は、そこが大手口にふさわしい形状を示しているが、このゆるやかな舌状の丘陵を登りつめた部分に小口が形成されている。小口は高さ2mほどの土塁に守られた坂小口であり、さらに土塁の内側には空堀が配され二重の防備となっている。この小口部分の土塁、および突き当りの土塁は屏風折形の土塁形態を示し、南二の郭への木橋を想定すると、そこには一つの横矢桝形が認められることになる。この屏風折形を示す塁線は本城の東と南の各郭および北二の郭に取り入れられているが、この構造は比企地方の他の城郭には認められないもので、以下に述べる種々の構造と相まって、築城教本といわれるゆえんの一つになっている。最初に本城に設けられている馬出しについてみると、それぞれ三方向に存在することが知られる。南三の郭のそれは郭馬出しの形態を示し、深さ5mほどの空堀と、その両側に設けられた土塁によって守られる両角馬出しである。東三の郭はやはり郭馬出しを形成し、東二の郭からの横矢によって守られる角馬出しとなっている。これに対して北側の搦手小口は低い土塁と空堀によって桝形が構成される。南三の郭にも郭馬出が付けられ、又、外郭からの小口も枡形小口となる。二の郭にもまたそれぞれの工夫が認められる。南二の郭の小口部分は南三の郭から土橋で連なっているが、東側に土塁、西側に空堀、後方に西から延びる高さ3.5mほどの土塁を配し、喰違いをなし、枡形小口となっている。東二の郭は、東側の馬出し小口を守る役割が中心であったと考えられるが、本郭への通路は幅の狭い帯郭を通って急傾斜を示す坂小口となっている。ここは他の郭部分に認められる小口の形態より単純な小口になっていることが知られるが、空堀と土塁上に幅狭く長く沿って延びる帯郭と急坂によって、その防備は充分であったと考えてよいだろう。北二の郭の小口は北三の郭へ突出した出桝形土塁、しとみ土塁、空堀によって、枡形小口が作られる。北二の郭から本郭への小口部分はほば直線的に入る坂小口で、その両側は単に大規模な空堀によって仕切られ、大きな横矢掛かりとなる。また北二の郭西側の下部には腰郭的に形成された空堀の外側に屏風折形土塁が配され、本城西側唯一の堅固な防禦線を形づくっている。東側は深い溺れ谷が直下まで迫っているためか、土塁・空堀などの防禦施設はまったく存在しない。さらに水の手となる本郭西方の井戸跡には腰郭と井戸郭を配して水の手の守りとしていたようである。いずれにしても本城の空堀は上幅10m、深さ6〜9mというように各郭を囲画している。馬出や枡形の多用とともに、塁線は折り歪みの多用によって多くの横矢がかりが存在する事も大きな特色である。伊禮正雄氏は「随所に見られる塁線の「折」、土塁の高低の按配、喰違ひの虎口や枡形、意外のところに設けられた「かざし」、直線連郭を基調としながら馬出や帯郭等を用ゐて囲い付の利点も活用した郭配置、空堀の大小や縦堀の利用、土橋と木橋の巧みな使い分け」から本城の築城年代を16世紀後半とし、後北条氏の北関東攻略の策戦基地であり前線基地であり、天文20年前後から永禄7年頃の存続であったという(伊禮1969)。しかし、この城の中で東3の郭、南3の郭い特徴的にとらえられた馬出郭の存在は滝山城外郭部のそれに匹敵する完成度の高いものであり、その年代観は伊礼氏の見解の最終段階を含め、以降の年代を考えておきたい。
(6) 吉見町松山城跡(第3図)
所在地 比企郡吉見町北吉見、南吉見
歴 史 全域が篠藪に覆われて、調査を拒ばれてきたが、2001年春には城跡全域が伐開され細部にわたって観察でき、松山城跡のは実体は詳細に把握されるようになった。
 松山城が記録に現れる初現は『鎌倉大草紙』で応永23年(1426)鎌倉六本松の合戦に「松山城主上田上野介討死」と記され、県内では記録上最古に位置づけられる城跡である。以後は天文6年から天正18年の後北条氏滅亡まで幾多の合戦の主役として登場する。松山城合戦史では
 天文6年(1537)    北条氏に破れ上杉朝定川越城から松山城へ移る。
 天文15年(1546)    上杉朝定河越夜戦に北条氏に破れ、松山城へ退く。扇谷上杉氏滅亡。
 天文20〜21年(1552) 北条氏天文21年松山普請、岩付太田資正氏との松山城攻防戦。
 永禄5〜6年(1563)  上杉輝虎(謙信)と北条氏康による松山城攻防戦。
 永禄12年(1569)    甲相同盟破綻。武田信玄北武蔵侵略。
 天正2年(1572)    上杉謙信北武蔵焼き払い。
 天正18年(1590)    前田勢侵攻。北条氏滅亡。
