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00A−151
差出人:風間 清光
送信日:00年12月27日
件 名:二六製作所の磁石

皆さんこんにちは、奈良の風間 清光 です。
 いつもお世話になります。メールをいつもいただき、有り難い情報に感謝しています。全員(24名)に発信できる自信がつけば、少しは気楽にメールが送れるのですが・・・・・。   (^_^;)(^_^;)
 御存知かもしれませんが、”二六製作所”を紹介したいと思います。

滋賀県大津市月輪1−9−25
永久磁石製品および歯科医療用製品の製造・販売
電話 077−545−2126
FAX 077−545−0633
Eメール webmaster@26magnet.co.jp
www.26magnet.co.jp
従業員9名

 ネオジウム磁石を通信販売で買いました。種類も多く、安価なので約3万円注文しました。また、欲しい形状の磁石も相談に応じるとのことでした。パンフレットを34部いただきました。もし、問い合わせることあがれば、”奈良・耳成(みみなし)高校の風間からの紹介です”と言っていただければ、パンフレットの配布効果があったと思っていただけると・・・・・。来年、奈良の化学部会で企業訪問も計画しています。
 これからも、よろしくお願いします。


00A−152
差出人:鈴木 久
送信日:00年12月30日
件 名:Re:大変だ36

野中さん こんにちは いつも返事できなくてすいません。でもきちんと読んでいますよ。鈴木 久です。
 私も転勤して、いろいろありました。
>学級通信「165号」が今年の最後の通信になりました。
>いよいよ冬休みすごいですね。
アルケの資料でも、演劇の取り組みを読ませていただきましたが野中さんがんばっていますね。
>この何日間、グターとのんびりと過ごして、読書やトン
>ボ玉をしたいと思っています。
ぜひ、そうして英気を養ってまた新年を迎えてください。
 私は、進路のお手伝いを少しし、学校の文集の仕事を少しし、家の大量の本の移動をズーッとし(これはまだまだ終わりません)、年賀状の住所書き(パソコン入力)をやりやっと次は来年そうそうの実力テスト二学年分を作りにかかり始めたところです。それが終わったら、中学校の教師用の本の原稿に取り掛かります。
 アルケに関しては、エントロピーの勉強をはじめ、ケイ素関係の資料をコピーしています。後者は、いずれアルケの資料として送りたいと考えています。ずっと考えていた、化学の不勉強の一部を取り戻す第1歩です。
 きょう、深夜から読み始めた高木仁三郎著「原発事故はなぜくりかえすのか」岩波新書703 2000年12月20日発行を読了しました。考古学の遺物すりかえが問題になりましたが、彼は技術におけるデータ改ざんに対して命を振り絞って警告の本を作ってから逝かれました。技術者魂についてもっと基礎教育、それは学校だけでなく企業もしっかりしなくては。物理関係者が化学関係者にくらべてモノに対するこだわりがない分だけ甘いとも述べています。このあたりになるとアルケミストの原点について書かれているようにも読み取れます。なお、この2文はまったく私自身の言葉になっているので、引用個所として書くことができません。ぜひ、皆さんも読まれることを薦めます。
 それでは、よいお年を。


00A−153
差出人:山本 喜一
送信日:00年12月31日
件 名:村上陽一郎「文明の中の科学」(3)

こんにちは、山本です。
 鈴木さんのメールを見て、2,3年前、千葉の岩田さんが「原田正純のような科学者を教え子の中から作りたいと思っているんだよ」と言っていたことを思い出しました。こういう人たちが民衆(今は市民かな)の側に立って、頑張ってくれている影響は大きいと思いますね。 今回は、「文明の中の科学」を最後まで送ります。

第V部 近代の解釈とそこからの離脱
7.科学革命論
彼:私が科学史を勉強しはじめた1957年頃、学会では科学革命論をめぐる論争が起こっていた。もともとマルクス主義の影響が強かった科学史学会では、「観念的」な科学革命という概念を歴史の中に取り込むことには激しい抵抗があった。断っておくが、いま話題にしている科学革命とはクーンがパラダイム論を提唱した科学革命とは関係ない。

