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04A−181
差出人:四ケ浦 弘
送信日:05年6月21日
件 名:盛口先生の元気に学ぶ会

 参加された皆さん、とおくまでご苦労様でした。充実した楽しい会でしたね。会の最後に話にでた奥様へのプレゼントを本日送付いたしました。また皆さんとお会いできる日を楽しみにしております。


04A−182
差出人:林 正幸
送信日:05年6月21日
件 名:「身のほど」

こんばんは、林です。
 今アルケ年度最後のプレ通信を送りました。皆さんの資料を待っています。またアルケのナイターや合宿への応募、参加もよろしく。
 私も「盛口先生の会」に参加できてよかったと感じています。そこは同時にそれぞれの思いを語り合う場でもありました。その中で化学教育の目的論も出ました。「何のために教えるのか」すこし私なりの考えを書いてみようと思います。
 「身のほど」という言葉があります。「科学をこれ以上推し進める必要はない」と考えるのは、人間が「身のほど知らず」であるということになります。確かに枯渇間近の化石燃料を必死で燃やし続けているのは愚かしい。もっと違う生活や経済を目指すべきである。新幹線を利用しないようにする。冷房は使わないようにする。コンピュータなんか要らない。しかしどこまで戻ればよいのか、また戻れるのか・・・。そして病気を治す医療技術も要らないのか。
 持続的に利用できるかつ地球環境に優しいのは、太陽エネルギーをおいて他にはありません。人類のエネルギー消費量は2001年では45[京kJ]に達していますが、太陽エネルギーの利用はごくわずかです(あとで数値を調べてみます)。これはまさに数10年以内に人類を滅亡させる「身のほど知らず」です。どうすればよいのか。地球の大気と地表が1年間に得る太陽エネルギーは360000[京kJ]です。そして光合成で蓄積されるのは470[京kJ]です。これならすべてを太陽エネルギーでまかなうことも可能ではないでしょうか。「身のほど」は拡大できるのです。化石燃料があるうちに、人類の知恵と科学技術を結集してこれを達成すべきでしょう。この場合、そのために科学をもっと推し進める必要があります。また生徒に科学的な知識を伝える必要があります。「水素が燃料になるなら、それは水に含まれるので、エネルギー問題は解決だ」などと考えているようでは正しい世論ができません。そうすれば人類は「身のほどをわきまえる」ことに・・・。
 いやいやそれほど単純でもありません。このままの経済活動が続けば50年後には現在の3倍のエネルギーを消費することになると予想されています。同時にブレーキも掛ける思想がないと本当に「身のほどをわきまえる」ことにはなりません。これはもう科学だけの課題ではありません。どうすればよいのか、科学が向かう方向も含めて、生徒と共に考えていくこと、これは化学教育の目的のひとつです。
 ではまた。


04A−183
差出人:野中 直彦
送信日:05年7月4日
件 名:盛口さんからの手紙

 盛口さんからの手紙ですが、盛口さん本人の了解を得ましたので、記録の意味でワープロ化し、メールで送ります。

<手紙>
  「かまくら」の集いによせて
                   盛口 襄
 かまくらは梅雨の晴れ間のむしあつい一日でした。ときあたかもあじさいの季節ということで、あきれる人出、鎌倉の駅で、江ノ電にも乗れない始末。長谷寺にでかけた小林さんのお話では山頂のあじさい園まで1時間まちとか。
 集まった方々総勢24人。それがわたしの喜寿祝いということで全国からかけつけてくださった。何しろ主催が石川の四ケ浦さん、京都の杉原さん。現地を神奈川の松本さん。遠くは宮崎の馬場さん、熊本の小林さん、山形の鹿野さんまでかけつけてくださり、私としては何とお礼を申し上げてよいやら、百万言を費やすもまだたりない。言葉じゃない心なのだ。その心をありがたくいただき、私も心でお返しをすることにしました。少し長くなりそうですが、めったにないことですのでお許しください。
 ところで、喜寿とは何でしょうか。77才、そんな年まで生きるなんて考えたこともないし、そんな年になってヨボついている自分なんて考えたこともないのに、不合理にもその年になってしまいました。これは私が元気なのではなく、この世の中の進歩の故に「元気させられている」ためと考えています。恐らく、皆様はもっともっと「元気な77才」をお迎えになると信じています。(その時、私は97才か107才か?)年をとって元気に生きるとはどういうことか考えさせられました。しかし、いずれにせよ24人もの方々がかけつけて下さり、私のために喜んでくださった。その御芳情つくづく果報すぎる贅沢だ。私は何をしたというのだ。穴があったら入りたい。私はただ皆様の友人の一人として、これまで楽しい思い出をさせて頂いただけでも十分だったのに、の思いにとうまどうばかりでした。
 ところで、話しの中で多くの方々が私との最初の出会いを鮮明に覚えていてくださいました。奈良の風間さんはお出になりませんでしたが、丁重なコメントお寄せくださいました。その中で私からの一言かけられて「アルケミストの会」に参加してしまった。それが理科教師としての自分を変えた。とお書きになっています。私の癖として、どこかの会であった誰彼につい声をかけてしまいます。それがきっかけで「アルケミストの会」も「安房科学塾」も「ミニ教研」も「アルケミストの会」も「安房科学塾」も「ミニ教研」も大勢の士をふやすことが有為の士をふやすことになったのですが、それは私の手柄ではなく、人と人の出会いが決定的な力を示すものであることを語っているものと思います。その人の輪をおさめる器が「会」であり、「会」の中で人はより大きくなるものだと思い知らされました。皆さんは私のせいにされましたが、それは逆で本当は皆さんのせいです。結局、得をしたのは私の方で、24人分の出会いがあったわけですから。器の中で夢がはぐくまれ、その夢が伝播すれば化学も社会も教育も国も世界も救われる筈などと大きな夢をみています。「アルケミスト」とは「市中にたむろし怪しげな術をもてあそび、世界の幸せを夢見る」ぐらいの含意ありますが、これは岩手の高橋さんの愛される宮沢賢治の夢にも通じます。また、賢治を愛した高木仁三郎さんの理想にも通じます。「科学を市民に」から一歩をすすめて「市民の科学」の確立の夢。私の関わっている今一つの集団に「ミニ教研」のマニュフェスト「ハードパスからソフトパス」へとも通しております。「市民の科学」創生の一端を荷う気概が共有され、ここに集まられた皆さん。この会は私の祝いに仮託した「夢の確立」宣言と私は受け取りました。この「夢」を代表して今一度みなさんの厚い友誼と熱い志に心からお礼を申し上げたいと思うのです。私もどうやら人生のハジッコまでたどり着きましたが、皆さんの力に支えられて、おぼつかないあゆみを、この夢の実現にむけ、もう一歩、歩みだすことにします。ありがとうございました。