となる。『妙法寺記』によると天文6年の上杉朝定入城に際して大改修が考えられるという(伊禮正雄1971)。天文15年以降は完全に後北条氏の支配に入り、天文21年後北条氏によって松山城の普請が行われ(県史資料編6No203文書)、松山領の中心的城郭として位置づけられる。その後上田氏が城主として其の地位を確実なものとしている。  
遺 構 松山城で特徴的な構造をあげるならば、本丸、2の丸、春日丸、3の丸を区切る空堀の大規模なこと、土塁が殆ど無いこと、明確な形での進入路が掴み難い事、小口はいずれの郭にも明確でないことだろう。城の範囲は吉見町北吉見龍正院の南側の谷を北の境とし、大沼のある谷を東の境とし、羽黒神社の北裏の谷を南東の境とする東西700m、南北550mほどの大規模な城郭であったと思われる。そして城の郭構成は大きく分けて本丸、2の丸、3の丸、春日丸・兵糧倉跡・惣郭(6郭ともいう)・根小屋郭・北郭・外郭の9郭であったらしい。現存する城跡は、前6郭の範囲であるが、この中にはさらに帯郭・腰郭等大小さまざまな郭配りがみられ多郭式城郭の面影を残している。本郭は東西45m、南北45mほどの広がりを持つ郭で、東北部に突出して「櫓台」が設けられる。他の部分は、城全体に認められることであるが、郭境を構成する大規模な空堀と切り落しによって防備され、二の丸との境を画するコの字形の空堀は幅15〜20m、深さ10mで、二の丸を取り囲む本城最大の空堀となっている。この空堀は折の多用化によって設けられ、堀底の高低差と共に有効な防備意図をみることができる。二の郭は本郭の櫓台を包み込むようにコの字形を示しているが、折が多用されたこともあって凹凸が多い複雑な形を示している。郭の最大幅は東西60m、南北64mで、本丸より1mほど低く築かれている。郭内はまったくの平坦地であるが、東北の肩部には0.5mほど小高く盛り上がった所がみられる。二の丸を取り巻く空堀内には、東に低い土橋状の遺構を認めることができるが、この部分は春日丸からの通路を形成していた所と考えてよいだろう。春日丸は二の丸の東側にやはり二の丸を包み込む形で設けられており、その形はきわめて細長く、変化に富んだものとなっている。また、ここは、ハの空間から南に延びる土橋を通じてロの「馬出郭」連なり大きく左に振れ、イの郭に入り、更に下って横矢をかけられながら下段の堀道へ通じる通路となる。この小口構成は腰越城跡や大築城跡の小口形成と同じ手法で造られる。春日丸の最大幅は18mほどで南北に60mの広さを持つ平坦部を構成しているが、北部では竪堀の土橋を通じて長さ50m、幅10mのホの郭へ連なる。この北端下部には惣郭があり、井戸跡と考えられる凹地が存在する。そして春日丸東部には、丘陵を南北に分断する形で「堀切」が配され、中央部の土橋を挾んで南側は溜水を利用した水堀となっている。3の丸は西側に幅5mの土塁状を示す帯状の土居を配するほぼ方形をした郭である。規模は東西35m、南北36mである。この郭からは西南方向に帯状の道が延びて大堀の肩部まで下り、馬出からの通路と合流する。伊礼正雄氏はこの部分までが上杉氏時代の松山城域であったとして、この東に続く3の丸・根古屋郭・北郭および外郭は後北条氏時代の構築とみている。確かに、この「掘切」によって城の内外が分けられるようであり、3の丸と周辺のa〜hの郭は根古屋側に対しての備えが不十分で、明らかに城外として扱われている。兵糧倉跡は本丸の北側約6m下部に設けられ、本丸とは空堀内に設けられている土橋を通じて連絡している。郭の広がりは長方形を示しているが、それは上・下二段構成となっており、下段の郭はゆるやかな傾斜を持っている。郭全体の規模は東西40m、南北30mほどである。このほかの多くの郭は主として腰郭であるが、それらは先に述べた主要な郭の周囲にあって、それぞれの郭および小口等、それぞれの防備の必要に応じて配されたものとみることができる。ただ、南側の竪堀や構堀内に11基の大きな穴が穿たれているが、これらは井戸と見られ水の手郭として機能したと考えられる。このほかにも堀内に窪地が認められ、松山城が幾多の攻防戦の中で、多くの籠城戦を戦ってきたことを具体的に示すものとみたい。
 後北条氏支配下に築城され、あるいは改修されたとみられる比企地方の城郭には巧みな竪堀の多用化がみられるが、本城ではその機能を活かした様な配置は見られない。「竪堀か」としたものでも周囲の崖が浸食された切り込みと区別付きかねるものが多い。そして明確な形で小口が形成されていないことも大きな特色である。他の城郭は大きな土塁と堀に守られた馬出や桝形小口を設けるなどして、執拗なまでに防備施設を施し、はっきりとした小口空間を形成しているにもかかわらず、惣郭東に土塁を復元すれば食い違いに守られる桝形小口が存在し、、春日丸南部のロの郭に「馬出郭」の存在が考えられるだけなのは意外である。
 4 まとめ

