差出人:林 正幸
送信日:97年5月15日
宛 先:鬼塚 野中 山本
件 名:「教えるに値する化学」について(その1)
こんばんは、林@愛知です。
大きな問題提起ですよね。思いつくことをいくつか書いて意見交換したいと考えました。
私が新任だったころは、どこが提起していたのか(科教協かもしてない)、愛知の教研運動の中では
「何を、どのように、何のために、誰のために」教えるのか
がいつも話題になっていました。私は「何をどのように」を意識して2年目の春に「MOLの会」を作りました。これは現在でも続いています。他方で、「何のために誰のために」というテーマは難しいものでした。折しも公害が社会問題になり始めていました。そこで実践的に学ぼうと、私の友人の飯田が「公害調査の会」を作りました。その中で、ちょうど始められようとしていた名古屋市の「北区セロハン公害反対運動」に参加していくことになったのです。
そこで私が学んだのは
(1)住民(国民)が、企業にだまされないだけの科学的知識を身につける必要がある。そのときは「科学で武装する」という言葉を使いました。
(2)理論倒れになるような勉強でなく、個別的知識をしっかりと蓄えることの重要性を意識した教育をする。
(3)実際の授業に公害教育を導入する。
ということでした。
10年を経て、普通高校で教えるだけでは不十分と感じて職業高校に希望を出して、工業高校に転勤しまいた。試行錯誤が続きました。それは20年目に現在の普通高校に転勤してからも続きました。そこで考えたのは
(1)「面白くなければ始まらない。」
面白い実験を探し求め、自らも工夫・開発しました。
(2)しかし「生徒が考え始めなければ意味がない。」
そこで生徒の生の疑問を調べ、その「認識の階段」をのぼる授業を構成すべきである。また「隠す実験」で生徒の思考を喚起することを考えました。
(3)「生徒と気持が通じなければ始まらない。」
教師がこの能力を開発しないと、どんな実践も砂上の楼閣になる。
ということでした。
そして数年前から私は考えています。「生徒には明らかに能力差がある。」 すべての高校生に同じような化学教育しよう、なんて言うのは理想論に過ぎない。
視点を変えて、教師が陥りやすい教材編成の隘路について
(1)教科書を化学の全体としてとらえ、その枠の中で分かりやすく教えようとする。私の高校時代の化学の先生が「教科書ははさみとのりがあれば作れる」と話してくれた。要するに、いくら現実の拘束力があるからと言って、旧態然として寄せ集めのような教科書に身も心も奪われていては新しい化学教育は産み出されない。
(2)受験問題を化学の全体としてとらえ、すべての問題が解けるように腐心する。これは「解き方=考え方」まで教え込む。いくら必要悪だからと弁明したって、考えてみれば恐ろしい、しかし正しく現代日本を形づくっている教育だ。
夜もふけたので、今日はここまで。ではまた。