  第1部 私のこれまで  「夢の中の50年間」の独演
  第2部 夕食・懇親会とすすんで、第3部は参加者の「想いを語る」
 今考えてみると、このコーナーが核心となり、これからの私たちの生き方に示唆を与えるものになったと思いました。各持ち時間10分。それが自由討論に流れて大いに盛り上がりました。この中で出された話題は多様、とても解決できませんし、またしてはいけないと思います。特に私をうったものの中からいくつかとりあげ、今後の指針をさぐりたく思います。
 まず、松本さんはオリジナルストーリーについて問題提起しました。「私たちは何の故に化学を語る(教える)か」そこに現代を見直し、現代をこえる思いがこめられている。科学の力を過信し、いやそれを威力につかって世界を制覇するの無理がキャタピラとなり、文化を圧殺し、差別と選別をうみ、もの言わぬ、またはアンモラルな「イマイコドモ」を作ってしまった。その世相に四苦八苦する百校百様の「現場」。底辺校と言われる学校はもちろんのこと上位校も上位校なりにかかえる矛盾がそれぞれの口から開陳されました。要はこの「疾走する社会の変革」をどう解決するか。その上でこれにブレーキをかけ、これを乗り越えて(飲み込んでも)自我の確立をする次世代をどう創世するか。そのための「刀になる化学を」と言うことだと思います。参加者の一人、竹内さんは私と職場を共にしますが、私は「それを教えて何になる?」と問い直しることを日常の口癖にしあっている仲間です。たとえば「三態変化」にせよ「気体」にせよ、化学の教科書の枠をはずした時、何が一体残るのか。まさか時代遅れの「近代科学」そのものをわからせることが目的ではないでしょう。それなら「三態変化」がちゃんとわかって、なにほどの(+)をこれからの世代に与えることができるのでしょうか。生徒は迷惑をこらえて教師の独演につきあっている?それがあるかもしれない受験の幻(多くの生徒にはその必要もない)のためと言うなら、あまりにも哀しすぎます。あの学問好きの藤田さんが何よりも「人間の生きる」ことを強調された事は感動的。でも松本ストーリーもストーリーむきだしのままなら、これまた、生徒にとって迷惑じゃないか。そのため、魅力的な教材が必要なのだ。と・・・原作(ストーリー)脚本、花の出演者、そして監督。と松本さんはいいます。たとえばドライアイスのブロックに穴をほって、Mg粉を入れて点火する。ドライアイスの塊の壁を通して見るあたたいオレンジ色の灯(ドライターン)。SiO2(砂)からOを奪ってもえるMg.あとにのこったSiMg2から発生するシランの自然発火。松本さんの実験は何か妖しく危険な臭いがする・・・。
 ストーリーに生徒をしばるべきではない。素材を与えて生徒に選択させる中で自然とナマの出会いがはかるという手法もある。郷土の自然、文物を愛(いと)おしむ中からオリジナルな教材を掘り当てるという四ケ浦さんの「金と豆腐と温泉の化学」。この実践で思い当たるのは、今、全国教研(日教組)で精力的に取り組まれている「地域に学ぶ」実践。それは、一地域(子どもの息のかよう範囲)という身近な対象を相手にする親密或のモチベーションを大手にしようと言うことではありますが、私はさらに一歩踏み込んで「地域に生きる覚悟」を育てる教育につながるという気がします。それにもかかわらず「地域」を学んだはずの子どもたちが学校を卒業とともに中央へ中央へ、地域がガランドウ。東京一人勝ちして日本沈没でいいですか。交通の便利、流通経済・・・そんなこと言ったって、所詮「市場原理」。学校だって優勝劣敗、自己責任でつぶれる大学○出で、大学でもやることなし、ニートかフリーター。こうした現実を正面に見据え、とりあえず「教科書をこなす」授業を進めるとしても背景には「疾走する現代」を見据え、ことあれば論議をかさねる必要を感じます。「教科書原理」が終われば一件落着といったのどかな授業が許させる時代じゃなくなったのだと思わざるをえません。
 これに対して、四ケ浦さんが「原子量」「分子量」のわからない子にアタックして、わからせる事例を語り、松本論と対峙したことが印象に残りました。実は、私は松本論にも四ケ浦論にも賛成なのです。松本流ストーリーを授業者自信のバックボーンとし、教材の選択研究のよすがとする。しかし、現実 目の前の子どもたちは、それとは関係のない所で悩み諦めようとしています。そこに手をのべ、生徒の目線に立って「目の前」の問題を解決してやる、という手法も大事です。「わかった」というささやかな成功体験が子どもの宝物になることも忘れられません。それが厳めしい「原子量」であれ、子どもなりのわかり方で「わかる喜び」を味合わせる大事さを柱にする。四ケ浦流手法もよくわかる気がします。私もできるだけ1:1の対話チャンスを作ることにしています。そのテーマはとてもストーリーと直接つながらないささやかなものであったり、教条的なカビのはえたものであることもありますが、手探りで、子どもの「ワカラン患部」を診断し、処置を、二人で目を合わせ「わかった」とニコッと笑わせる瞬間が好きです。それは、ときに、「子どもの認識」という点で新しい収穫を私に与えてくれるので、得をするのは子どもだけじゃないようです。つまり、ストーリーとしての「普遍」と場面としての「個別」は矛盾して重なり合いながら、互いに関連している。それをバラバラに切り離さないで、丸ごと論議できるテクニックを私たちは学びたく思いました。
 同じく対立の「認識」を提示してくれたのが野曽原さんの「単純生活論」と中臺さんの「リアルな農業労働論」ではなかったかと思います。共に実践に裏打ちされており、現代認識の上で鋭い矛盾となる問題を含んでいるだけに聞き流しにしないで、次回、いや繰り返しいろんな角度から多くの人が論議し参加してほしいテーマです。野曽原さんは「マイカーを持たない」「携帯は持たない」「よけいなものは持ち歩かない」シンプルライフスタイルの確立・実践こそ今日的問題の根本解決の手がかりを与えるものであることを指摘します。中臺さんは今、体験しつつある農業のなかでの労働の厳しさ、生活排水の自己処理の実践を体験した上で、論議を組み立てるべきだと主張します。これ一回ぎりの論議ではとてももったいない。もっともっと皆さんの参加を呼びかけたりして、少なくとも、今日参加された方々の「頭の中での架空論争」のテーマにしてお持ち帰りしていただければと思いました。農業が衰退する中での文明の崩壊も、また今日的問題の核でしょう。農業とは何か、中緯度、多雨地帯の我が国の文化をかさね、その上で「化学って何?」を生徒になげかける必要もあろうかと思います。しかし、「浸透浄化」という水処理を実践しつつの問題提起とその上での「くらしと技術」をどう考えるかは今後の論議に重要な視点を与えられたものと言えましょう。
 水について山本さんが中西準子氏の説をひいて、100%純度をあげることの困難さを指摘しました。「水」この人間にとって普遍で重要な存在。水資源の貴重さを、さりげなく峰高さんは10m風船(東急ハンズ入手)を地球モデルにしての授業話。現在校のむずかしい生徒たちの扱いをからめながら、身にしみる話でした。「水」は熱的にも、物質的にも低エントロピー源として、現代社会の喉元をにぎるものなので、今後の話題にエントロピー論(水の相変化をふくめ)に裏打ちさせて発展させるべき課題だと思います。
