差出人:野中 直彦
送信日:97年4月8日
宛 先:林 山本
件 名:電気分解

<特集>生まれかわる高校の電気化学
         東京大学生産技術研究所教授    渡辺 正
T.電気分解のイメージ改まる
はじめに
旧課程『化学』と現行『化学IB』のごく一部を除いて、高校の教科書は電気分解
をほぼ次のように説明してきた(似た記述は専門書でもときおり見かける)。
「電解質溶液に電流を通じると、陽イオンは陰極、陰イオンは陽極に引かれ、
それぞれ反応(電子授受)して単体になる。」
だがこれは事実ではない。「電流が流れる→反応する」は因果関係が逆だし、電子
授受とイオンは無関係なのだから。よくいえば誤解の産物、はっきりいうと妄言に
すぎないこの「説明」は、戦後50年を経てようやく平成10年度『化学IB』から改ま
る見込みが出てきた。どこがどうおかしいのか、くわしくは拙著1〜3を参照いただ
くとして、要点をまとめてみたい。
1電気分解とは何か?
電気分解とは、ひとりでには進まない化学反応を、電気エネルギーの助けで進ませ
ることをいう。必要な電気エネルギーは、必要な電圧の姿をとる。誰にも異論のな
いとおり、ダニエル電池の逆反応
     Zn2+ + Cu → Zn + Cu2+  (1)
を進めるには1.10V以上の電圧が必要で、それ以下なら反応(1)は起こらない。別
の例をみよう、白金電極で希硫酸を電解したとき、電圧と電流の関係は図1になる。
1.5V以下だと顕著な電解は進まず(1.23V以下なら厳密にゼロ)、気体が目に見
える電解を進めるには2V以上の電圧が必要(2Vでは電流密度がlmA cm−2に
届き、表面の1cm2から毎分0.01mlの水素が出る)。
「電圧をポンとかけたらイオンが動く」の発想、つまり図2のイメージが、錯誤の歴
史の原点にあった。このイメージを振り落とすには、じっさいに手を動かしてみれ
ばよい。昨年ある講演会で、電圧1Vなら電流が流れないことを実演したときフロア
に湧いた「ほう…」のざわめきが、今もはっきりと耳に残っている。
2反応する物質は?
2.1「酸化剤と還元剤」を思い出そう
電気分解の少し手前、「酸化剤と還元剤」の単元に登場する物質たちについては、
イオンであるなしもイオンの符号も問題にせず、酸化力・還元力を学ぶ。それをそ
のまま電気分解に当てはめればいい。溶質・溶媒・電極白身のうちで、いちばん酸
化されやすい物質が陽極に電子を渡し、いちばん還元されやすい物質が陰極から電
子をもらう。FeSO4水溶液を電解すれば、むろん陽極で「陽イオンの酸化」が進む。
     Fe2+ →Fe3+ 十 e-  (2)
冒頭の「説明」の誤りは、この反応を思いかべるだけで明らかになる。
2.2おもな要因は2つ
 話を希硫酸にもどす、濃度を0.1Mとすると、電離平衡定数より、液中には
H2O(55.5M)、H+(0.11M)、HS04-(0.09M)、SO42−(0.01M)、
OH−(10-13M)の5物質が共存する。このうちどれが酸化され、
どれが還元されるのか?電極で何が反応するかは、おもに2つの要因が決める。
ひとつは電子授受平衡の標準電極電位[1]、そしてもうひとつが物質の濃度。
この濃度の威力は大きい。
2.3 pHで変わる「酸素と水素のもと」
ふつうの化学反応と同様、電解反応の速度も反応物の濃度に比例する。進みが目に
見える勢い(電流密度1mAcm一2以上。前記)の電解を続けるには10−2M以上の濃度
を要し、これでまず0H−は反応物の侯補からあっさりと落ちる。残る4物質のうち、
もっとも酸化されやすいのはH2O、還元されやすいのはH+なので、反応は次のよう
に決まる。
(陽極)2H2O → 4H+ 十 O2 十 4e-  (3)
(陰極)2H+ 十 2e- → H2  (4)
中性付近の水溶液では、H+もOH−も薄すぎて反応物になれないため、陽極でも陰極
でもH2O分子が反応する。また、pHが12以上の水溶液なら、陽極で0H−が酸化され
る。
以上より、酸素と水素の発生反応は表1のように書き分けなければいけない。
なお、水の電離H2O→H++0H−でH+やOH−がどんどん供給されると考えるのは誤
り。速度論と平衡論をからめて解析すると、1個のH20分子の電離には10〜l00時間
ほどかかることになるからだ[1]。
表1。酸素発生・水素発生の反応式
酸素発生    おおむね pH>12で
            4OH−→2H2O+O2十4e-
        それ以外のpHで
            2H2O→4H+ +O2十4e-
水素発生    おおむねpH<2で
            2H+ +2e-→H2
        それ以外のpHで
            2H2O +2e- →2OH− + H2
2.4希少種たち
たまたま陽イオンが陰極、陰イオンが陽極で反応する水溶液もないわけではない。
だがそれはほんの例外、生物なら希少種である、目を皿にして高校教科書を調べた
ら、CuC12、HCl,HBr,HI,FeCl3、の5つだけだった。
2.5ファラデーの第2法則?
