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                               事務局:林 正幸

  環境問題通信10−1号

 今回は近藤、田中(裕)、野々垣、林まさの4名でした。私以外は新たな参加というので
嬉しいことです。そしてこれまでの皆さんのさらなる参加も期待されます。

「留意」どまりのCOP15(林まさ)

 昨年12月20日の「中日」のスクラップのひとつ。記事の見出しを拾うと「COP
15『留意』どまり」「疲労感だけが残った」「拘束力なく、数値空白」である。
 COP3で採択された温室効果ガス(GHG)削減のための京都議定書の期限が
2012年に迫る中で、2020年に向けて新たな合意をつくるべく開かれたCOP15
は、見出しのように終わった。
 米国の姿勢が前向きになり(ただし1990年比でみると削減目標は低い)、日本の鳩
山首相が25%の削減を打ち出した(現状は京都議定書の目標をマイナスに達成中)にも
拘わらず、先進国と発展途上国の対立が全面に出てしまって、会議が空転した。
 07年2月には気象変動に関する政府間パネル(IPCC)が、第4次評価報告書の中
で第1作業部会(自然科学的根拠)報告書を出して、温暖化の可能性を強く警告している
にも拘わらず、本屋には温暖化批判の本が溢れるように並んでます。どうして「予防の原
則」に基づいて環境問題を捉えられないのか、私には疑問です。それに石油の枯渇は目前
です・・・。
 もうひとつの疑問は、国全体のGHG排出量の大小ではなく、どうして国民1人あたり
の排出量をベースして議論しないかです。その方が先進国と途上国の折り合いもしやすい
と思われます。

「生物多様性のいまを語る」(林まさ)

 岩槻 邦男の「生物多様性のいまを語る」(研成社)を読んだ。著者は植物の分類を研
究し、それを通して生物多様性とは何かを考えてきた。現在は兵庫県の「人と自然の博物
館」の館長を務め、生涯学習の支援に取り組んでいる。
 彼の考えの基本は2つに整理できると考える。ひとつは「人は生物多様性なしには生き
ていけない」ことである。
 毎日の生活を見つめてみると、数え切れない生物種と関係を持っている。まず従属栄養
のヒトは食物を摂取し、その有機物からエネルギーを獲得して生を維持している。その食

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物のほとんどは生物起源である。食に限らず衣と住を見ても、多くを生物に依拠している。
石炭やおそらく石油も地質時代の生物が元になっている。さらにこころのいやしになるペ
ットはどうだろう。それだけでなく日本文化が生物の多様性抜きに形づくられたろうか。
さらに視野を広げると、直接関係するそれぞれの生物は、その生物単独で生存しているの
ではない。マグロの刺身はマグロだけでいただけるのだろうか。このように私たちはほと
んどすべての生物と係わり、それらに支えられて生きている。
 生命が30数億年前に地球上で発生したとき、生き物は単一のすがただったとほぼ確認
されている。そしてこの生命は発生したそのときから、多様化を始めていた。そして三十
数億年の進化の歴史を経た現在では、数千万とか億を越えるとか推定されるほどの多くの
種に分化している。生命にこの多様性が無かったら、地球環境のいく度かの激変によって
完全に絶滅していただろう。
 進化の歴史をたどると、生物はすべて親戚関係にあることが分かる。そして共同と競争
の中で共存し、生命系の生を30数億年にわたって生き続け、私たちひとりひとりも現在
のその生の断面を生きている。ヒトは進化の結果万物の霊長である地位を得たと認識して
いるが、他の生き物たちとの共存なくしてこの世の生を全うすることはできないことを忘
れがちである。
 もうひとつは「生物多様性を持続的に利用できるようにする」ことである。これは生物
多様性条約の基本的考え方でもある。
 持続的な利用とは、現在我々が生物多様性から得ている恩恵を、孫子の世代も我々と同
じように享受できるようにすることである。日本列島は生物多様性に恵まれているのが顕
著な特徴であることに目を向けよう。日本人はこの列島で自然と共生するライフスタイル
を確立してきた。つまり、客観的には地形の厳しさも手伝って、人里・里山・奥山という
3つのエリアが形成された。ヨーロッパのように絨毯的にではなく、奥山には自然に近い
状態を保全し、人里・里山で生物多様性の恵みを持続させながら、花と緑を愛する豊かな
心情を展開してきた。日本の新石器時代をつくった先祖たちの人為・人工は、一方的に自
然を制圧するというものではなく、自然と馴染みながら、ひとつひとつ試行錯誤を重ねて
積み上げてきたものだった。いま風のいい方をすれば、自然との共生をどう成り立たせて
いくかを詰めていく人為・人工だった。そして国土の20パーセント近くが農地として開
発されると、これまで陽地の乏しかった列島では劣等生であった陽地の植物が生を謳歌す
るようになった。開発によって形成された人里には、外来種が優勢になった。
 その里山が日本人の生活から疎外されることになった。利用価値を失って放棄され、荒
廃している。もっともこの荒廃は、長い目で見ると自然植生への復帰の出発点である。こ
れは自然保護主義者にとって望ましいかもしれない。しかし私たちは原始に戻ればよいだ
ろうか。人里・里山・奥山は、そして森に神の存在を見て畏敬する(「鎮守の杜」)のは、
世界に誇るべき日本の文化であると考えたい。