 ついでながら、これまで「アルケミストの会」は「化学と人間」「授業を生かすときめき実験」の2書を公刊してきました。この中で「アルケミスト流」が鮮明になっていったわけですが、今回の話を聞いていますと、皆さんの醸成された中身がとてもとても内蔵させておくのはもったいない気がしてきました。もしも、できたら集大成したら、化学教育界に資することが大と思うのですが、何しろ、今日の「卑俗出版」の嵐の中では所詮かなわぬ夢でしょうね。
 アルケミストのもう一つの顔は「反俗」という顔がある気がします。市中の人でありながら「流れに抗う人」、権威におもねることを潔しとしない。このあたりを杉山さんが熱弁をふるいました。いわゆるアカデミストの権威に「おっとおいらもいきている」と声をあげたとも言えます。この精神をますます研ぎ澄ませたいのは先に述べたところです。反権威といえば、町井さんのお話をあげない訳にはいきません。筋金入りの反権威、やんちゃぶりはますます磨きをかけ、学校という枠こえて、自然児として、火おこし、縄文クッキーを焼き、今度は大学生に理科教育の神髄を伝えてゆく、やんちゃが只のやんちゃでなくなり、風格のあるダンディな容貌までそなえるようになりました。町井さんのメッセージは短シラブルで、寸鉄なので大きな論議の火付けにはならなかったもののトータルな意味での理科のあり方とくに市民へのメッセージという点を提起され続けています。賞嫌いの町井さん(反権威)が火おこしにかけては、一級の免許をとられた由、おめでとう。
 何しろ多士済々のユニークな集団、その発言は一言でも大変重い意味をもっていて、ゆるがせに聞き流すわけにはゆきません。林さんの授業見直し論、やはり一夜かけて林デーをもうけて、みんなで意見を戦わすようなきめの細かな論議が必要なのではないでしょうか。
 野中さんの提起した問題「モノヅクリは美の追究」私のような手抜きに意義をみだすものもいれば、与えられた枠の中で完成をめざすのもまた夢でしょう。その完成が「作図」であれ、「グラフ」であれ「理論」であれ、同じ事ではないでしょうか。学習は「手習い」だけじゃないよ。「本格」をめざそうよという主張とうけとりました。模型のフラーレンを考えてみましょう。私の「手抜き」、野中さんの「美」これを皆さんどう論議しますか。
 どうも化学の論議は物理のような一筋縄ではゆきませんね。ものさがし、ものづくり、さわる見るも実験のうちですから、沢田さんは藍の種まきから取り組む。ナルホドね、面白ね、ではすみませんね。万華鏡も分子模型も美と簡易の不思議なないまぜ・・・。アルケ合宿、これからは「教材研究」「教材づくり」「伝統技術」「美の創世」といったぐあいに毎年1つくらいテーマをしぼった特設時間をもうけてみてはいかが?(もちろん、テーマは予め募集して、時にはオープン口座も)
 竹内さんもシーリアスな問題をなげてくださいました。ひとつは、養護学校における健常者との意識の対立の問題。そしてもうひとつは学園紛争の問題。みんな襟を正して耳をすませましたね。私などものん気な日を弁々とつかいながしていたのだと反省させられました。考えてみますと、いまだに、あの学園紛争の矛盾は解決されたわけではない。学問の矛盾はますます深刻になってきています。「市民の科学」としての学問の使命と自己増殖する最先端学問の右肩あがり、今専門の私たちでさえ、最先端の学問についてゆけない。まして、一般の人々は、はじめから敬遠して近づこうともしなし。一般の人々とスペシャリストの溝は深まるばかり。教育はその両岸に足をかけて股さき状態。このままでいいとは絶対いえない。しかし、どうしたらよいか答えはない。それでも矛盾と困難は「私たちの元気の元」と言い切りましょう。そう言えるのも私たちだからともいいたいのです。とにかくとんでもない人の梁山泊。私たちの力が分散されチリジリになることを恐れます。
 最後になりますが、たまたま福岡さんと話を交わしました。彼の市井における理科教育普及活動の研究も興味がわきますね。今はやりの「科学の祭典」「科学教室」のルーツと発展、その影響についてです。今それがブームになっているからと言って安心できません。その一場面一場面はあたかも「わからない生徒と答える私たち」の1:1の対話のようです。フェース ツー フェースの親密な雰囲気の実験は一見、科学の復興を約束するように見えながら、10年たって、やはりその効果が中高生も無関心の渕にのみこまれてゆく、あの小学生の熱心な「科学体験」は何だったのだろう。ここにもあらためて、科学とは何か。この国の科学と西欧の科学のスタンスの違いを考えないわけにゆかなくなります。
 それでも岡田さんは「アルケと安房塾」は唯一の趣味と喝破されました。もし、この「唯一の趣味」が市井の水のようにひろがるなら科学技術の影もはるかに毒をうしない、より健全で豊かな(野曽原さんのいう心豊かさ)社会が期待できるかもしれません。とにかく私たちは権威ではなく、利害でなく、心豊かさだけをたよりに仲間にあんり、それをここまで維持してきました。それは私がいようかいまいが関係ありません。このたのしさを周囲にすこしづつでも広げてゆけるならば私たちの夢は少しずつふくらむ筈。やがて、その花咲くときを心に描きみなさんとの日々の共有を心から感謝する次第。
 以上が私の粗書きメモ。しかし、これは大事にします。いつか読み返して、必ずこの日のことを思いかえすことにします。私の一生の節目として。
 それにしても、皆さんの論議に十分満足しましたが、あんなに時間があったのに、やっぱり不足しましたね。とにかくテーマが多すぎるのです。でも論議するテーマが絞られたのは大収穫でした。もし、よかったら、この先の論議を8月10日11日のミニ教研で続けてみませんか。このミニ教研も10年目。理科のポリシーを求めてここまで続けてきました。今回は静岡伊豆長岡。私が(できたら竹内さんと共同で)「中・高の授業の実態と学力、私たちは理科に何を望むのか」の話題提供をします。これをうけて山口章夫さん(原子力情報室共団代表)と最首悟さん(和光大学)が大学の立場から、中高現場に「学力とは」「理科を教える、学ぶとは」についてコメントされます。それをうけて乱戦舌頭火をふく大論戦を展開しようというしくみ。あいだにほてった頭をやすめる実験もはさんで、部会の方にも入ってもらって、幅の広い論議を考えています。お申し込みは私を通じて結構です。
(中略)
 最後になりましたが、お心のこもった贈り物を頂き、身に余る光栄です。こんなうれしい思いをした科学の先生は開闢以来はじめてじゃないかと思います。大変大変つかれましたし、元気をわけましたので底をつきましたが、今日はまた元気になって学校にやってきました。私のお渡した教材のうち、「ザラ紙法」実験のひまがありませんでいたので、改めて今日実験をしました結果を同封しました。お手持ちの厚紙(実験前のもの)でお試しください。


