03.1
林 正幸
二つの質問に対して
生徒からよく二つの質問を受ける。これらは短時間では答えにくいので、不十分な返事をしてしまう。しかしこの校誌の文章が最後のチャンスである。そしてこの返事はある意味で私の生い立ちや生き方を語ることである。
どうして先生になったか
小学生の頃、今は亡き父がよく工作をつくってくれた。夏休みの宿題は大いに助かった。今でも印象に残っているのは、月の満ち欠けの理由が分かる装置と、よく見えるガリレオ式地上望遠鏡である。前者は地球の位置に回転する鏡を取り付け、まわり八カ所に配置した半分黒く塗ったピンポン球をのぞくのである。後者は眼鏡屋で凸レンズと凹レンズを買い、厚紙を水で濡らして円筒を作った。私はこのようなアイデアに感心した。
中学校では土屋先生に出会った。先生は授業で次々に「これはどうなる?」と質問を積み重ねていく。たとえば「上弦の月は夜の一二時にはどの方向に見えるか」というようである。私はその理由を考えて答を出すことに知的快感を覚えた。すぐに手を挙げて指名されるようにした。手を挙げてから考えていたので、あるとき指名されても答えられないことがあった。こうして私はものごとに対して「どうして?」と考える力が身に付いた。
高校になると自分で動き出した。「物理化学部」のことは2年前の「たまきはる」に書いたが、他にはラジオづくりなどに夢中になった。当時はダイオード、トランジスタが登場した時期であるが、主力は真空管であった。今のようにキットになっていないので、部品店をめぐって材料を集めた。そしてこのときの経験が、二〇年あまり前に理科教師のためのエレクトロニクス工作サークル(EHC)を立ち上げるのに結び着いた。
私は物理も化学も好きだった。とくに物理の、ものごとを理論的、数学的に解明する魅力はたまらないものであった。しかし同時に、このような方法が人間の生き方や社会のあり方に適用できるかについては、大きな疑問を感じていた。だから一時、大学は哲学か宗教学に進もうと考えたこともあった。話を戻して物理に比べて化学が理論的でないと感じた私は、大学で研究者になり化学の理論化に貢献したいと決心し、化学系を志望した。
大学に入ると、化学が理論的でないというのは間違いであることが分かった。それは化学がより複雑な対象を研究するので、高校段階ではその理論をとても教えられないのであった。そして研究者への夢はふくらみ、大学院まで進むことにした。私が取り組んだのは有機化合物の反応機構(分子がどのように反応していくか)の解明である。
しかし、科学研究は誰よりも早く新しいことを発見してその栄誉を獲得することが最大の目的であるように見えた。それは人間関係を損なう面もある。自分は一生をこのようなことにささげるのか。そしてあるとき決心をした。化学好きを活かすもうひとつの道に高校教師がある。この仕事は人間性豊かである。そこであわてて免許状の取得に必要な科目の単位を取った。
どうして作業服を着ているか
私が教師になって最初にしたのは化学教育の研究サークルを立ち上げることであった。それはみんなの知恵を持ち寄ってこそ、よい授業実践が生まれると考えたからである。これは「MOLの会」と名付けられ、いまなお続いている。
私が教師になった一九六〇年代後半は、公害が社会問題になり始めた時期である。もちろん水俣病などはすでに発生していた。私は仲間と、名古屋市北区の二つのセロハン工場の公害に反対する住民運動に参加した。それには二つの理由があった。
一つは「化学(科学)を何のために教えるのか」というテーマの具体的な解答が欲しかったのである。生徒は「先生、何のために理科を勉強するんですか」と質問する。そして高校生の公害問題に対する関心は高かった。地域では住民運動を抑えるために必ずデマが流される。これに対して住民運動ではくり返し学習会を開いた。そこから「公害に立ち向かうためには、科学で武装する必要がある」という教訓が引き出された。これはひとつ公害問題に限らず、すべて国民が抱える問題を解決するために共通することである。
二つは「教師の社会的責任」という課題のためである。教師は学校でしっかり授業していれば十分であろうか。教師も一社会人として、そしてその能力を活かして地域の問題に係わるべきである。セロハン工場は悪臭のある硫化水素と、もうひとつ臭いはそれほどでないが神経を冒す二硫化炭素を排出していた。住民学習会において化学の教師である私の果たすべき役割は重かった。こうして学校が終わると地域に出かけて夜遅く帰る日々が続いた。住民運動は二つのセロハン工場を廃業および移転に追い込み、当時全国的に見ても第一級の成果を上げた。現在跡地にはアパートが建ち並んでいるが、この北区セロハン公害対策協議会の運動を知る人たちは少ない。
公害問題との係わりは、さらにいくつかの教訓を生み出した。一つはセロハン工場に乗り込んだときのことである。私は住民から期待されていた。しかし現実には工場の装置のほとんどが理解できなかった。悲惨であった。理論偏重で実際的知識に乏しい自分は根本的に問題があることに気付いた。私は泥にまみれながら、にわか勉強をした。そして私の授業は大きな変革を迫られた。ひとつの課題を実際にやり遂げられる能力を修得することが大切である。
二つは科学研究者の社会的責任である。現在大学のあり方が問われているが、国民の立場からすると、その専門性を活かしてもっともっと地域や国全体の問題に係わって欲しいものである。言い換えると、科学者あるいはエリートは立身出世や私利私欲のためではなく、社会や人類の未来のためにこそ活躍してほしい。幸いセロハン公害では三人の研究者が参加してくれた。
さらに言うと、君たちは何のために学ぶのか。それは何よりも、獲得した能力をみんなのために活用するためにこそ学ぶのである。他人を押しのけて有名大学に入るためではないだろう。自分だけの豊かな生活を追求するためではないだろう。看護を目指す生徒などは自覚しているだろうが、自分も社会に奉仕できるようになるために学ぶのである。そう考えたら、誰もが学ぶ意欲を獲得できる。夢を持って協力し合って学習できる。
さて教師十一年目で、自分の希望もあって私は工業高校に転勤した。そこでは多くの先生が作業服を着ている。生徒も実習のときは作業服を着る。この服こそがものを作り上げる! そして国民の生活の基礎を支えている! こうして私も作業服を着るようになった。愛用してみると白衣より薬品に強い。丈夫で長持ちする。ときに「工事の人かと思った」と冷やかされる。そう、それでよいのだ。私はそのような立場に立ってものごとを見ていることを、そのことの重要性を分かって欲しいのだ。君たちが喜ぶたくさんの実験も、私のそういう姿勢があってこそ生まれたものである。
春が来る。再び緑がよみがえる。「あらぐさのように」生きよう! あらぐさとは雑草のこと。雑草はちやほやはされないが、したたかに生きている。そして光合成によって生命を支え、地球環境を守り続けている。いま人類は大きな課題に直面している。経済第一主義を乗り越えて、環境を守り人間が助け合える地球にしていく思想が必要がある。それを生み出していくのは他ならぬ君たちと、そして私たちである。この思想は「あらぐさのように」してこそ生み出されるものであろう。
林 正幸と主万子の始めの
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