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 メール参加の原 弘良さん(10年前に退職し、地域で「科学クラブ」の活動をしてい
る)からは、教育の中にも同じ原理が存在するのはないかとして、総合理科・生物分野の
彼の指導目標が紹介されました。
1.入学直後には、生徒2人ひと組になって校内の生物探検をくり返す。「友だちと学習
する心地よいコミニュケーション」の始まりを大切にし、他方で科学レポート作成の要所
を押さえ、それを習慣づける。
2.食事作法「いただきます」は、「動植物の命」をいただいで、「私の命」にさせても
らうことである。食物連鎖は換言すれば生命連鎖であること、すべての生物が生命連鎖し
合った生態系の必須存在であるから、小さな鎖の破れも重大な危機を招く。この中で「自
然界の可視化と想像力の大切さ」を習得させる。
ここで可視化とは自然界の本質を捉える視座を得ること、想像力とは自然の摂理を自分の
生き方に結び付ける力と、私は理解しました。
 そして3.「すべての生物が、生物進化を経て存在する」、4.「自分自身にみる『命
の連続』」(遺伝)と続きます。

 COP10の実際の会議では、遺伝子資源の略奪に対する途上国の反撃など、利害対立
の議論も行われるでしょう。目先の経済的利益が、生物多様性が持つ大きな意味をないが
しろにする危険もあります。「100年後にも生きていられるには、どうするべきか」を
考えたいという発言がありました。
 砂漠の生物多様性は小さいです。しかし砂漠でしか生きられない生物もいます。緑豊か
な日本も荒涼と見える砂漠も、生態系の多様性としてどちらも保全する必要があります。
生物多様性の3つの側面とは、種・遺伝子・生態系です。
 食物連鎖の頂点にヒトが立っているように言うが、ヒトの後もつながっており、本当は
食物循環と捉えるべきとは、近藤さんの意見です。上の本でも、独立栄養の植物でさえ、
従属栄養の動物が呼吸で二酸化炭素を発排出し、また微生物などが排泄物や死骸を分解す
ることに依存していると指摘しています。
 絶滅危惧種対策もCOP10の重要議題ですが、ある種を絶滅から救うのは、その種が
生活する生態系を含めて保全することである。しかし他方で生物種は全体の1%くらいし
か確認されておらず、生態系の構成要員も十分には分からない。絶滅危惧種対策は試行錯
誤の時間がかかる作業と受け止められて始めて成り立つ、とは上の本の指摘です。

話 題

 近藤 昌宏さんはリサイクル運動に取り組み、エコ商品の開発も考えています。またE
SDにも係わってきたそうです。

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 EDSは Education for Sustainable Development
の略で、「持続可能な開発(私は「発展」がよいと思います)のための教育」と訳されま
す。
 NPO法人「持続可能な開発のための教育の10年」推進会議(EESD−J)
    http://www.esd-j.org/j/esd/esd.php
では次のように解説しています。
 ESDとは、社会の課題と身近な暮らしを結びつけ、新たな価値観や行動を生み出すこ
とを目指す学習や活動です。
 例えば、持続不可能な社会の課題を知り、その原因と向き合う。それらを解決するため
にできることを考え、実際に行動する。そのような経験を通じて、社会の一員としての認
識や行動力が育まれていきます。
 また、豊かな自然といのちのつながりを感じたり、地域に根ざした伝統文化や人びとと
触れながら、人と自然、人と人との共存とや多様な生き方を学ぶといったことも、ESD
のアプローチのひとつです。

 田中 裕也さんの勤務校では上のESDにも関係しそうな「地域ふれあい事業」に取り
組んでいます。また大学では環境の勉強をし、こうりゃんの茎からボード(持続可能な材
料)をつくる研究や、万博で話題になったゼロエミッショントイレに係わったそうです。



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