04A−184
差出人:林 正幸
送信日:05年7月8日
件 名:酢酸ナトリウムの不思議

こんばんは、林です。
 アルケ通信の締め切りが迫っています。資料を送ってください。またアルケ合宿やアルケ・ナイターへの参加の方もよろしく。
 例の酢酸ナトリウムについて不思議なことがあります。私は10%だけ水を追加して、チャック付きポリ袋の中に過冷却液体をつくっているのですが、ときどきすこし結晶ができるのです。そしてこれに固体の酢酸ナトリウム3水和物の小粒をいれると、ちゃんと凝固して発熱するのです。昨日は、20年以上前に買った「Heat Solution」という商品でもこのことが観察できました。
 「すこしできる結晶」は通常の酢酸ナトリウム3水和物の結晶ではないはずです。この結晶は酢酸ナトリウム水溶液と平衡状態にあるように感じます。ひょっとして無水物の結晶、あるいは1水和物の結晶(そんなものがあるかどうかも知りませんが)ということはないのかなあ・・・。
 ではまた。


04A−185
差出人:杉山 剛英
送信日:05年7月13日
件 名:酢酸ナトリウムの結晶

杉山剛英です。  私も13年くらいこの実験をやっています。私はもう少し水を加えたものから再結晶させますが、確かに撹拌の悪いもの(つまり下が濃い)ものは試験管底部に結晶が析出しますがあとは林さんの報告の通りです。見た目は針状結晶で3水和物っぽいですがきっと違うのでしょう。ただ一度だけ、ガラス転移したことがあります。普通に放置したらなっていたのですがまさしく無色透明で、逆さにしても落ちてこず、ガラスになっていました。でもそれっきり、あとはただの一度もできたことがありません。


04A−186
差出人:藤田 勲
送信日:05年7月15日
件 名:備長炭燃料電池は本当に燃料電池か?