 以上が埼玉県内で捉えられる空堀に共通した特色を持つ城郭である。その共通した特色は土塁と空堀が極めて大きく、高く、深く造られること、そして、塁線は折り歪みを多用し、有効な横矢がかりをつくり、一部では明確な形で馬出が多用されることであった。埼玉県内の鉢形城、天神山城、滝の城とこの滝山城はすでに述べたように後北条氏の管掌した事が類推される城郭であり、前2城は北条氏邦、後1城は北条氏照によるとされる。それぞれ後北条氏が山内上杉氏の重臣の藤田氏、大石氏を支配下に置いたのは天文15年の河越夜戦以後というのが一般化された考えであるが、天文19年という見方(加茂下1992)や永禄元〜2年説も示されている。滝山城については倉員保海氏が「千畳敷までを大石時代の城郭」(倉員1983)、八巻氏は本丸周辺の郭群を捉えて「このあたりが、大石氏のオリジナルな曲輪なのかも知れない。」(八巻1993)としている。伊禮氏は杉山城を北条の築城とし、その年代を天文末(1555)〜永禄末(1570)までに限定している(伊禮1974)。一方、菅谷城に関しては松岡進氏が北条氏対上杉氏の松山城攻防戦の中で形成された境目の城郭群と捉え、菅谷城が兵站基地として整備拡充されたものと伊禮氏と同様な見解を示されている(松岡1991)。