きみ:きみの言う科学革命とは、どんなこと? 彼:まず、それまでの歴史観に対する反省があった。古代?中世?現代という時代区分も、そこに盛り込まれている価値評価も歴史の実状からは遠いのではないかという反省だ。かつて中世は「暗黒」と言われてきた。中世という区分も暗黒という評価も啓蒙時代の所産だ。しかし、実際にこの時代に起こったことを精査してみると、きわめて豊富な社会的、学問的、技術的な展開があったことを認めざるを得ない。バターフィールドがそのことを著作で表している。この書物のもう一つの論点は、この時代、西欧は指導的な立場ではなかったということだ。世界史の中心は中国であり、またイスラム圏でもあった。
きみ:常にヨーロッパが中心だったというのは、錯覚だったんだね。
彼:同時に、ヨーロッパを作り上げてきたギリシャ・ローマの学問や技術も、キリスト教でさえヨーロッパが作りだしたものではないと主張する。それらはすべて外来であり、移入であった。「科学革命」が起こるまでは、ヨーロッパはマイナーな存在だったというんだ。逆に言えば、「科学革命」によってヨーロッパは歴史の主導権を握ることができたことになる。
きみ:その「科学革命」の中身は?
彼:その時期、ヨーロッパ世界を支配していたギリシャ、ローマ、イスラムの学問体系が近代的な学問に置き換わっていったんだ。アリストテレス、プトレマイオスの地球中心説が、コペルニクスの太陽中心説に。アリストテレス的な運動理論が、ニュートンの力学に。これらは16世紀半ばから17世紀末にかけて起こった。しかし、バターフィールドはこの時期突然に「科学革命」が起こったわけではないと考えている。準備期間は「暗黒」と言われている中世にあったと主張する。ガリレオの業績のうちのいくつかは、中世で発見されていたと言うんだ。
きみ:中世は「暗黒」ではなかったというんだね。
彼:とりわけバターフィールドは「考えるための帽子」という概念を導入した。中世には、すでにさまざまなデータの蓄積があったとすれば、なぜその時代に「科学革命」が起こらなかったのか。それは、同じデータを前にしたとき、それをどのように考え、理解するか、解釈するかという「考えるための準拠枠」の転換がなかったからだというんだ。我々の認識はデータの蓄積とともに自動的に生まれるわけではない。我々主体の側に「解釈系」とでもいうべきものがある。解釈系が違えば、同じデータを前にしても異なった認識結果を生むんだ。これは、客観的ということを標榜している科学においても、認めなければならないことだ。
きみ:唯物論的にはそういう主観主義は、認めがたいね。
彼:そうだろうね。だけど、この「科学革命論」は一般に認められるようになり、西洋史の教科書にものるようになった。歴史研究の中で市民権を得ている考え方だと言えるだろう。しかし、私はこの考え方に根本的な欠陥があると思う。
きみ:どういうこと?
彼:第1に、「科学革命」によって生まれたものは「科学」なのかという問題だ。コペルニクスを例に取ろう。彼は、プトレマイオスの地球中心説に対して太陽中心説を唱えた。しかし、これは我々のいう意味での科学的な考えとは言えない。宗教的な体型の中の一部として理解しているからだ。
きみ:宗教的とは?
彼:創造主たる神の計画を、神の似像である人間がどう理解するのかという枠組みをはずしてしまうと「コペルニクスの太陽中心説」ではなくなるということだ。
きみ:神は太陽を中心とし、その周りを地球が回転するようにつくった。コペルニクスはそういっているのだから、今の我々が指す科学とは違うものだということだね。
彼:そうだ。そういう意味ではガリレオもケプラーも、ニュートンも、デカルトもそうだ。
きみ:彼らも、自然を知るということは、神の計画を知ることだと思っていたわけだね。
彼:だから、「科学革命」の時代に、伝統的な理論体系に置き換わって新しく提案された理論を、安易に「近代科学」と呼んでしまうことは誤りだ。では、彼らの理論体系からキリスト教的な部分を捨ててしまったら、残りは「科学」になるだろうか。答えは否だ。
きみ:なぜ?
彼:たとえば、コペルニクスは一種のアニミズムを持っていた。太陽は男性であり、地球は女性だった。男性たる太陽は宇宙の中心に位置し、熱や光を放つ。女性である地球はそれを受け止め、年に1回妊娠させられるという考えが太陽中心説の本質的な部分だ。また、ケプラーは占星術者だった。彼の天文学はライバルの占星術者より、自分を有利にしようという意図から出たものだ。
きみ:なるほど。キリスト教を切り捨てても、彼らの考えは「科学」とは相容れないものだね。
彼:そうすると、コペルニクスやケプラー、ガリレオ、デカルト、ニュートンたちを表舞台に出して光を当てる歴史観は正当なものかどうかという疑問が出てくる。ルネッサンス後期には、スコラ学に飽きたらず、新しい知識の可能性を模索していた人がたくさんいた。ブルーノ、パラケルスス、ジョン・ディー、ヨーハン・アンドレー、彼らもそうした模索者だった。しかし、そういう名前はよく知られていない。現代の我々の科学の目から見て、正しいと思われる部分が少ないからだ。
きみ:彼らもコペルニクスと同じように、新たな知識体系を探していた。だから、彼らはコペルニクスの同僚であり、その時代では両者に差がなかったというわけ?
彼:その通りだ。差をつけたのは、後生の人たちだ。後知恵で二つに分け、一方のみを評価する歴史観は正しくはないだろう。

8.ホイッグ史観の超克はなにをもたらすか
彼:現代の立場からみて正しいと思われるものを歴史の中に見いだし、その発展を跡付ける。そういう歴史観をホイッグ史観という。「科学革命論」はそこから脱し切れていない。
きみ:ルネッサンス期の「科学的」なものだけに光を当てているということだね。
彼:こうした見方から歴史を救済しようとする試みに刺激を与えたのは、文化人類学ではないかと思う。それは方法論としては「文脈主義」という特徴を持っている。語の意味は、語に預けられた何ものかではなく、その語をどう使うかというその使用に表れるのだ。
きみ:どういうこと?
彼:つまり、一つの行為の持つ意味や価値は、その行為が行われる文化的文脈によって決まるということだ。たとえば、殺人という行為も、戦争という文脈の中で起こったものなのか、日常的な生活の中で起こったものなのかによって意味や評価が変わってしまうということだ。
きみ:なるほど。行為そのものより、それが行われている背景がその意味を規定しているというわけか。
彼:これは異文化を理解するときに、重要なことだ。個々の行為を理解しようとするとき、それを観察者の文化的文脈に置いてはいけないのだ。
きみ:その行為の意味は、その文化の文脈の中で考えなければならないということか。
彼:同じことが、歴史を見るときにもいえるのではないだろうか。ヨーロッパ人が17世紀ヨーロッパ文化を理解しようとするときは全くの「異文化」として、それを見る姿勢がなければいけない。
きみ:しかし、日本人が江戸時代を見るときは、パプアニューギニアの文化に接するのと同じように、それを「異文化」と見なすことは容易ではないよね。
彼:でも、ごく近い過去であっても、そこで起こった出来事を現代の文脈に引き寄せて理解することはできない。それは、過去の理解ではなく、過去の現代的理解(現代的誤解)に他ならない。クーンのパラダイム論はこのような文化人類学的な視点を、科学史に持ち込もうとしたものだ。あるパラダイムの中の知識は、別のパラダイムでは違う意味や価値を持つと彼は言う。
きみ:どういうこと?
彼:いわゆる「コペルニクス革命」にしても、コペルニクスが手にしていた事実とプトレマイオスが持っていた事実は、量的にはほとんど差がなかったんだ。コペルニクスは、その事実を取り込む文脈を変えたのだ。これは殺人が戦争の中で起こったものか、日常生活の中で起こったものかによって評価が違うのと似ている。天体の運動についての同一の観察事実が、コペルニクスの太陽中心説という新しい体系の中で、違う意味や価値を与えられたのだ。
きみ:なるほど。
彼:このように、コペルニクスの地動説を我々の「科学的」地動説と同じものと見ることはやめるべきだ。同時に、地動説に賛成しなかった天文学者を愚か、幼稚、非科学的と断罪せず、17世紀の文脈の中で彼らを理解すべきだろう。しかし、このようなやり方には難点がある。
きみ:どんな難点?
彼:コペルニクスのパラダイムと現代の科学のパラダイムは違う。しかし、この二つが違うものだという判断は、いったいどんなパラダイムからくるのであろう。違うという判断は何らかのパラダイム、世界観、価値観の中に取り込んで言い立てているはずだ。