 希硫酸や水酸化ナトリウム水溶液を備長炭を電極にして電気分解して、その後再びソーラーモーター等で放電する「備長炭燃料電池」は、燃料電池の原理で説明することが本当に正しいかどうか検討してみました。
《実験その1》
@、0.1M水酸化ナトリウム水溶液を備長炭を電極にして2〜3分、10v、1Aで電気分解した所、テスターで測った電圧は1.4vありました。
A、0.1M硫酸ナトリウムで同様に備長炭電極で電気分解したところ、電圧は1.6Vありました。
[疑問と考察その1]
 純粋な水素・酸素燃料電池なら起電力は1.1V程度なはずです。これを超える電圧を示す電池は純粋な燃料電池ではない可能性があります。
《実験その2》
B、@の電池をソーラーモーターが回転しなくなるまで十分に放電させる。その後、この正極側の備長炭(酸素が吸着していると思われる方)を取り出して0.1M塩酸に1分浸す。そして、再びこの電極を電池の正極として使うと0.5Vの電圧を示してモーターも再び回転する。
C、Bの実験でこの備長炭電極を0.1M塩酸よりも濃い濃塩酸に浸したものを使うと0.7Vの電圧がある。
[疑問と考察その2]
 @の電気分解で正極の備長炭は水酸化物イオンを消費して酸性になっています。そして、Bの放電で吸着酸素はなくなっているか、減っているはずです。それにもかかわらずこの正極を酸性の塩酸に浸して再び正極に使用するとモーターが再び回転するということは、この電池は燃料電池ではなく濃淡電池の可能性がありそうです。燃料電池なら正極側の酸素吸着は不可欠なはずです。
《実験その3》
D、セロハンに包んで濃塩酸に浸しておいた備長炭を正極に、6MNaOHに浸しておいた備長炭を負極にして電気分解後に、ソーラーモーターで放電させる。その途中で負極を予めNaOHに浸しておいた新しい備長炭(煮沸済みで吸着ガスを除いておいたもの、電解していないので水素を吸着していない)に変えてもモーターは回り続ける。
E、Dのとき、モーターが止まったら正極の備長炭付近の溶液に酸素をボンベから吹き込むと再びモーターは回る。
[疑問と考察その3]
 Dの実験で、負極を水素を吸着していない備長炭に変えてもモーターが回るということは、この電池はもはや燃料電池とはいえないと思います。この電極が溶液中に溶けていた水素を新たに吸着したとは考えられません。なぜなら、もし溶存水素を新たに吸着するのなら、変える前の電極ですでに起こっていてもおかしくないからです。
 では、Eの正極側の酸素吹き込みでモーターが再び回転するのはどう考えたら良いでしょうか。これは放電で不足した酸素を供給したと考えられます。つまり、この場合の電池は気体濃淡電池とイオン濃淡電池が同時に起こっていると考えることができそうです。
(A)溶存気体(酸素)の濃度差を利用して起電力を得る濃淡電池としてみた場合
負極 4OH− → O2 + 2H2O + 4e−  E=+0.4v

正極 O2 + 2H2O + 4e− → 4OH−
 (実際には正極付近は酸性なので次の反応が起こっているでしょう。)
    O2 + 2H3O+ + 4e− → 4H2O  E=+1.3v

*負極と正極で溶存する酸素濃度に差があるので起電力を発生する。Eの実験で酸素吹き込みは放電で消費した酸素を供給して正極の平衡を右にずらすことになる。
*仮に酸素が拡散してしまっていて両極の酸素濃度に差がなくなっているとしても、極付近の水素イオン濃度に差がありますから、やはり起電力を生じます。
《実験その4》
F、Dの実験のときに、放電途中で正極を予めHClに浸しておいた新しい備長炭(電解していないので酸素を吸着していないもの)に変えてもモーターは回り続ける。
G、Fのとき、モーターが止まったら負極の備長炭付近の溶液に水素をボンベから吹き込むと再びモーターは回る。
[疑問と考察その4]
 Fの実験の場合も同様です。正極の新しい備長炭は酸素を吸着していませんから、この場合の放電もやはり濃淡電池の原理で説明されるでしょう。
(B)溶存気体(水素)の濃度差を利用して起電力を得る濃淡電池としてみた場合
負極 H2 → 2H+ + 2e−
(実際には負極付近はアルカリ性なので次の反応が起こっているでしょう。)
   H2 + 2OH−  → 2H2O + 2e−  E=−0.83v

正極 2H+ + 2e− → H2  E=0v

*負極と正極で溶存する水素濃度に差があるので起電力を発生する。Eの実験で負極での水素吹き込みは放電で消費した水素を供給して負極の平衡を右にずらすことになる。
*仮に水素が拡散してしまっていて両極の水素濃度に差がなくなっているとしても、両極付近の水素イオン(水酸化物イオン)濃度に差がありますから、やはり起電力を生じます。
《まとめ》
 炭を電極にして電気分解して水素と酸素を得ることは、必ず負極の水素側をアルカリ性にして、正極の酸素側を酸性にします。この時、電極の負極の炭には水素ガスと共にOH−イオンが細孔に吸着し、反対に正極の炭には酸素ガスと共にH+イオンが吸着しています。
 したがって、このようにして作った電池を放電させると、負極に多く吸着した水素ガスの濃淡による電池形成があると同時に正極に多く吸着した酸素ガスの濃淡による電池形成も起こります。したがって、起電力も酸素濃淡電池と水素濃淡電池の和になるのです。さらに、炭に吸着したH+(あるいはOH−)イオンの濃淡によるイオン濃淡電池(酸アルカリ濃淡電池)も同時に形成されてなおのこと起電力は大きく出るのです。
 実際には負極ではアルカリ側での酸化還元電位から次の反応が起こるでしょう。
H2 + 2OH−  → 2H2O + 2e−  E=−0.83v