 このうち、広い郭を作るということは、表からも捉えられるとおり支城・あるいは準支城と目される兵站機能を付加された城郭に見られるものであり、普遍化は難しいのではないだろうか。先に上げた滝の城はじめとする城郭は、深くて、上幅の広い空堀と基底幅が広く、比高差を持ち、威圧感に優れた土塁の構築という点では滝山城、勝沼城とも一致し、鉢形城、天神山城出郭、菅谷城、杉山城、柏原城、滝の城などが全て含まれるのである。
 馬出郭は杉山城東3の曲輪・・南3の郭・馬出郭、鉢形城2の曲輪・3の曲輪(諏訪郭)に完成した姿で認められ、不完全ではあるが、八巻氏も指摘している松山城春日丸南、天神山城出郭下、菅谷城2の郭門前のものも一応その範疇に入れておきたいこの馬出については天神山城、菅谷城のように形が明瞭でなく、存在があやふやな城郭と、杉山城や鉢形城のように大規模で、しかも多用される城郭とがあるので、あるいは馬出の形成という点では2段階が想定されるのかも知れない。この馬出のあり方を考える上で参考になるのが鉢形城の3の曲輪小口に見られる馬出小口と喰違い小口の並列的な存在だろう。これは、2の曲輪小口についても同じで、この違いが時間差を示すものか、あるいは機能差を示すものかいずれなのか、これまで論述されたことはない。
 桝形小口は杉山城南2の郭・北2の郭・北3の郭・本郭北小口、鉢形城二の郭小口・外郭、小倉
城本郭・大手門、滝の城外郭小口、菅谷城搦手口・西の郭小口・南郭小口に認められる。
 次に横矢掛かりは松山城において効果的に多用されているのを認めることができるが、天神山城出郭下、菅谷城本郭、杉山城井戸郭への木橋、北2の郭小口、北3の郭小口、滝の城二の郭小口、柏原城本郭小口等にあり、菅谷城本郭南の空堀に見られる土塁上の通路は極めて完璧な横矢がかりとなる。菅谷城は対上杉氏への戦略上の備えから天文15年(1546)頃から数年内に大凡の形を後北条氏によって作り上げられたもの(伊禮1972)というが、伊禮氏はこの具体的特徴を指摘していない。そして、松岡氏も上杉氏への備えとして整備されたと伊禮氏同様の考えを示し、松山城攻防戦における境目の役割を与え、永禄3〜4年頃の年代観を具体的に示した。
 以上、検討してきた城郭を抽出された特色によって一覧にまとめると表のようになる。
表 北武蔵の城郭に見られる特色一覧         (◎多・大 ○有 △少)
城郭名
 