1冊を除いて今の教科書は、なにを血迷ったか次の「法則」を載せている。
「一定の電気量を流したとき、電極で変化するイオンの物質量は、イオンの価数に
反比例する。」
これは、まず「反応物はイオンだけ」の錯誤にもとづく発言だし、次に、反応(2)

     Fe2+十 2e- →Fe  (5)
が矛盾する。「イオン」を「物質」、「イオンの価数」を「電子授受する原子の酸
化数の変化量」と直せば正しい。が、電子1mo1あたりに変化する物質の量は、反応
式を書きさえすればわかるではないか。電子も知らなかったファラデーの時代なら
いざしらず、今や「百害あって一利なし」の典型といえよう。
3イオンの役目は?
それならイオンは、電解反応でどんな役割を演じるのか。水を電気分解するのに、
なぜH2SO4やNaOHを溶かすのだろう?
電解反応は、次の3段階で進む[2,3]。
第1段階
かけた電圧が、2つの電極−溶液界面に押しつけられる。すなわち電気エネルギーが
、必要のない場所(溶液の本体)から排除され、必要な場所だけに加わる。
第2段階 電圧が十分なら(図1参照)、電極の表面で電子授受が起こる。
第3段階
電子授受の結果、陽極液にふえる正電荷と陰極液にふえる負電荷を中和しようとし
て、溶液中のイオンが動く、これでやっと、電解電流の流れる状況になる。
つまり電解の因果関係は、「電流→反応」ではなく、「反応→電流」が正しいこイ
オンは第1と第3の段階を進めるのに欠かせない、だから、反応自体(第2段階)に
あずからなくても電解質は溶かす。演劇にひき写せば、重要な脇役だといえる。第1
段階は生徒にはわかりにくいだろうから、教室では第2→第3段階だけですませばよ
い。もちろん第2段階は、「イオン」という言葉はつかわずに、「いちばん酸化され
やすい物質が陽極に電子を渡し…」と説明する。「酸化剤と還元剤」を学んだあ
とゆえ、生徒もきっと納得してくれる。
4教科書の記述、昨日・今日・明日
水の電解反応式にかぎって、記述の歴史を調べてみた。戦後の化学教科書は昭和22
(1947)年の国定教科書(著作者=文部省)に始まる。そこに書かれた「陽イオン
が陰極に引かれ…・」を、後続のほとんどの本が踏襲してきた。筆者が編集にかか
わってきた最近10年ほどの状況は次のとおり。まず旧課程『化学』時代は、最終年
度(平成5年)の統計で9社23冊の本があった。そのうち、表1の正しい記述を本文に
書いたのが2〜3冊、参考程度に(表組みの中や注記で)扱ったのが3〜4冊といった
ところ(数に幅があるのは、年ごとの小幅改訂すべてを追跡できていないため)。
ほかはみな「反応物はH+とOH−のみ」式の説明を通してきた。平成6年度以降の
『化学IB』は7社12冊に減り、現時点で本文の記述が正しいのは2冊だけ(うち1冊
にはまだ「イオン」の残り香が漂う)、注記レベルの本が1〜2冊と、状況はあまり
変わっていない。。それが平成10年度には一新され、すべての本が表1に従う記述に
切りかわる。そうなると、必然の道として「イオン神話」が消え、イオンは表舞台
から退場し、「ファラデーの第2法則」も削除されていなければいけないが、はたし
てどうだろうか?