一方、正極では酸性側の酸化還元電位から次の反応が起こるでしょう。
 O2 + 2H3O+ + 4e− → 4H2O  E=+1.3v

 こうして、この濃淡電池では結果として正極で酸素ガスが消費されて負極で水素ガスが消費されますから燃料電池に見えるというわけです。
《実験その5》
H、0.1MNaOH溶液にクッキングペーパーを巻いてからセロハンで包んだ備長炭を電極にしてソーターモーターにつなぐ。次に、各炭電極に酸素ガスと水素ガスをバグリングさせて吸着させる。このときの起電力は0.05V程度でほとんどなし。
I、Hの処置のあと、水素側の電極に6MNaOHを流し込んで染み込ませ、酸素側の炭電極に濃塩酸を流し込んで染み込ませる。その上で、再度各ガスを吹き込むと起電力は0.3V程度に上がり、ソーラーモーターもわずかに回転します。
[疑問と考察その5]
 Hの実験から、両極に水素イオンの濃度差がないと、ガスが吸着していたとしても炭電極で起電力はほとんど生じないことになる。つまり、炭内では活性化されたガスは極めて少ないと言える。
 Iの実験から、やはり濃淡電池であることが確認できる。
《最後に》
 誰が初めに「備長炭燃料電池」を始めたか分かりませんが、場合によってはこの電池でソーラーモータではなく普通のモーターも回るようです。しかし、こんなことが水素燃料電池で簡単に起こるのなら画期的なはずです。炭を向かい合わせただけの構造では内部抵抗はかなり大きく、大きな電圧と大きな電流が得られそうもありませんが、疑問に思ってそのことを考察している文献を私はまだ見たことがありません。誰かが燃料電池だというと、次の人は疑うことなく思い込んでしまう良い例かもしれません。
 長々書きました。このような考察は多分高校レベルではまだしている人はいないと思います。私自身もまだ理解していない部分もありますので、慎重な検討をお願いします。


04A−187
差出人:山本 喜一
送信日:05年7月20日
件 名:RE:備長炭燃料電池は本当に燃料電池か?

こんにちは、山本です。
 藤田さんから送られた電気分解型の燃料電池については、私も酸塩基電池も形成しているのではないかと思います。基本的には藤田さんの考えに賛成なのですが、2,3点について、私の考えを書いてみます。
(1)
<引用>
《実験その1》
@、0.1M水酸化ナトリウム水溶液を備長炭を電極にして2〜3分、10v、1Aで電気
分解した所、テスターで測った電圧は1.4vありました。
A、0.1M硫酸ナトリウムで同様に備長炭電極で電気分解したところ、電圧は1.6Vあ
りました。
[疑問と考察その1]
純粋な水素・酸素燃料電池なら起電力は1.1V程度なはずです。これを超える電圧を
示す電池は純粋な燃料電池ではない可能性があります。
<ここまで>
そして、起電力が高い理由を
<引用>
《まとめ》
炭を電極にして電気分解して水素と酸素を得ることは、必ず負極の水素側をアルカリ
性にして、正極の酸素側を酸性にします。この時、電極の負極の炭には水素ガスと共
にOH−イオンが細孔に吸着し、反対に正極の炭には酸素ガスと共にH+イオンが吸
着しています。
したがって、このようにして作った電池を放電させると、負極に多く吸着した水素ガ
スの濃淡による電池形成があると同時に正極に多く吸着した酸素ガスの濃淡による電
池形成も起こります。したがって、起電力も酸素濃淡電池と水素濃淡電池の和になる
のです。さらに、炭に吸着したH+(あるいはOH−)イオンの濃淡によるイオン濃
淡電池(酸アルカリ濃淡電池)も同時に形成されてなおのこと起電力は大きく出るの
です。
<ここまで>
と説明していますが、同時に複数の電池が形成される場合は、起電力がそれぞれの電池の和になるのでしょうか? 例えば、負極にマグネシウムと亜鉛を使い、正極に銅を使って希硫酸に浸した場合、MgとCu、ZnとCuの電池が形成されそうですが、MgとZnの電池も形成されるため、この電池の起電力はMg/Cu、Zn/Cuの二つの電池の起電力の和にはならないと思います。電気分解型の燃料電池の起電力が高いのは、10Vという高電圧で電気分解するため、H2^−イオンとかO2^+イオン等という活性なイオンが一時的に生じるためではないでしょうか。

(2)実験EとGで、正極に酸素を負極に水素を吹き込むと起電力が上がる実験結果が書いてあります。この理由について
<引用>
正極 O2 + 2H2O + 4e− → 4OH−
 (実際には正極付近は酸性なので次の反応が起こっているでしょう。)
    O2 + 2H3O+ + 4e− → 4H2O  E=+1.3v
負極 H2 → 2H+ + 2e−
(実際には負極付近はアルカリ性なので次の反応が起こっているでしょう。)
   H2 + 2OH−  → 2H2O + 2e−  E=−0.83v
<ここまで>
という説明がありますが、酸素や水素は備長炭表面で、こういう反応を素早く起こすのでしょうか?酸素や水素を反応させるために、燃料電池では白金やパラジウムなどの触媒を必要としているのだと思います。触媒なしで、これらの反応が起こるということは、ちょっと考えにくいのではないでしょうか?それとも、電流を流しながら電圧を測っているわけではないので、反応の速さはこの場合は関係ないのでしょうか?私は、酸素や水素を吹き込んだことによって、備長炭表面近くの溶液が撹拌され、再びH+やOH-イオンの濃度が上がったために起電力を回復したのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?それを確かめるためには、電極に窒素などを吹き込んで起電力がどうなるのかを調べればよいのですが・・・。

(3)電気分解型の電池が燃料電池であるかどうかについて、
<引用>
実際には負極ではアルカリ側での酸化還元電位から次の反応が起こるでしょう。
H2 + 2OH−  → 2H2O + 2e−  E=−0.83v
一方、正極では酸性側の酸化還元電位から次の反応が起こるでしょう。
 O2 + 2H3O+ + 4e− → 4H2O  E=+1.3v
こうして、この濃淡電池では結果として正極で酸素ガスが消費されて負極で水素ガス
が消費されますから燃料電池に見えるというわけです。
<ここまで>
と結論を出しています。この二つの反応が起こっているかどうかについては、(2)で書いたとおりですが、もしこの反応が起こっているのであれば、燃料電池と言って良いのではないでしょうか。燃料電池の定義をどうするかにもよりますが、「水素と酸素を供給し、水を生成物とする発電反応」と定義すれば、反応の細かいしくみは違って良いはずです。実際、アルカリ型の燃料電池やリン酸型、溶融炭酸塩型ではそれぞれ内部の反応は違いますから。

 以上、色々と書きましたが、これらはすべて私の勝手な考えで、文献に当たったわけでもなく、実験で確かめたわけでもありませんので、間違っているかも知れません。ご検討下さい。


04A−188
差出人:山本 喜一
送信日:05年7月21日
件 名:高校理科の諸問題

こんにちは、山本です。  雑誌『理科教室』が”高校理科の諸問題”という特集を組むそうです。その化学分野についての原稿依頼がありました。そこで、「何のために理科(化学)を教えるのか」「なぜ理科(化学)を教えるのか」という点に焦点を絞って書いてみました。6月に鎌倉で集まったときにも同じような話題が出ましたが、あのときはアルコールも入っていて、あらぬ事を口走ったような気がします。あの会の後、杉山さんからのメールがMLで届きましたが、なかなか忙しくて私の考えを送れませんでした。この原稿は、杉山さんのメールへの自分なりの答えでもあります。また、内容的には日教組の全国教研やミニ教研で議論されていることが中心です。ちょっと長くて申し訳ありませんが、読んでいただいて感想などをお聞きできれば、と思っています。