堀の規模
 
塁線の折
 
郭規模
 
枡形小口 石積
 
年代観
 
馬出  
滝の城 (障子堀)   ◎  ◎ 永禄7年氏照支配
柏原城   ◎  ○  
松山城   ◎  ◎ (△) 天文15年以降後北条氏支配下
菅谷城   ◎  ◎ (△) 長享2年旧城再興、3の郭出土品16C代
杉山城   ◎  ○ 天文20〜永禄6年頃か
小倉城   ◎  ○ (伝)江戸城代遠山氏の城、出郭出土品16C
鉢形城 (障子堀)   ○  ◎ 氏邦入城永禄前半頃か、3の曲輪出土品16C
天神山城出郭 ○(堀)  △ (△) 永禄5年頃後北条氏支配下に入る
滝山城
 

 
  ◎
 
 ◎
 

 

 

 
氏照永禄元〜2年頃、或いは6〜10年頃移転、天正12〜15頃八王子城移城
 「洗練された氏照の城郭」(八巻1993)とした八巻氏は、縄張り研究と後北条氏関東支配にかかる、政治的、軍事的情勢の分析から氏照にかかる築城パターンを抽出しているが、その特色は
第T期 台地縁ぎりぎりに空堀の防禦ラインをめぐらした上、その内側のラインで馬出を設け内外    を厳重に分けている。そして小規模城郭では横矢の利いた土橋状の道を歩かせ、馬出もし    くは馬出郭に入り、城内に入る。山城には小さくも桝形小口をつくる。(後段は伊禮氏も    同じ見解)。滝山城、滝の城、勝沼城、片倉城、高月城、小山田城、小山城、柏原城等。
第U期 永禄12年頃の栗橋城に代表される。滝山城のような洗練された無駄のない構造をやめ、    徹底的な形で防禦をみせつけるかのように同じパターンの繰り返しの施設を構え築城され    る。栗橋城、小山城。
第V期 馬出や横矢がかりの組み合わせを放棄し、石垣などのシンプルな遮断線で特徴づけられる。    石垣が多用され「見せつけるための城」。八王子城(天正6年頃築城開始、天正12年〜15    年頃完成)。
 この八巻氏の見解の内、第T期の特色はこれまで伊禮氏等が指摘したものと同じ視点で捉えたものと考えられるが、八巻氏は調査結果に基づいてこれを具体的に表現したものといえよう。
 一方、鉢形城跡や天神山城跡では郭肩部や土塁の肩部、裾部に石積がみとめられる。その内土留め工法と見られ、平場肩部に平石を数段小口積みした石積みは花園城出の多用の他、天神山城、寄居要害山城、円良田城、御獄城等にある。一方、土塁裾などに化粧積みされた石積みは片岩の小口積みの多用で鉢形城、千馬山城の根古屋と見られる妙音寺跡、小倉城出郭法面、腰郭法面や小口部等に施されていた。土留め工法と見られる石積みは、八王子城や金山城に見られる石積とは全く異なった使用方法で、天神山城では、尾根筋の遺構部分に使用され、後北条氏の関わりを想定される出郭には存在しない。後北条氏築城の特色と明確に捉えることはできないものだろう。V期に分類された八王子城の引き橋から御主殿への石積みを多用した通路の造りは鉢形城の二の曲輪馬出郭と三の曲輪小口の調査でも確認され、太田金山城でも見事に整備された石積みの通路などを見ることができる。この石積は外敵に備えるという性格のものではなく、来訪者に威圧的な力の存在を誇示するものであったと考えられ、後北条氏の安定した支配段階の普請と考えられる。金山城は天正12年に後北条氏の支配に帰するところとなった城郭で、石積みを多用した整備などは斉藤慎一氏の金山城編年では後北条時代の最終「第W期」であるという。これ等の石積は発掘調査によっても八王子城、金山城の他、鉢形城終末期段階に存在が確認されているので、後北条氏時代最終期の築城に伴う特色として良いだろう。そして、表によっても抽出されたそれぞれの特色は、城郭の立地や性格を考慮するならほぼ共通して認められるものであると理解したい。
 これによって、これまで検討してきた後北条氏に関わりが捉えられる城郭の示す特色は滝山城、滝の城から特徴的に抽出されるもので次のようにまとめられよう。
第T段階(1) 郭の規模に関係なく、空堀が幅広で、深く、大規模に造られる。
    (2) 塁線に折りを多用する。
    (3) 小口では枡形小口の形成が一般化されるとともに、馬出郭の構築が主要な普請要       素になる。
第U段階(4)石垣、土塁裾の石積、通路などの石張等石を多用した普請技術の普遍化
 これらの年代観はこれまでの検討によって第T期が永禄元年から天正12年頃まで、第U期は斉藤氏の金山城分類では第W期に該当し、天正12年から15年頃までを推定できることになろう。
 この抽出された共通の特色によって、城主不明とされてきた現在の菅谷城、杉山城、柏原城、小倉城の最終的な築城あるいは改修の担い手は後北条氏系の者であったと理解され、第T段階に該当し、高圧的な視覚効果を高めた石積を備える小倉城、鉢形城は第U段階に該当する可能性が高いことが理解できた。