5「半世紀の闇」を生んだもの
教科書に関係する10年前まで(高校卒業後20年間)、筆者は教科書を目にする機会
もなく過ごしてきた、研究者の大半がそうだろう。初中等教育の現場と研究者との
没交渉が、半世紀の不幸を生んだ主因にちがいない。日本化学会が平成9年度から発
足させる「化学教育協議会」は、まさにそんな状況の、打開を目的のひとつにした
もので、成果に期待したい。戦後50年間には、そうとうな数の研究者が教科書執筆
にかかわってきたはず、定説に寄りかかってすまそうという姿勢の方々だけだった
とは思いたくないが、それにしても…と納得しにくい。似たような「半世紀の垢」
は、電気化学以外の単元にも残っているのではないだろうか?
U.ぜひ改めたい「イオン化列」
はじめに
電気化学がらみの素材としてもうひとつ、「水中で陽イオンになりやすい順」に並
べたというふれこみのイオン化列「K>Ca>Na>Mg>Al>Zn>Fe>Ni>Sn>Pb>H2>
Cu>Hg>Ag>Pt>Au」
を間題にしたい。このままの姿は高校の題材にふさわしくないと思うからで、くわ
しくは別の書き物[3,4]に述べた。
1現実に合わない
ダニエル電池で亜鉛が負極になるとか、銅が鉄よりさびにくいとか、そのへんまで
は問題ない。が、冒頭3元素の序列を水中で測れるだろうか?白金と金の安定性に差
があるのを確かめられるだろうか?また、適当な電解液を用意し、「イオン化列メ
ンバー」から選んだ金属棒2本を次々に浸して起電力を測れば、イオン化列に合わな
い結果がたびたび出る。さらに、同じ2金属の組み合わせでも、浸す電解液の種類や
濃度で序列が狂うこともあるだろう。
このように「イオン化列」は、高校教育で主眼にするはずの身近な環境の中で、け
っして現実を反映しない。なぜだろうか。
2「ものさし」の素顔
イオン化列は、70個ほどある金属Mのうちから15個(十H2)を抜き出し、Mn
n+/M系の標準電極電位Eゼロの順に並べたものだ。間題は、このEゼロが、まず実測
値ではないし、「イオン間に相互作用のない」仮想の環境中だけで意味をもつ量だ
という事実にある。
Eゼロ値は、標準水素電極(SHE)に対し、K+/K系の一2.93VからAu3+/Au系の
十1.52Vまで約4.5Vの広がりをもつが、現実の溶液中で測ると個別に土0.2V程度は
狂う。だから少なくとも高校では、
Eゼロ値の近い金属どうしの序列をつけるべきではない。その例がHg−Ag対
(Eゼロ差0.003V)、Sn−Pb対(0.01V)、Ni-Sn対(0.12V)、Fe−Ni対(0.18V)で
、これらの間に序列はないと考えよう。
3改善案
身近な現象に合わせるには、
Eゼロ差の十分に大きい元素たち、せいぜい次の9元素にスリム化するのが望ましい
(ふだんの学習でわかるだろうが、必要なら、KやCaはNaの同類、PtはAuの同類、と
補足する)。上記よりこまかくイオン化傾向の順を問う
「Na〉Mg〉A1〉Zn〉Fe〉Pb〉Cu〉Ag〉Au 」
入試問題はなかったし、今後とも出題されないはずだから、入試の心配はいらない。
4展望
電気分解の件は、何度かあげてきた声が文部省検定の関係者にも届き(それだけで
はなかったにしろ)、修正の必要性をお認めいただいて、半世紀ぶりの改革が実現
した。イオン化列の間題は、残念ながら平成10年度用の改訂には間に合わなかった
が、検定関係者を含む多くの先生がたから、手直し賛成のご意見を頂戴している。
次の指導要領改訂の折りにはぜひ直したい。無用の混乱を起こさないために、各社
いっせいにご決断いただくのが大前提になるが。
参考文献
1。渡辺正・中林誠一郎『電子移動の化学一電気化学入門』
            pp.   1−10、朝倉書店、1996年。
2。渡辺正、化学と教育、44(10)、656−659、1996
3。渡辺正、電気化学のあやしいところ、
『高校化学の教え方ー暗記型から思考型へ』、pp.85−96、丸善、
  1997年1月発行予定。
4。渡辺正、化学と教育、44(9)、593−596.1996。