9.弁証法のアンビヴァレンツ
彼:太宰治の小説を英訳したときの話だ。和服に白足袋をはいている中年の男性、という描写がある。これをあるアメリカ人が"white gloves"を着けている、と訳した。日本で白足袋をはいていると言えば、過度にわたる潔癖感とか、強い自意識、スクエアな美学などを暗に示している。しかし、アメリカやイギリスではそれを表す言葉は"white socks"ではない。そこで、白い手袋と訳したのだろう。
きみ:西欧で"white socks"をはいていると言えば、「若く青臭く学生風」とか、「カジュアル」な感じを表すからね。"white gloves"を着けているというのは名訳だね。
彼:しかし問題はもう一つ先にある。この英訳を読んだ英語圏の人たちは、太宰の描く現象を理解する。しかし、日本の文化、その中での「白足袋」の意味や価値は、この翻訳では伝わらないだろう。
きみ:なるほど。「白足袋」をはいた人物の性格は「白い手袋」を着けた、と訳すことによって伝わるかもしれない。しかし、白足袋をはくということが潔癖性とか、強い自意識を持つことを表すという日本の文化は伝わらないね。かと言って"white socks"としたら、てんで意味が違っちゃう。結局、翻訳という作業は成り立たないと言えるの?
彼:翻訳という作業は、他の文化の意味空間を、自分たちの空間に持ち込もうとする作業だ。翻訳が完全であればあるほど、それは達成され難くなると言える。翻訳されたものが全く違和感なく他の文化圏に受け入れられたとしたら、それは異文化でも、異言語でもなくなるから。これと同じことは、異文化に接したとき、あるいは自国の過去の歴史に接したときでも、つきまとうはずだ。
きみ:つまり、異文化は理解できない、自国の歴史でさえも過去は理解できないと言うこと?
彼:「共約不可能性」だね。人間は自分が置かれている文化的文脈の中で、ものを考える。ここで、文脈をパラダイムと言い換えてもよいだろう。異なるパラダイムを持つ外国の文化や、過去の時代は共約不能だ。
きみ:それじゃあ、人間一人一人が違うパラダイムを持って考えているとしたら、他人を理解することも不可能になるね。
彼:理論的にはそうだ。しかし、個人間に理解が成り立っていると感じることもある。異文化に接したとき、自分が自分の文化に依存していることを意識しながら、相手の文化を理解したと感じることもある。つまり、二つのパラダイムの間を自由に行き来していると感じることがあるんだ。
きみ:そう感じるだけであって、論理的に言えば、本当に相手を理解したり、異文化を理解するということは、できないのでは?
彼:矛盾のない、首尾一貫した論理で言えばそうなる。ところで、ここまで来てみれば、我々はおなじみの哲学の問題の一つと向き合っていることがわかるだろう。多くの論者がこのことを問題にしてきたんだ。解決策の一つは、人間として普遍的な「地平」とでも呼べるものを、どこかに保証することだ。しかし、この議論は、どこにもそういう特権性を認めないというところから始まった。私は思うんだ。論理的でなくても、自分の中にいながらも、動いていって相手を理解したり、異文化を理解できる機能があると保証するだけでよいのではないかと。