 第T段階は永禄元年から天正12年と長期にわたる年代を出したが、八巻氏はこれを2期に区分しているものの、その「第U期」は捉えることが出来なかった。また、八巻氏は後北条氏領国内における馬出について詳細な検討を行い、それぞれの城郭に見られる馬出構築の年代を推定し、試論の試論と断りながらもその編年案を示した(八巻1990)。これによれば天神山城、松山城を永禄初年までの初現とし、滝山城、菅谷城を永禄初年頃、松山城を永禄6年直後とした。しかしながら北武蔵の歴史的状況を加味すれば、概ね天文15年(1546)以降、永禄4から7年頃が後北条氏の支配浸透段階と見られているので(朝倉直美1988ほか)、第T段階は中でも甲相同盟段階の永禄4年頃を出発点とし、比較的支配が安定していた永禄12年頃までが想定される。永禄12年から元亀2年頃は甲相同盟破棄によって、北武蔵西北部では相当の戦乱期段階となることが知られ(梅沢2001)、多くの城郭が存在するものの、縄張りや、普請上それ以前と区別しうる際だった特色は見いだせない。第U段階は僅かであるが発掘調査事例もあるので、やはり先学の見解に習って後北条氏時代末期の天正12年以降と考えておきたい。
 菅谷城、杉山城等北武蔵に所在し、特徴を抽出し詳述した城郭は、構造的に捉えた特色からの築城者観とこれまでの先学の指摘とおおむね一致することになったが、松山城は天文21年に後北条氏による大改修が行われた城郭であった。大規模な空堀と塁線に折りを多用するあり方は、北武蔵の城郭の中に見られる後北条氏の関わりを推定させていたものであるが、縄張りが極めて複雑で、明瞭な小口形成が見られないことや、馬出のあり方に上田氏に関わりのある城郭との共通点を認めることができるなど、後北条氏が主体になって普請を行ったかどうか明確にできなかった。これは松山城が天文15年以降、後北条氏の支配下に入ったものの、「上田氏の本地本領」としてこれまで扇谷上杉氏の有力武将であった上田氏を「他国衆」に位置づけ、上田朝直を城主とし、松山領経営を委ねた結果を意外と表現しているのかも知れない。そして、後北条氏領国圏内では全く存在が知られず、記録にも全く表れない小倉城もこの検討によれば、後北条氏によって構築されたことをしめした。かって、松岡進氏が松山城主上田氏の支配地に配される小倉城に境目の意義をとらえて「遠山氏の関与を」指摘したことがあるが(松岡1991)、確かに小倉城周辺に伝える遠山氏の持城であったという伝承が有力な情報として浮上する。小倉城はその縄張りのすばらしさに比して、立地が周辺の山並みより低く、存在を隠す様な地点にあり、極めて不審な城郭と言われてきたが、松山城と上田氏の本領地「大河原谷」を結ぶ中間の要衝にあり、これは後北条氏によって上田氏を牽制するためにのみ存在意義を認められる城郭であり、上田氏の本領内に打ち込まれた「楔」であった可能性が高いと考えておきたい。
 この検討によれば、別表記載の城郭の中で馬出までの前4項目が認められる伊奈城、難波田城、横瀬根古屋城、雉ケ岡城は後北条氏による城郭の築城・改修が推定されることになるが、伊奈城は障子堀を構え、岩付太田資正の関わりが指摘され、難波田城は後北条氏家臣の上田左近の居城、根古屋城は元亀3年の北条氏邦文書によって朝見伊賀守に横地監物を指し添えて防備させたことが知られ、そして、馬出を備える雉ケ岡城は後北条氏との関わりがあまり指摘されていないが、天正10年の神流川合戦以降北条氏邦の支配に完全に帰属し、横地左近が居城等とそれぞれ後北条氏との関わりが指摘され、その推定に一定の裏付けがあると見られるがどうだろうか。そして、後北条氏系の城郭とは抽出された特色が河越城、岩付城、忍城という近世においても主要な城郭として存在し続けた城郭の中にあっても違和感なく明瞭に位置づけられ、融合していることで知られるように、安土城などで新たな城郭都市造りが進む中で、後北条氏が新たな覇権をも伺おうとする足がかりを求めた動きを具体的に表現したものであり、その動きは東国における近世城郭への出発点となったと考えておきたい。
 以上、縄張りを中心とする現地調査によって類推される後北条氏関連の城郭に関する一定の評価である。しかし、関係する城郭の調査は表面的な観察に終始し、考古学的な調査は滝の城本郭、外郭空堀、鉢形城二の曲輪、二の曲輪空堀、三の曲輪内秩父曲輪と菅谷城3の郭、小倉城出郭を除いて進んでいない。これから発掘調査が進めば、その形成年代を具体的に示すことができるようになるだろう。
 当初の目論見と異なり、伊禮氏、八巻氏をはじめ多くの先学の研究に導かれながら、これを乗り越えることを考えてきたが抽象的な特色の抽出に止まってしまったことを大いに反省している。先学諸兄のご叱責をとご教示をいただきながら更に調査研究を深めていきたいと思う。
 
