01.1
林 正幸
部活動と私
高校時代、はじめはテニス部と物化部に二また掛けていたが、やがて後者にのめり込むようになった。物化部とは物理化学部の略である。活動内容は化学、写真、模型、天文などである。写真は写真部と同じで、白黒フィルムで撮影し、現像し、プリントする。模型はエンジン機の製作と飛行である。エンジンは電動ではなくオイル(種類は忘れた)であり、バッテリをつないでプロペラを指で回してかける。機体はワイヤでつながれており、グランドで円形に飛行させ、手元で昇降舵をコントロールして曲芸飛行させる。しばしば地面に激突して分解した。天文は夜間に天体観察する。これは卒業した先輩が同好会をつくっており、一緒に活動していろいろ教えてもらった。
しかし何といっても私をとりこにしたのは化学だった。化学的現象は日常ではあまり見ることがないので、化学実験はすべてが新鮮そのものだった。実験書を参考にして手当たり次第に自分たちで実験した。今と違って当時は大らかで、生徒が自由に薬品を使うことが許されていた。それどころか、私が忙しい先生に代わってすべての薬品を整理したこともあった。
とくに印象に残っている実験は、絵入りの鏡づくりと炭酸水素ナトリウムの合成(ソルベー法)などである。前者はパラフィンろうを融解してガラスに刷毛でうすく塗り、絵を下に敷いて鉄筆で輪郭を写しとるようにろうを削る。次にフッ化水素酸を塗って輪郭の部分のガラスを溶かして溝をつくる。このあときれいにろうを落とし、ガラスを洗剤で洗う。次にブドウ糖を使った銀鏡反応で鏡にする。このときガラスの表面に盛り上がるように乗せた銀液を、こぼさないようにすこしだけ傾けて流動させ続けるのがポイントである。続いて絵の部分の銀を取り除くと、輪郭の溝には銀が残る。そして今でいうセル画の要領で色付けをする。最後はペイントを塗って保護してでき上がり。
後者は教科書にも出てくる化学工業のミニチュア版である。太い50cmほどのガラス管にゴムせんをして反応塔にし、濃アンモニア水に食塩を飽和するまで溶解して注ぐ。これにひたすら二酸化炭素を吹き込み続けるのである。二酸化炭素は石灰岩に塩酸を加えて発生させるのでたいへんである。それが1時間ほどがんばると、生成した炭酸水素ナトリウムが雪のように沈殿してくる。この瞬間はまるで自分もひとかどの技術者になったような感動を覚えた。
失敗も無いわけではない。一年の始めは反応式を見つけると何でも薬品を混ぜていた。あるとき酸素が発生する反応式があったので、試験管に過マンガン酸カリウムと濃硫酸と35%の過酸化水素を入れた。目に見える変化がなかったのでバーナーで加熱してみた。すると突然爆発した。反応混合物は私の右胸を目掛けて飛んできた。一瞬にして服はとけて無く、露わになった皮膚がちょうど原爆の熱線を浴びたように垂れ下がった。医者に行ったら「おまえは何をしているんだ!」と叱られたが、先生には内緒にしておいた。今から思えば随分無謀なことをしたものだが、私は全然懲りなかった。
1年の夏休みは部長の指導のもとで、一宮市内130ほどの地点の水質検査に取り組んだ。検査項目は15と本格的だった。当時はまだ井戸があったのでその水をもらいに、自転車にビールびんを積んで炎天下を走った。「水をください」と頼むとジュースを出してくれる家もあった。「結果を知らせてほしい」と期待されることもあった。水温はその場で計るのだが、慣れてくると手の感覚で0.2℃まで正確に分かるようになった。戻ってくると実験室で分析である。毎日朝9時から夕方5時まで勢力的に活動した。
打ち上げは家庭科からかき氷機を借り出し、氷を買ってきて、蜜は先生の砂糖を無断で借りて作り、ビーカーを容器に食べも食べたり、私は13杯という記録を残した。そのあと裸で学校のプールで泳いだが、当時は本当に元気だったと思う。
2年のときは防火塗料の研究と称して、障子紙にいろいろな薬品の水溶液を塗り、乾燥してから端に点火して燃焼の様子を調べた。そんな中で炭酸ナトリウムがたばこの紙のようにじわじわ燃えるが決して消えないこと、硫酸アルミニウムが泡を形成して燃焼を妨げることなどを発見した。
こんな中で私は化学が、物理に比べて理論が貧弱であることを意識するようになった。そして大学に行って化学の理論的研究をしたいと思うようになった。先生からは「おまえは偉い」とおだてられた。子供の頃から父親の発明好きに感心し、中学ではひとりの理科教師に理屈の面白さを触発された私は、こうして化学分野に進路を定めることになった。3年になっても三学期まで部活動を続けたが、それは私にとってたいへん有意義であったと考えている。
林 正幸と主万子の始めの
ホームページ(to our initial Home Page)
にもどる。