第W部 一つの解としての寛容
10.寛容の徳
彼:「寛容」という言葉が最も印象的な形で用いられたのは、J・ロックの著作『寛容についての書簡』だった。これは1689年に発表されたものだ。いうまでもなくロックが「寛容」を主張したのは、宗教的な文脈においてである。この時期のヨーロッパでは、自由思想家と呼ばれる新しい知識層が台頭してきて、キリスト教は知識の世界の上に君臨する力を失いつつあった。
きみ:自由思想家は、キリスト教を否定したわけではないだろう。
彼:否定したわけではない。ただ、人間の理性のはたらきで理解しうる限りにおいて、信仰を容認するという姿勢をとったんだ。神秘的な啓示や、理性が容認できない奇跡などを認めることなく、しかもキリスト教の信仰を残そうというのが、自由思想家たちの見解だった。こういう主張はまず、スコラ的な神学への先祖帰りという趣を持っていた。
きみ:スコラ的とは?
彼:アリストテレス的自然学を、キリスト教的な信仰とつなぎ合わせて作り上げられたものだ。つまり、この自然は神が作ったものであると考え、その神の計画を説明する体系がアリストテレスの自然解釈だ、ととらえたのだ。自然は神の計画と意志が刻み込まれた書物として理解すべきものだと考えていた。そういう考え方は、今でも西欧に残っている。自由思想家たちは、こうしたスコラ学から、神学的な解釈をはぎ取った自然観を持っていたと言える。
きみ:なぜそういう思想家たちが出てきたの?
彼:当時、つまりルネッサンスの思想界の課題は、スコラ的な自然観から「もう一つの」自然観を提案することだった。これは、ピコ・デラ・ミランドラやパラケルスス、F・ベーコン、R・フラッド、ケプラー、ガリレオ、ニュートンに至るまで共有されていた問題意識だと言える。「もう一つ」の自然観を探り当てるための指導原理として働いたのは、象徴主義だった。自然に接するにあたって、物事を額面どおりに受け取るのではなく、「額面」の背後にある別の意味を読みとる必要があるという立場だ。このような自然へのアプローチは、アリストテレス主義にも、したがって正統スコラ学にも希薄なものだった。しかし、「額面」の背後を読みとろうとすると、一種神秘的な「解読術」に陥ることがあった。一見関係のないものどうしをつなぎ合わせることが、要求されたりしたからね。そうなると魔術に信憑性を与える考え方や、アニミズムに近い考えも生まれてきた。
きみ:自由思想家たちは、そうした精神から抜け出そうとして、スコラ学へ先祖帰りしたわけか。
彼:そうだ。ただ、神学が自然観の上をおおっているようなスコラ学にもどったわけではない。神学体系がはぎ取られ、自然観自体がむき出しになった状態に戻ったとでもいうべきだろう。この点に関して、少し時代は下るが百科全書派のディドロとダランベールの学問分類に触れたい。彼らは最上位に悟性を置いた。それは下に記憶、理性、想像を抱える。理性は哲学を司り、哲学はその下に神の学、人間の学、自然の学を抱えている。神の学は自然神学、啓示神学、占いの術に分かれ、人間の学は心の学、理論学、道徳学に分かれ、自然の学はものの形而上学、数学、物理の学に分かれる。つまり、神学は悟性の下、理性の下、さらに哲学のひとつと見なされているんだ。
きみ:それまで、神学は知識活動のすべてを取り仕切る包括的な地位だと思われていたのだが、そこから引きずり下ろされたんだね。そして、単なる知識活動の一分野という地位に追いやられたわけだ。
彼:こうして自由思想家たちは、キリスト教を人間理性の下に置いた。そして、理性で理解できる範囲でのみ信仰を認めた。さらに、自然の中に見い出される合理的な秩序の範囲に限定して、神のはたらきを容認しようという態度を明確にした。こういう考え方の向かう方向は二つあったと思われる。その一つは、宗教、信仰、神の否定。つまり無神論だ。実際、次の世代の啓蒙主義者のかなりの部分は無神論を標榜していた。前述のディドロもそうだ。もう一つの方向は、理性のもとでの宗教を認めつつ、そこに唯一・絶対のオーソドクシーを認めないという立場だった。そのきっかけのひとつは、ベイルの「悪徳のキリスト教徒と有徳の無神論者」という概念に含まれている。
きみ:どういうこと?
彼:この世で最上の宗教、つまりキリスト教でさえ、人々の腐敗と堕落は防げない。しかし、無神論者の中にも極めて高い徳を示す人々がいるという認識だ。ヨーロッパは大航海時代に入って、多くの非キリスト教社会を知るようになった。例えば日本に来たザビエルたちは、一様に、日本は非キリスト教社会でありながら、倫理・道徳に置いて尊敬すべき高みにあることに、一種の驚きを持っているんだ。
きみ:キリスト教だけが、人間に徳を与えるという考えは、ヨーロッパ人の傲慢だと思うね。
彼:われわれから見ればそうだ。しかし、当時のヨーロッパにおいて、それはひとつの衝撃だったんだ。キリスト教を唯一・絶対とする考え方が、支配的だったからね。このことは、宗教からの道徳の解放を意味した。先に触れたダランベールの学問分類では、道徳は哲学の下に、神の学と併存している。つまり、人間の行為を律するものは宗教的な命令や戒律ではなく、人間の理性だとされたんだ。このように啓蒙期では、哲学が神学の傘の下から独立しただけでなく、むしろ哲学が神学を傘下におさめ、人間の学の中に神を閉じこめるという挙に出たと言えるだろう。今まで述べてきた「キリスト教の唯一・絶対性」とか「オーソドクシー」という言葉を「近代主義」や「科学主義」あるいは「開発主義」などに置き換えれば、現代性というものが見えてくると私は思うね。