 参考・引用文献
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伊禮正雄1969「一つの謎・杉山城址考ー寺島裕氏の御魂に献ぐー」(抜刷)
伊禮正雄1971「松山城の構造と価値」『松山城址−比企の自然と文化財シリーズー』
伊禮正雄1972「菅谷城の構造」『畠山重忠と菅谷館跡』比企の自然と文化財を守る会
伊禮正雄1974『関東合戦記』新人物往来社
伊禮正雄1986「後北条氏の城郭の優秀性ー片倉城の構造を一例とする小対話ー」『八王子城』八王子市教育委員会
梅沢太久夫ほか1982『菅谷館跡環境整備実施報告書』埼玉県教育委員会
梅沢太久夫2000「北武蔵の中世城郭について」『埼玉考古第35号』埼玉考古学会
梅沢太久夫2001『秩父’01中世吉田の城』吉田町教育委員会
大多和晃紀1977『関東百城』有峰書店
小和田哲夫1984「後北条氏の鉢形領と鉢形城」『武蔵野の城館址』名著出版
太田市教育委員会2001『史跡金山城跡環境整備報告書発掘調査編』
加茂下仁1992「中世末期の秩父ー日尾・上吉田の山城を起点としてー」『合角ダム水没地域総合調査報告書下巻』       合角ダム水没地域総合調査会
加茂下仁ほか1982『長尾景春と熊倉城』荒川村郷土研究会
倉員海保1981「滝山城と八王子城」『武蔵野の城館跡』名著出版
倉員海保1986「滝山城について」『八王子城』 八王子市教育委員会
小林茂1979「天神山城」『日本城郭大系5』新人物往来社
斉藤慎一1996「金山城の変遷と遺構」『金山城と由良氏』太田市教育委員会
斉藤慎一2001「戦国期由井の政治的位置」『東京都江戸東京博物館研究報告第6号』
塩野博ほか1977『菅谷館跡』埼玉県教育委員会
千田嘉博2000『織豊系城郭の形成』東京大学出版会
段木一行1979「滝山城」『日本城郭体系5』新人物往来社
長沢史朗1994『武州松山城』吉見町
中島規岐生1987「滝の城跡第3次調査」『柳瀬川流域遺跡群(X)』所沢市教育委員会
中田正光1983『埼玉の古城址』有峰書店新社
中田正光1989『秩父路の古城址』有峰書店新社
福島正義1981「滝の城跡」『所沢市史資料編中世史料』所沢市
松岡 進1988「戦国期城館遺構の史料的利用をめぐって」『中世城郭研究第2号』中世城郭研究会
松岡 進1991「戦国期における「境目の城」と領域」『中世の城と考古学』新人物往来社
宮田毅1996「遺構・遺物編」『金山城と由良氏』太田市教育委員会
八巻孝夫1990「後北条氏領国の馬出」『中世城郭研究第4号』中世城郭研究会
八巻孝夫1993「北条氏照の城郭ー後北条氏の城郭における氏照系城郭試論ー」『中世城郭研究第7号』
埼玉県1988『新編埼玉県史 通史編2 中世』
八王子市教育委員会1983『八王子城』
寄居町教育委員会1998、1999『現地説明会資料』
寄居町教育委員会1998『史跡 鉢形城跡1998ー平成9年度発掘調査概要報告ー』
寄居町教育委員会2000『史跡 鉢形城跡2000ー平成10年度発掘調査概要報告ー』
嵐山町教育委員会1992『杉山城跡環境整備計画書』
嵐山町1997『嵐山町博物誌第5巻嵐山町の中世』
 