       循環型社会を目指す理科(化学)を
        −授業で命の大切さを−
                  千葉県立**高等学校 山本喜一

はじめに
 最初から私事で恐縮ですが、私の心に残っている理科の先生との出会いを3つ
紹介したいと思います。
(1)生物の先生と臨界事故のビデオ
 まず、今年度になってからの出会いです。私はこの4月に新しい学校に転勤し
ました。1学期の中間テストで、あるクラスに試験監督に行ったとき、教卓の上
に置かれてあった学級日誌を何気なくめくっていたところ、生物の授業で原発事
故のビデオを見たという記録が目に飛び込んできました。原発事故のビデオとい
えば、茨城県のJCOという会社で起こった臨界事故の記録「被曝治療83日間の
記録」(NHKスペシャル)ではないかと直感しました。私も化学の授業で、毎年
このビデオを生徒に見せていたのです。さっそく、生物の先生に確認したとこ
ろ、やはりそうでした。生物では、細胞核とか遺伝子などの内容と関連させてこ
れを見せているとのことでした。「核とか放射能とか遺伝子という知識は、これ
から生きていく上では必要なことですよね。」という意見で意気投合。共通する
ものを感じました。
 このビデオは、臨界事故で大量の放射線を浴びた大内さんの記録です。彼の染
色体は放射線で分断され、細胞分裂によって新たな細胞を産み出す能力がなく
なってしまいました。古い皮膚がはがれ落ちた後、新しい皮膚が現れないため、
大内さんは全身の皮膚を失った状態になりました。体中のいたる所から体液や血
液がにじみ出し、頭から足の先まで包帯にまかれた姿が映し出されています。ま
た、腸でも表面の組織がはがれ落ち、そこからも出血しました。こうした症状と
のたたかいの末、大内さんは被曝から83日目に亡くなったのです。このビデオは
放射線の恐ろしさを、私たちに伝えています。
 私はある年、高校1年生に予備知識なしにこのビデオを見せましたことがあり
ました。次の時間に、原子の構造や同位体と関連させて説明しようと思ったので
す。しかし、ビデオの途中で生徒から「先生、放射線って何?」という声や、
「染色体って何?」という質問が出されました。私はそれを聞いて、生徒たちは
これまでに核や放射線について学ぶ機会がなかったことを改めて強く感じまし
た。もし彼らが高校でもそういうことを学ばずに卒業したら、大人になってこの
ビデオを見ても、肝心なところが理解できないはずです。私は、今の理科教育の
中ですっかり抜け落ちてしまっている大きな穴を見つけたような思いがしまし
た。今年は北朝鮮の核をめぐる6カ国協議に関する報道が流れています。核や放
射線の知識がなければ、核兵器の恐ろしさも理解できないでしょう。
(2)Y先生と電気
 二つめは、日教組全国教研集会の理科分科会で司会者をしていたときの出会い
です。数人で打ち合わせをしていたとき、共同研究者の一人で、大学で教鞭を
執っておられるY先生から、こんな話が出ました。「理系の大学に来る学生は、
理科のペーパーテストは良くできる。しかし、理科のことがまるで分かっていな
いよ。ヘッドホンステレオをつけ、テレビも部屋の電気もつけっぱなしにして昼
寝をしている。電磁気の難しい計算はできても、電気を使っていると二酸化炭素
がふえたり、どこかに放射能がたまっていることを知らないんだよ。いや、知っ
てるかもしれないけれど知識と自分の生活がつながってないんだね。」私はこの
話を聞いて、電気が分かるということはどういうことなのか、そして、私が教え
ている化学の各単元では”何が”分かればよいのかを考えさせられました。
(3)I先生と原田正純氏
 三つめは、千葉で生物を教えているI先生です。数十人の理科の教師が集ま
り、一人ひとりが工夫した実験や授業を1泊2日で発表し合った会の帰り道のこ
とです。I先生は「私の教え子の中から科学者が出るのなら、例えば水俣病の原
田正純さんのような科学者を出したいと思うんだよ。」とおっしゃっいました。
これは、楽しい実験、生徒が良く分かる授業の工夫を発表し合った会の感想でも
ありました。水俣病では、患者や住民の側に立った原田さんのような専門家がい
た反面、私利私欲のために国や企業を擁護し、原因究明を妨害した科学者もいま
した。楽しくてよく分かる授業を目指すだけでは、原田さんのような生き方がで
きる専門家は出てこないというI先生の考えが、私に伝わってきました。
基礎と基本
 この特集の「高校理科の諸問題」というタイトルでまず浮かぶことは、教育課
程でいえば、大幅な選択制の導入によって、物化生地4分野の学習が保証されな
くなり、大まかな自然を全体として学習できなくなったことがあげられると思い
ます。また化学の内容では、中学校からイオンが無くなってしまったために、イ
オン性物質・分子性物質・金属という物質全体の把握ができないまま、高校に入
学してくるという問題点が指摘できると思います。要するに、今の教育課程・教
育内容では、高校を卒業する段階であっても、自然に対するきわめて断片的な知
識しか身につかないということのです。それに対する危惧は、当然のことなが
ら、いろいろと上がっています。
 しかし、授業時間にも限度はありますから、自然科学のすべての分野を深く学
び取らせることはできません。そこで、理科で何を教えるべきなのか。何が理科
の基礎・基本であるのかという議論になります。日教組全国教研の理科分科会で
も、毎年のように基礎・基本論議が繰り返されました。ある教師は、生物顕微鏡
を使えるようになることが基礎・基本であると発言しました。顕微鏡を使えば、
今まで気づかなかった新しい世界が見えてくるというわけです。またある教師
は、環境問題を考えられることが基礎・基本だと言い、別の教師は原子論を身に
つけることだと言いました。こうして一人ひとりの基礎・基本を聞いてみます
と、まさに十人十色であり、しかもその質に違いのあることも分かりました。そ
こで、基礎と基本は違うのではないかという声があがり、議論を煮つめていくう
ちに、2001年度の大会では次のような考え方が出されました。『基本というのは
イデオロギーであり、価値観を含むものである。これに対して、基礎とはそのイ
デオロギーを実現するために必要な知識や技術などである。』というものです。
例えば、『教育基本法』と言いますが、『教育基礎法』とは言いません。教育基
本法は、憲法の精神を生かして、民主的な人格を形成するというイデオロギー・
価値観を述べています。これを教育の『基本』と言いますが、教育の『基礎』と
は言わないわけです。授業で言えば、自分が授業をとおして何を教えたいのかと
いう基本姿勢がまさに基本であり、それを実現するためにどんな教材をどのよう
に配置し、どう学び取らせるかという工夫が基礎にあたるというわけです。全国
教研に参加したある教師は、「部活で言えば、勝つために練習するのか、それと
もレクリエーションなのかということが、その部活の基本であり、どっちを基本
にするのかによって基礎的な練習も変わってくるということですね。」と発言し
ていました。
 このように基本と基礎を分けてみますと、中学校からイオンが無くなったこと
や、選択科目が増えたことなどは理科の基礎をどうするかという議論ではないか
と思います。自然に関する断片的な知識しか学ぶ機会がないということは大問題
ですが、その議論の前に、理科で何を学び取らせるのか、なぜ理科を学ばせる必
要があるのかという議論がなければならないと思うのです。
 以前の私は、自然のいろいろな分野について、実験や観察を積み重ねながら体
系立てて学び取らせればそれで良いと思っていました。そういう学習を経験した
生徒は、事実を事実として認める姿勢や、論理的な思考力が身につき、その力を
使って社会のひずみを見つけ、解消していくはずだと思っていたのです。しか
し、公害事件では患者を切り捨てる側にまわった科学者がいました。さらに、
トップレベルの理系の大学や大学院を卒業しながら、社会に出てさまざまな不正
に関与する人達もいます。彼らは自分の専門のみならず、高校程度の自然科学の
教科書であれば、読みこなすだけの力は持っているはずです。それでも、社会的
な不正を犯すのはなぜでしょうか。自然科学を楽しく、よく分かるように、体系
立てて教えるだけでは、大きな何かが欠如するのではないかと思うのです。
循環型社会を目指して
 では、理科の基本に何を置くべきでしょうか。私は、環境問題を克服して循環
型社会を目指すことを基本にしたいと思います。大量生産・大量消費・大量廃棄
社会を改めて、循環型社会を作るために理科を教えたいということです。このま
まま進めば、資源が枯渇するか、あるいは廃棄物に埋れるかによって、生活が持
続できない社会が来ることは明らかです。人間は遅かれ早かれ循環型社会を作ら
なければ、生存さえ危ぶまれる事態になるでしょう。環境問題を考えるというこ
とは、いかにして循環型社会を作り上げるかを考えることだと思います。ですか
ら、どうしようもない放射性廃棄物を出す原発はやめるべきですし、大量の二酸
化炭素を吐き出す火力発電も見直すべきでしょう。では、それに代わるエネル
ギーをどうするのか。自分自身はどんな生活をすればよいのか。そのような問題
を考えるめに、理科(化学)を学ばせたいと思うのです。しかし、このような考
えに対しては、教師の価値観の押しつけではないかという反論も聞かれます。科
教協全国大会の化学分科会で環境問題を取り入れた授業を報告したときも、同趣
旨の意見が出されました。理科は自然(自然科学)を充分に学び取らせることを
目的とすべきであり、環境や循環型社会をどうするかということについては、個
人の判断に任せるべきだという意見です。それに対して、ある方から「人権と平
和と環境は守って当たり前。そういう時代だ」という発言をいただき、たいへん
心強い思いがしたことを覚えています。
 自然科学の内容を充分に身につけていれば、社会のひずみを見つけ出し、それ
を解決できる大人になるということが本当であれば、極端に言えば、平和教育を
しなくても、戦争の愚かさや悲惨さを探し当てられるはずです。また、さまざま
な差別や人権抑圧にも気づくはずです。しかし、現実には平和教育も人権教育も
欠かすことはできません。教える側が平和や人権は守るべきであるというイデオ
ロギーを持ち、意図的にカリキュラムの中に入れることによって、はじめて、生
徒たちに平和や人権を守ることの大切さを理解させることができるわけです。平
和教育や人権教育を教師の価値観の押しつけだと言う人はいないでしょう。環境
教育も同じだと思うのです。教える側が意識的に環境問題を授業で扱わない限
り、電気を無駄遣いする大学生のように、環境を守る意味や大切さに気づかない
まま高校を卒業してしまうのではないかと思うのです。
 また、環境を守るということは、平和や人権を守ることにも関係があります。
このまま環境破壊が続き、水不足や食糧不足、熱波や豪雨、金属資源の枯渇など
が相次いで起これば、暴動や戦争などが起こり、人権侵害も多発するでしょう。
現にアフリカで起こっている内戦と、それに伴う難民のスラム化、貧困化の広が
りは環境破壊が大きな原因となっているという指摘があります。このように、環
境を守るということは、平和や人権を守ることでもあります。
命の大切さを
 個々の人が平和や人権や環境を守りたいという気持ちになるのは、根底に命を
大切にしたいという思いがあるからでしょう。自分の命も他人の命も大切である
という気持ちがあるからこそ、平和や人権や環境の大切さが理解できるのだと思
います。ですから、この三つを教育の中で取り上げることによって、命の尊さを
生徒たちに感じさせることができると思います。理科(化学)の教育でも、かけ
がえのない命について考えさせ、気づかせることが基本中の基本だと思います。
科学の限界と環境問題
 理科(化学)で命の大切さに触れたいと思う理由がもうひとつあります。それ
は多くの環境問題に対して、今の科学では今後の予測が立たないということと関
連します。温暖化問題を取り上げてみても、どれくらい二酸化炭素がふえたら、
どこまで気温が上がり、どんな異変が起こるのかについて、今の科学ではきちん
と答えられません。遺伝子組み換え作物についても同じです。特定の農薬に耐性
を持つ作物であれば作業能率が上がり、収量も増えるでしょう。しかし、その作
物がつくり出すタンパク質が、誰にでも安全であるかどうかは分かりません。さ
らに、組み換え作物が野生化したときに、生態系にどんな影響を与えるのかも予
測できません。
 このように、環境に関する問題は科学的にはっきりしないものがほとんどで
す。しかし私たちは温暖化対策をどの程度行うのかということや、遺伝子組み換
え作物を受け入れるのかどうか、原発をどうするのかなどの問題に答えを出さな
ければなりません。科学では答えが出ないのですから、自然科学だけをいくら勉
強しても答えは出ません。分かっている知識をできるだけ集めた上で、別の視点
に立って考えなければならないわけです。
 最近、このような問題に対して予防原則という考え方が出てきました。新しい
技術や化学物質などは、それが環境や人間に悪影響を与えないことがはっきりす
るまでは使用を控えようというものです。欧州ではこの考え方に基づいて、化学
物質を規制する法案が検討されています。こうした考え方を評価するときも、ど
うすれば命を大切にできるかという視点に立つことが大切だと思います。ここで
も理科教育で命の大切さに触れておくことに大きな意義を感じます。
おわりに
 ここまでの内容から、私が理科(化学)の内容のすべてを、環境問題というベ
クトルで扱うべきだと主張していると、お感じになった方も多いと思います。し
かし、化学は物質の性質や構造、変化を扱う分野ですから、授業では生徒たちに
物質を触れさせながら、物質の世界を学び取らせるという内容がメインになるは
ずです。私もそういう授業を行っています。そうしながら、命を大切にし、平和
や環境を守ることの大切さを生徒に気づかせたいと考えているのです。例えば、
中学校では化学反応のはじめに、『化合と分解』という単元があり、酸化水銀を
使った実践があります。この部分では、分解を原子のようすで説明して終わりに
するのではなく、物質を分解するには加熱する必要があることにも注目させたい
と思います。そうすれば、酸化アルミニウムを分解してアルミニウムを作る時も
エネルギーが必要なことを類推できるでしょう。こうして、アルミニウムの無駄
遣いや廃棄処分はエネルギーの損失であることも教えられる授業になると思うの
です。