11.多元主義と寛容
彼:ダランベールの学問分類に触れたね。そこでは人間の悟性が、至高の地位にあった。しかし、その構造はそれまでの聖的構造を保持していた。一番上に座っていた神に、人間の理性が取って代わった構造だから。私はこれを聖俗革命と呼ぶ。この革命の前後において変わらないものは、すべてのものに先立つ至高の何かを認めるという点だ。
きみ:何か絶対的な物を、最も高いところに置くという考え方は変わらなかったわけだ。
彼:人間の知的活動は、そういう絶対性、確実性にたどり着かなければならないし、いつかたどり着くことが可能だという信念は、西欧が抱き続けてきたものだ。すでにギリシャにおいても、始原物質として水、空気、火などが考えられた。そして、キリスト教神学が確立されたあとは、この傾向は揺るぎのない伝統となった。世界を支配する普遍的な原理は、世界を超越する神を前提とするだけで、論理的に導き出せたからね。また、懐疑主義も西欧思想の柱のひとつだが、絶対性や確実性を疑うというより、絶対性や確実性に到達するために議論を磨く研磨剤としてはたらいていたと言えるだろう。
きみ:ニヒリズムも普遍性や絶対性に対する否定的な継起を含んでいたよね。
彼:しかしこれも結局は、懐疑主義と同じだった。例えばヒュームに目を向けよう。彼は『道徳原理研究』(1751)の付録に、興味深い話を載せている。ある国の重要人物が、自分の子どもを殺し、妹を妻にし、親友を殺害し、同性愛にふけり、最後に首をつって自殺する。その国の人は、何と高潔な人物かと尊敬したという話だ。
きみ:ヒュームは何を言いたかったわけ?
彼:きわめて不道徳と考えられた同性愛も、他人への愛という道徳本来の基本的な原理が、少し変わって現れたものであり、人間は愛を実践しなければならないという絶対的原理を否定したわけではない、と言いたかったわけだ。
きみ:子どもを殺したのは?
彼:その子の持っている今後の人生の過酷さを思えば、今殺しておく方がその子にとって善であるという判断があった。これも、人間が善を望むべきであるという絶対的な原理を否定されたわけではない。ヒュームはこの話によって、完全な道徳的相対主義は成り立たないと主張しているんだ。
きみ:人間は愛を実践すべきだとか、善を望むべきだということは、どんな状況でも道徳的に絶対正しいものだと主張しているわけだね。
彼:しかし、そのような解釈をとると、例の文化どうしの共約不可能性は成り立たないことになる。もちろん、別の考え方もできないわけではない。絶対的な善悪へ道徳的倫理的な価値判断がすべて還元できるという立場だけが、論理的に可能なわけではないんだ。我が子殺しすべてが、ヒュームの言うような愛に還元されるわけではないからね。ある行為が善と定められたり悪と定められたりするのは、その行為の行われた状況によるのであって、行為それ自体の価値が超越的な基準から演繹されるんじゃないんだ。
きみ:絶対的、普遍的と考えている価値は、実はその人が属する共同体の中での価値判断だと言いたいわけだろう。
彼:しかし、単に善悪の判断が一見同一の行動に対しても、状況に応じて変わることがあるというだけであれば、絶対主義的な立場で議論することも可能だ。相対主義が主張し、多元主義が言う内容は、状況によって善悪の判断がゆれ動くということではなく、一見同じ行為に見えるものが状況に応じて「同じ」でなくなるということだ。
きみ:どういうこと?
彼:例えば、ギルバート・ハーマンの『哲学的倫理学序説』には、「道徳的推論は存在するが、美学的推論というものがあるとはいえない」と書いてある。ある人がある行為を悪であると言ったとしたら、その人に、なぜ悪なのかと尋ねることことができる。その時「別に理由はない、ただそう感じただけだ」と答えたのでは、会話にならない。しかし、美学的な推論は存在しない、と言うのだ。
きみ:どこがどう美しいのかと質問されても、困るということか。
彼:しかし日本では「美しい」という概念が、倫理的な文脈でも使われるだろう。「その行為は美しい」などと言うから。
きみ:確かにそうだね。
彼:その時、その行為がなぜ美しいのかという問いは、十分成立する。逆に、日本社会では倫理的判断と考えられるものに対して「ただそう感じただけ」という理由付けが成り立つこともある。このように、倫理学と美学の区別が明確でない日本と、その区別がはっきりしている西欧では、ひとつの行為自体の性格が変わってしまい、それに対する価値判断にも大きな違いを生じていることを認めないわけにはいかない。
きみ:そうすると、共約不可能性という問題がまた出てくるね。
彼:そうだ。Aという行為がaという状況で起こった場合と、bという状況で起こった場合とでは、「同じ」ではない。aではAがどうであるか、bではどうであるかという比較さえできないはずだ。しかし人間は、このような比較を常に行っている。人間には、ふたつの価値体系を行き来できる能力があるんだ。ひとつの行為が、ある状況と別の状況では、別様に判断され評価されることを知り、主体として行動できるということは、人間にそういう機能が備わっているということだ。その結果として現れるものが「寛容」という徳として理解できるものではないだろうか。
きみ:と言うと?
彼:第一にここでいう「寛容」とは、倫理的・道徳的な価値ではない。むしろ、道徳的・倫理的な価値を論じるための機会を提供するものとして、登場している。われわれには、いろいろな価値体系を往復できるというダイナミズムが備わっている。しかし、西欧では、黒白を争い、どちらかに決めることが問題を解決することだという考え方が支配してきた。あるいは黒白の間に弁証法的な対話が成り立つときは「新たなる一」に到達することが、ダイナミズムが成功したと思われてきた。しかし、前に触れたロックやヴォルテールらの「寛容」は、宗教的価値の多様性を認め、黒白を決めることも断念し、「新たなる一」を生成させることも、あきらめたものだ。
きみ:要するに、どの価値体系が正しいのかという争いは止め、すべての異なる価値体系をそのまま認めようという「寛容」だね。
彼:むろんそれは、やむを得ずたどり着いた、苦し紛れの策だったのかも知れない。しかしそこでは、まさしく私が多元主義の成立与件として主張しているようなダイナミズムが凝縮し、ダイナミズムの止むに止まれぬ表現として「寛容」が表明されていた。
きみ:多元主義の人は絶対主義の人をどう見る?
彼:絶対主義も「一つの立場」として容認する。もちろん絶対主義者は、複数の中の「一つの立場」と見なされることを、容認することはないだろう。彼らは複数の立場の中で、自分の「絶対」のみが勝利を収め、それが普遍的に受け入れられることを要求するから。そうすると、絶対主義と多元主義の争いが、一見奇妙な様相を呈することになる。一方は他方を認めた上で議論するのだが、他方は逆だからね。それから、このすれ違いは現実的な問題解決にも影響を及ぼすことがある。
きみ:例えば?
彼:医学界で、T教授が「漢方薬は効かない」という趣旨の書物を刊行された。彼は、漢方薬が無効であることを証明するために、二重盲検法を採用し、投与量の限定、投与時間の規定などを使って実験されていた。つまり、彼の実験での病気の概念や検査法は、完全に西欧医学のパラダイム内のものだったんだ。漢方薬は投与後何時間に血中濃度がどうなるか、というような意識で投与されるものではないんだよ。もともと、西欧的な意味での病気の同定法もないから、ひとつひとつの病気を治すために投薬するという目的も、漢方薬にはないんだ。これは、AとBというふたつの体系の黒白を決めるために、Aの価値判断を一方的にBにまで応用してしまうという場面と似ている。Aは普遍的だから、自分とは異なる対象も取り込んで価値判断してかまわないという自負の現れだろう。しかし、方法論としては、論点先取り的だね。