別表 北武蔵の城郭要素一覧

 
城郭名
 
堀の規模
 
塁線の折
 
郭規模
 
 枡形小口 石積
 
年代観
 
馬出  
1 岡の城山   ○   ◎  ○   ー  ー  
2 城山   ○   ○  ◎   ー  ー  
3 三ツ木城   ◎   ◎  ○   ー  ー  
4 石戸城   ○   ー ・△   ー  ー  
5 伊奈城 (障子堀)   ◎  ◎   ○  ー  
6 名栗根古屋城   ◎   ー ・△   ー  ー  
7 大河原城 堀切のみ   ー ・△   ー  ー  
8 リュウガイ城 堀切のみ   ー ・△   ー  ー  
9 難波田城   ◎   ◎  ○   ◎  ー 上田左近領地
10 田波目城  △   △  ○   △  ー  
11 竜谷山城 堀切のみ   ー  △   ー  ー  
12 毛呂氏館 堀切のみ   ー  ○   ー  ー  
13 高取山城 竪堀のみ   ー ・△   ー  ー  
14 小瀬戸城 小掘切1   ー ・△   ー  ー  
15 青鳥城   ◎   △  ◎   ー  ー  
16 高坂刑部館   ◎   ◎  ◎   ー  ー  
17 青山城 堀切のみ   ー ・△ (△)   △  ー  
18 腰越城 堀切.構堀   ー ・△ (△)   △  ー  
19 高見城 堀切のみ   ー ・△   △  ー 文明12年高見在陣衆
20 中城   ○   ◎  ○   ー  ー 15世紀後半築城か
21 越畑城   △   △ ・△   ー  ー  
22 山田城   ○   ー  ◎   ー  ー  
23 羽尾城   △   ー  ◎   ー  ー  
24 大築城 堀切のみ   ー ・△ (△)   △  ー (上田朝直在陣)
25 安戸城 堀切のみ   ー ・△   ー  ー  
26 根岸城 堀切のみ   ー ・△   ー  ー (滋野刑部居城)
27 諏訪城 堀切のみ   ◎  ◎   ー  ー 長田長七郎、諏訪民部居城)
28 永田城 堀切のみ   ー  ◎   ー  ー 寺尾楯とも伝える
29 宮崎城 堀切のみ   ー ・△   ー  ー (黒沢民部居す)
30 金仙寺城 堀切のみ   △  △   ー  ー  
31 女部田城 小堀切1   ー ・△   ー  ー  
32 比丘尼城   ー   ー  △   ー  ー  
33 吉田竜ケ谷城 堀切のみ   △  △   ー  ー  
34 小暮城 堀切のみ   ー  ◎   △  ー  
35 鷹谷砦 堀切のみ   ー ・△   ー  ー  
36 日尾城 小掘切1   ー ・△   ー  ー 永禄4年頃落城
37 仲山城 小堀切2   ー ・△   ー  ー  
38 浦山城 小堀切2   ー ・△   ー  ー  
39 高松城 堀切のみ   ー ・△   ー  ー 永禄4年城明け渡し
40 千馬山城   △   ー ・△   △  ー 永禄4年用土氏在城
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横瀬根古屋城 ◎.構堀   △  ◎   ○  ー 元亀3年朝見伊賀守氏横瀬受領
熊倉城 堀切のみ   ー  △   △  ー 永禄12年落城
室山城  ー   ー ・△   ー  ー (大胡大八郎居城という)
塩沢城 小掘切1   ー  △   ー  ー  
五十子城   ○   ー  ◎   ー  ー 寛正6年上杉房顕陣を構う
雉ケ岡城   ◎   ◎  ○   ○  ー  
円良田城 堀切のみ   ー ・△   ー △土留  
猪俣城 堀切のみ   ー ・△   ー  ー  
御獄城 堀切のみ   ー  △   ー △土留  
両谷城  堀切   ー  △   ー  ー  
深谷城   ◎   ◎  ○  ー  
花園城 堀切のみ   ー  △   ー ◎土留  
花園御獄城 堀切のみ   ー ・△   ー    
要害山城 堀切のみ   ー  △   △ ○土留  
花崎城 (障子堀)   ○ 不明   △  ー  
私市城 (障子堀)   ○  ◎   ー  ー  
河越城   ◎   ◎  ◎   ◎  ー  
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岩付城   ◎   ◎  ◎   ◎  ー  
忍城   ◎   ◎  ◎   ◎  ー  
60 滝の城 (障子堀)   ◎  ◎   △  ー 氏照支配
61 柏原城   ◎   ◎  ○   △  ー  
62 松山城   ◎   ◎  ◎ (△)  (△)  ー 天文15年北条氏支配下
63 菅谷城   ◎   ◎  ◎ (△)   △  ー 長享2年旧城再興、
64 杉山城   ◎   ◎  ○   ◎  ー 天文20〜永禄6年頃か
65 小倉城   ◎   ◎  ○   ◎  ◎ (伝)江戸城代遠山氏の城、
66 鉢形城 (障子堀)   ○  ◎   ◎  ◎ 氏邦支配永禄前半頃、
67 天神山城出郭   ◎ ○(堀)  △ (△) (△)  ー 永禄5年頃北条氏支配下か
68 滝山城   ◎   ◎  ◎   ◎  ○ 氏照永禄前半頃入城、
69 寺尾城 堀切のみ   ー ・△   ー  ー  
70 古御獄城 堀切のみ   ー ・△   ー  ー 根古屋城物見と伝える
 
 
 凡 例
 堀の規模  大 ◎:上幅約10m以上   並 ○:上幅約6から10m   小 △:上幅約6m以下
        ー :該当なし
 郭の広さ
 北武蔵の城郭で郭規模が捉えられるものについてその最大郭の面積の概数を捉えてみると、その分布範囲は
 1500u以下、1500<A≦6000u、6000u以上におおよそ分類されることが認められるので、これを基準に
 区分した。
       広 ◎:約6000u以上   並 ○:約1500〜6000u  
       狭 △:約1500u以下 (・は中でも800u以下極小郭)   ー :該当なし
註 上記の城郭の規模については、筆者の現地調査に基づく概数が主であるので、必ずしも正確なデーターで
  はないが、概ねの傾向は捉えられると考えている。