04A−189
差出人:岡田 晴彦
送信日:05年7月23日
件 名:アセチレンとヨウ素の反応 再び

名古屋の岡田です。
 1学期も終わり、やっと夏休みに入りました。名古屋はここ1週間くらい厳しい暑さが続き夏バテしそうでしたが、今日からしばらく涼しいという予報なので一息つけそうです。
 今年1月に皆さんにいろいろ教えていただいたアセチレンとヨウ素の反応について、少し実験をしてみました。そして、ある程度結論をだしてみますので、ご検討ください。もう半年も過ぎていますから、お忘れの方もいらっしゃると思いますので、ほんの少し復習をします。
 ことの始まりは、昨年末の安房科学塾で、アセチレンの実験で岡田が臭素水の代わりにイソジンの水溶液を使ってみたら、イソジンの色が消えたので、アセチレンにヨウ素が付加反応するのでは、と報告したところ、多くの人からそれはおかしいという意見がでました。安房科学塾ではもう時間がなかったので、年が明けてから、アルケのメールを通じてご議論いただきました。
 モリソン・ボイドなどの専門書によると、アルケンへのハロゲン付加は塩素と臭素では起こるが、ヨウ素では一般には起こらないとあり、さらに、二重結合と三重結合を比較すると、臭素が付加する場合、三重結合の方が遅い、などご紹介していただき、アセチレンにはヨウ素は付加しないのでは、と結論が出そうになったとき、岡田が2つの資料を見つけてしまいました(2つとも同じ人が作成されたと思います)。高校化学の教科書(三省堂の化学T)と「化学と教育」2004年1月号です。
「カーバイドと水から生成したアセチレンには硫化水素などの不純物が含まれているが、硫酸酸性の硫酸銅水溶液に通せばよい。0.05%のヨウ素−エタノール溶液や0.05%のヨウ素−ヘキサン溶液、イソジンの30倍水溶液でもアセチレンの付加反応が起こる」
と記してありました。
 その後、山本さんが紹介された実験を追実験されましたが、そのようにはいかないようだと報告されました。その頃、岡田の家庭に事情が生じ、検討を一旦中断していただきました。夏休み近くになり、やっと余裕ができましたので、山本さんがされた実験を私もやってみました。
  準備した溶液
(1)臭素水(0.05%くらいにしたつもり、一応色はついています)
(2)0.05%ヨウ素−エタノール溶液
(3)0.05%ヨウ素−ヘキサン溶液
(4)イソジンの30倍水溶液
  準備した気体
@アセチレン(カーバイドと水から生成)
Aアセチレン(カーバイドと水から生成した後、硫酸酸性の硫酸銅水溶液を加えてよく振り、3日間放置しておいたもの)
Bアセチレン(溶接に使用するボンベに入っている「溶解アセチレン」といわれるもの。工業系の某高校へ行き、ボンベから試験管に水上捕集させてもらいました。メーカーにその純度や不純物について問い合わせているところですが、匂いをかいでみましたが、@やAのような不快な匂いはありませんでした。ガス漏れを感知するために何かを少し加えてあるようです。)
Cエチレン(少し前までは、固形のポリエチレンがあり、これを加熱すると気体のエチレンが生成したそうです。業者の古いカタログにはありましたが、現在では取り扱っていないとのことでした。しかたがないので、エタノールと10酸化4リンを混合しおだやかに加熱して生成しました。臭素は退色したので、エチレンだったと思います)
  実験
 試験管(約35ml)にそれぞれの気体を水上捕集し、それぞれの溶液を1ml加え、約50回振りました。
  結果
@のアセチレンは、(1)〜(4)のすべての溶液で  退色がみられました。
Aのアセチレンは、 (1)の臭素水では退色がみられましたが、(2)〜(4)の溶液の色はほとんど変化しませんでした。1日後でも変わりませんでした。
Bのアセチレンも、(1)の臭素水では退色がみられましたが、(2)〜(4)の溶液の色はほとんど変化しませんでした。
Cのエチレンも、(1)の臭素水では退色がみられましたが、(2)〜(4)の溶液の色はほとんど変化しませんでした。
  参考
 使用した臭素・ヨウ素とアセチレン・エチレンの物質量ですが、ヨウ素は1ml中に1.3×10-6 molに対して、アセチレン・エチレン35ml中に1.4×10-3 molなので、気体の方が1000倍くらい存在したことになります。
  結論
 エチレン・アセチレンに臭素は付加反応を起こしやすいが、エチレン・アセチレンにヨウ素は付加反応を極めて起こしにくい。
 カーバイドと水から生成したアセチレンには硫化水素などが含まれているため、イソジンなどヨウ素は付加反応ではなく、硫化水素によって還元されるために退色する。また、臭素水を使用して付加反応を確認する場合も、硫化水素によって還元されていることも念頭に入れてお必要はある。
  別件
 私がイソジン(ヨウ素)を使用してみたきっかけのひとつは「ヨウ素価」がありました。そこで、ヨウ素価について調べてみました。先のヨウ素の不飽和結合への付加反応の件と同じで、よく知っている人には当然のことのようですが、勉強不足の私には新鮮でした。
(ウィース法)
 一定量の油脂をクロロホルムに溶かし、十分な量の塩化ヨウ素(ICl)を作用させる。このとき、油脂の二重結合にヨウ素(I)と塩素(Cl)が付加します。残ったIClにKIを作用させるとI2とKClになります。このI2をデンプンを指示薬としてNa2S2O3(チオ硫酸ナトリウム)標準溶液で滴定します。この結果油脂に付加した塩化ヨウ素(ICl)の物質量を求め、これをヨウ素(I2)に換算してヨウ素価を求める。
  おわりに
 勉強不足のために間違いなどがあると思います。ご意見をいただけると幸いです。なお、結論からみれば、当然の結果でしたので、「化学と教育」などへの投稿はしないほうがよいかなと考えています。


04A−190
差出人:林 正幸
送信日:05年7月25日
件 名:備長炭「燃料電池」をめぐって

こんにちは、林です。
 台風が近づいていて心配です。
 メールを見ると、やはり夏休みは活動期ですね。高校理科の諸問題に関する山本さんの原稿に、異論はありません。「基礎」も「基本」も大切です。その上で現在の私の関心の対象は、科学のおもしろさを感じ取り、思考力を高めるための工夫です。
 岡田さん、がんばりましたね。結果は平凡でも貴重な研究であると思います。ただしカーバイドと水からつくるアセチレンの不純物は硫化水素が中心ですか。においからすると違うように感じます。
 そして藤田さん、備長炭「燃料電池」の実験をありがとう。確かにこれが燃料電池であるかどうかは確認されていない可能性がありますね(野曽原さんからの情報の詳細も必要になるかもしれません)。またこれに対する山本さんの意見ですが、その(3)は私も考えたことです。
 その上で、私は濃淡電池の否定の方にこだわってみようと思います。科教協大会、アルケ合宿の準備があってすぐには動けませんが、私の素朴な疑問は、濃淡電池でソーラーモーターが数分もまわるだろうかということです。たとえば一方の銅板には硫酸銅水溶液が接し、他方の銅板には硫酸ナトリウム水溶液が接し、セロハンを中間に入れた電池は、ソーラーがまわるだろうか。またたとえば水酸化ナトリウム水溶液の場合、備長炭の表面が本当に酸性になるのだろうか。
 濃淡電池の起電力には次の関係式が成り立ちます。
    E = (RT/nF)ln([a1]/[a2])= 2.3(RT/nF)log([a1]/[a2])
水素・水素イオンの場合
    (1/2)H2 ―→ H^+ + e^-
([a1]/[a2])が 10^(14) としても
    E = 2.3×8.3×297×14/1×96500 = 0.823[V]
です。
 さてソーラーモーターが0.5V、20mAで100sまわると
    0.5×0.020×100 = 1[c]
です。したがって水素イオンの変化量は
    1/96500 = 10^(-5)[mol]
です。これは狭い領域で考えれば大きな濃度変化につながります。
 今日のところはこれで。


04A−191
差出人:山本 喜一
送信日:05年7月28日
件 名:大人もハマる週末面白実験

今日は山本です。
 ブルーバックスから「大人もハマる週末面白実験」(左巻、滝川、こうの編著)という本が出ました。この中に、私のアルミホイルで作るカイロを載せてもらいました。よかったら、本屋で見て下さい。なお、ここで紹介した方法よりももっと簡単で、成功率も高く、長持ちするアルミカイロを開発しました。いつかの機会に紹介したいと思います


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