12.一つの応用としての寛容
彼:仮に全世界が、西欧近代文明の主張するように近代化したら、資源・エネルギー、その他で、近代文明が崩壊することにつながる。今、われわれは資源やエネルギーに限りがあることや、文明化活動による廃棄物を自然が処理する能力に限界があることを知り始めた。文明というものが、自分の文化を他の文化にも強制しようという意志を持ち、実際に実行するものであれば、ふたつの意味で自殺的だ。一つには、他の文化を押しつぶそうとすれば、その文化の独自性をかえって強めてしまうからだ。文化は、相手の文化が自分を潰しにかかったとき、自分の独自性に目覚め、自己主張するようになるからだ。第2に、文化が文明としてはたらき、他の諸文化をある程度均してしまった後、文明の成熟とともに作り出す所産は退屈でつまらないものとなり、普遍的な支配力を失ってしまうからだ。現在の世界の状況も、この文脈で見ることができる。
きみ:現代はどう見える?
彼:政治的に見れば、世界はふたつの「文明」に支配されていた。個別の文化は二つの文明のブルドーザ効果との力学的関係の中から、自己の存立を改めて自覚し、まずは東欧圏の崩壊と諸国の自立運動が起こった。資本主義の中にも同様の現象が見られる。旧ソ連の崩壊もあって、ただ一つの文明への収斂が進行中だ。言いかえれば、自由市場メカニズムを土台にした貨幣経済構造の中に、世界中の国々が巻き込まれ、そのブルドーザ効果の影響下に組み込まれつつあるということだ。そうした中で、国々は否応なく、自分自身の特殊性を自覚させられる。その一方で、文明の側からはその特殊性を乗り越えることを要求されている。ウルグアイ・ラウンドやガットなどでの「解放」の要求がそれだ。
きみ:日本は経済力はあるけれど、「文明」としてブルドーザ効果を発揮しているとは思えないが・・・。
彼:「日本文化」とは言うけれど「日本文明」とは言わないね。日本の文化は、自らを普遍と信じて、まわりの諸国にそれを普遍化する意志がなかったと言える。第二次大戦中に大東亜共栄圏という名のものとに侵略行為に走ったことが、唯一の例外だ。日本文化は、文明になるだけの資格と強さを持っていないと言える。かつて、タイで日本製品の不買運動が起こったとき、ある学生がこう言った。「欧米の連中も自国の製品を押しつけるが、やり方は不親切だ。買え、買えない?じゃあしようがない。そこまでだ。しかし、日本の連中は親切だ。購買力が不足している?それじゃあ、長期の割賦でいいです。それでもだめ?じゃあ、工場を建てましょう。そこで働いたら、買えるようになるでしょう。こうして日本製品を買わされ、われわれの伝統的な生活がひとつひとつこわされるんだ。」これは日本文化の弱さと、自信のなさの現れだ。
きみ:弱く自信がなかったから、かえって日本製品が拡大し、諸国から反感をかったと言えるね。
彼:日本は製品を輸出しても、文化を輸出しようという力がなかったと言えるね。西欧のように、自分たちの価値意識や行動様式を押しつける傲慢さがなかったと言える。それはそれでよかったと思うけどね。話を西欧近代文明に戻すけど、この崩壊を防ぐ道は、相対主義ないしは多元主義による他はないと思うんだよ。文明が一つの文化的価値だけを普遍として主張に、拡大しようとすれば、それ以外の文化も文明化し、それぞれが普遍を主張して争うことになる。それは解決の道ではない。ひとつひとつの文化が普遍を信じることに寛容になりつつ、それらの普遍が限られた概念であり、相互に等しい価値を持つという多元主義の姿勢が必要だろう。
きみ:西欧近代文明だけが、唯一絶対ではないということだね。
彼:ただ、今の状況はもう少し複雑だ。西欧文明がブルドーザのように、他の地域を標準化しようとしているとき、それに対する文化の多元主義が激化すると同時に、ブルドーザ効果を期待し、それに巻き込まれようとする傾向もある。
きみ:西欧人のような生活をしたいという期待だね。
彼:さらに、ブルドーザ効果を発揮する側にも分裂が起こっている。その文明を普遍化しようとすれば、エネルギー、資源、環境問題が起こり、普遍化の限界に気づきはじめたのだ。
きみ:普遍化をめざした西欧近代文明は、自らの限界が見えてきたから、今までどおりの文明化を続けるわけには行かなくなった。だから、これから文明化しようとしているところには待ってもらうか、別の道を探して欲しいと言っている。一方、文明化に対抗する側は、対抗の力は示しながらも、これまではブルドーザ効果を発揮してきておいて、今さら待てとか、別の道をさがせというのは虫が良すぎると言っているようなものだね。
彼:こうした硬直状態の対する処方箋は「唯一解を求めない」という方法であり、"less conflictual solutions"(摩擦を最小にするような解)を求める、ということだと思う。われわれは、絶対的な地平に立つこと、それを望むことを否定することからはじまった。普遍主義と多元主義が二価指向的に硬直化している状況にあって、すべての価値を考慮した判断や、あらゆる要求を前提とした判断は不可能だ。われわれはそれら特定の価値のひとつひとつから後退し、いくつかの価値の間を動きながら、相互により摩擦の少ないと思われる解を暫定的に採用する他はない。このような場所で考慮される寛容は、謙遜にもつながる。人間があらゆる条件を考慮に入れた上での「最上の」解決を求めることなどできない、ということの容認でもあるから。人間が神の代わりをすることが西欧近代文化の願望であるならば、その願望を根底から放棄することだから。


00A−154
差出人:山本 喜一
送信日:00年12月31日
件 名:白金と王水の反応について

 岡田さんからの質問についてですが、いろいろな本を見ても「白金は王水に溶ける」という記述しかないですね。とすると、白金箔は白金ではない・・・?つまり純粋な白金ではなく、合金なのかも知れないと考えました。四ヶ浦さんが売っている(?)金箔も、純金ではありませんよね。
 ニッケルや鉄は王水に入れると、不動態を作って溶けません。化学大辞典の「白金合金」には、白金にRh、Ir、Ru、Pd、Au、Ni、Wなどを添加していろいろな性質の白金合金を作っていると書いてあります。これらの金属が王水の中で、不動態の被膜を作ることは考えられないでしょうか。


00A−155
差出人:杉山 剛英
送信日:00年12月31日
件 名:白金と王水について

杉山剛英です。
 私も濃硝酸と食塩で金箔を溶かす実験はよくやっていますが白金箔はやったことがありません。ブルーバックスの元素111の新知識によると、イリジウムはすべての金属の中で最も耐腐食性が強く熱王水にすらなかなか溶けないと書いてありました。金はハロゲンとは簡単に反応する様ですが、白金は赤熱状態で塩素と反応するとも書いてありました。私も、イオン化列だけしか考えていませんでしたが、耐腐食性ということから考えるとAu>Pt>Irという順番なのかもしれません。熱王水でじわじわと溶けるのでしょうか。東書の図解には王水に溶けつつある白金の写真が載っていましたが。


00A−156


00A−157
差出人:中臺 文夫
送信日:01年1月1日
件 名:21世紀 明けましておめでとうございます

明けまして、おめでとうございます。中台です。
 とうとう21世紀です。「21世紀になると・・・」と鉄腕アトムで育った私としては大変に感慨の深い物があります。
 土曜にNHKでやっていた番組で「21世紀日本のとる道は食糧の自給率を上げることだ」と言っていました。人口爆発、環境の破壊、食糧難・・・暗いことばかりが目につきますが、21世紀、明るい気持ちで前向きに頑張りましょう。
 何はともあれ、今年も、そして今世紀も宜しくお願いを致します。


00A−158
差出人:野中 直彦
送信日:01年1月1日
件 名:あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
 21世紀とはいえ、その言葉をかみしめるような正月ではなく、私自身は、新たなる正月をむかえました。家族というものを感じながら過ごしていきたいと考えています。今年は、あけたすぐの夜中に神社にお参りにいく、お払いをしてもらいました。
 今後とも、よろしくお願い申し上げます。


00A−159
差出人:林 正幸
送信日:01年1月3日
件 名:基礎基本をめぐって

おめでとう、林(まさ)です。
 一宮は寒い正月になっていますが、皆さんはいかが新年をお迎えですか。次男夫婦、姪夫婦と子ども、長男と、いつもの3倍の賑やかな、従って食べることに追われる正月でした。幸い長男も結婚の目途が付いたようです。
 昨年暮れの館山での安房科学塾は実り多いものでした。私は「物質とエネルギー」をレポートして、エネルギーを使い過ぎて温度が高くなる問題に触れるべきであるという。貴重な批判をもらいました。私はエントロピーという用語は使わずに、その内容を伝えようと考えていますが、それにも適った指摘です。
 行きの新幹線で、アルケ通信1号にある盛口さんの資料「いま基礎基本を」を読みました。これは出前教研(今年は仙台の予定)のテーマといことで、安房塾ではとくにそのための時間はありませんでした。しかし私としてはいくつか書いてみようと思います。
<資料p2からの引用1>
わたし達とわたし達の子孫がこの地球上で安全に「生きる」という観点からみれば原子分子を知ることより「不用意に未知物質を合成し、ばらまくことは危険だ」ということを知る方が、よっぽど基礎基本となる知識ではなかろうか。そしてそういうことを日常的に気付かせるような配慮をすることこそ「教育としての基礎基本」になると考える。しかしそれを補強するものとして原子論に立つ近代化学の素養が必要になってくる、ということが本当ではなかろうか。
<以上>
 盛口さんは前段で基礎基本は次の4つの段階(階層)に整理して考えるべきと書いています。
    教科(物・化・生・地)の基礎基本
    理科としての基礎基本
    教育としての着磯基本
    生きる上での基礎基本
 一方で、21世紀を生きる上での基礎基本として、生活、生産、環境、平和などの側から要請があります。私が30年前にセロハン公害に取り組み住民学習会を開いていたとき、教科書の内容より「臭いのは硫化水素である。しかし臭くない二硫化炭素も下水に流されており、これは神経毒で危険である。」という個別の知識が武器になりました。ところがひとたび工場に乗り込んで交渉を始めると、より総合的な知識や理論を持たないと歯が立たないのです。他方で、やはり学問体系としての基礎基本は存在するし、またそれを学習していく認識体系も存在します。両者を突き合わせる中から、具体的な教科あるいは理科としての基礎基本が浮かび上がってくるように思います。
<資料p3からの引用2>
ときには小学校においてさえ原子概念が導入できる、という主張がなされ実践が報告されてくる。実践を見るかぎり、こどもたちは嬉々として学習に取り組み、また新しい現象を解明しているように見える。それは「原子論こそ科学」という自身を持たせるものである。しかし、正直なところ私としては「早すぎる論理」の導入はこどもたちを狭い固定観念に誘い込む罠になるという危惧を感じないわけにはいかない。
<以上>
<資料p4からの引用3>
高校の教科書に戻ろう。せっかく原子認識の歴史をたどり、ドルトン原子に取りついても、その「ドルトン的世界」が次のページでは脆くも瓦解する。全ての基礎であり壊していけないはずの原子に内部構造があるというのである。近代化学の基本があっさり壊れ、何の断りもなく現代化学が結果だけを引っ提げて登場する。近代科学と現代科学では世界を支配している法則ががらりとかわり、整合性を保っていた近代科学的世界に綻びが入るという重大局面である。しかし、そのことは片言隻語も触れられていない。論理的でない日本のこともは教科書を金科玉条にして飲み込んでしまう。もっとも飲み込まなければ大学入学おぼつかない。幸い大学に入学してもこの矛盾に気が付かないまま、それぞれの専門家に育ってしまう。これが果たして科学であろうか。
<以上>
 学習や認識は本来発展的なものであると思います。ところが多くの教師は意識するしないにかかわらず、受験問題やテストの問題を解けるようになるための「まとめ」ないし「公理系」を準備します。それを例題に取り組ませながら生徒に教え込みます。それは網羅的であり、後から新しいことを追加することは教師の権威に関わります。ドグマ主義的でそこにある論理を徹底するように訓練します・・・。これが果たして科学教育であろうか。こうして教師自身がそれを科学の知識や理論と思い込みます。これで果たして若者が真実とは何かをつかむことができるだろうか。
 ひとつの事実(実験)があり、そこからひとつの自然認識が生まれます。もうひとつの事実があり、そこからもうひとつのより深いあるいはより広いそして前の認識を一部修正する自然認識が生まれます。このくり返しが科学教育の基礎基本であると思います。ときに理論体系を教え込むこともあります。しかしそれで完璧と誤解させることがあってはいけません。授業では毎回に、新しい事実(実験)があり、そして新しい世界が展開されることが望まれます(もちろん復習も必要ですが)。
 私は原子論を小学生に教えて構わないと思いますが、上の前提を忘れてはなりません。知的発達のレベルを考えれは、素朴なイメージに留めておくのが賢明ではないでしょうか。
<資料p8からの引用4>
あれも必要、これも必要、といわゆる基礎基本を総花的に学ばせる現在の学習は、たとえてみればすべての破壊力を一点に集中させる中飛車のようなもので、駒の配置が終わってみたら将棋に負けていたといったもの。あるいはサイクリングにゆくには自転車の知識がなければならないからといって分解点検しているうちにサイクリングに出かける暇のなくなったようなもの。多少不備でもサイクリングにまず出かけよう。途中不備が見つかったらその時あわてて補充すればよい。学習の基礎基本とはまず目標を定めて学習の旅に出かけること。教科の基礎基本は不備に出会ってあわてて補充するものだと思っている。
<以上>
 こうして教科の基礎基本とは極めて発展的構成的にとらえるべきものです。盛口さんは言います、「ひとりひとり基礎基本は違う。」 まさに目標に向かって進む途中であわてて補充するものでしょう。もちろん多くのものごとに共通している基礎基本もあるでしょう。しかし学習があらゆる分野の基礎基本で埋め尽くされたらどうでしょう。生徒は言います。「私たちはいったい何のために勉強するのだろうか。」それぞれの生徒にゆとりを持たせ関心を育て、自ら学び始められるように手助けするのが、教育としての基礎基本と心得ます。
 蛇足ながら、安房塾の帰りの29日は東京駅で帰省ラッシュに遭遇。岡田(晴)さんと、思い切ってグリーン車に乗ることにしました。私はうとうと、彼はビールを飲んでいました。
 ではまた。


00A−160
差出人:林 正幸
送信日:01年1月5日
件 名:「部活動と私」

こんばんは、林(まさ)です。
 校誌の原稿を書きましたが、皆さんにも面白いのではないかと、送信することにしました。
 ではまた。


    部活動と私
              林 正幸

 高校時代、はじめはテニス部と物化部に二また掛けていたが、やがて後者にのめり込むようになった。物化部とは物理化学部の略である。活動内容は化学、写真、模型、天文などである。写真は写真部と同じで、白黒フィルムで撮影し、現像し、プリントする。模型はエンジン機の製作と飛行である。エンジンは電動ではなくオイル(種類は忘れた)であり、バッテリをつないでプロペラを指で回してかける。機体はワイヤでつながれており、グランドで円形に飛行させ、手元で昇降舵をコントロールして曲芸飛行させる。しばしば地面に激突して分解した。天文は夜間に天体観察する。これは卒業した先輩が同好会をつくっており、一緒に活動していろいろ教えてもらった。
 しかし何といっても私をとりこにしたのは化学だった。化学的現象は日常ではあまり見ることがないので、化学実験はすべてが新鮮そのものだった。実験書を参考にして手当たり次第に自分たちで実験した。今と違って当時は大らかで、生徒が自由に薬品を使うことが許されていた。それどころか、私が忙しい先生に代わってすべての薬品を整理したこともあった。
 とくに印象に残っている実験は、絵入りの鏡づくりと炭酸水素ナトリウムの合成(ソルベー法)などである。前者はパラフィンろうを融解してガラスに刷毛でうすく塗り、絵を下に敷いて鉄筆で輪郭を写しとるようにろうを削る。次にフッ化水素酸を塗って輪郭の部分のガラスを溶かして溝をつくる。このあときれいにろうを落とし、ガラスを洗剤で洗う。次にブドウ糖を使った銀鏡反応で鏡にする。このときガラスの表面に盛り上がるように乗せた銀液を、こぼさないようにすこしだけ傾けて流動させ続けるのがポイントである。続いて絵の部分の銀を取り除くと、輪郭の溝には銀が残る。そして今でいうセル画の要領で色付けをする。最後はペイントを塗って保護してでき上がり。
 後者は教科書にも出てくる化学工業のミニチュア版である。太い50cmほどのガラス管にゴムせんをして反応塔にし、濃アンモニア水に食塩を飽和するまで溶解して注ぐ。これにひたすら二酸化炭素を吹き込み続けるのである。二酸化炭素は石灰岩に塩酸を加えて発生させるのでたいへんである。それが1時間ほどがんばると、生成した炭酸水素ナトリウムが雪のように沈殿してくる。この瞬間はまるで自分もひとかどの技術者になったような感動を覚えた。
 失敗も無いわけではない。一年の始めは反応式を見つけると何でも薬品を混ぜていた。あるとき酸素が発生する反応式があったので、試験管に過マンガン酸カリウムと濃硫酸と35%の過酸化水素を入れた。目に見える変化がなかったのでバーナーで加熱してみた。すると突然爆発した。反応混合物は私の右胸を目掛けて飛んできた。一瞬にして服はとけて無く、露わになった皮膚がちょうど原爆の熱線を浴びたように垂れ下がった。医者に行ったら「おまえは何をしているんだ!」と叱られたが、先生には内緒にしておいた。今から思えば随分無謀なことをしたものだが、私は全然懲りなかった。
 1年の夏休みは部長の指導のもとで、一宮市内130ほどの地点の水質検査に取り組んだ。検査項目は15と本格的だった。当時はまだ井戸があったのでその水をもらいに、自転車にビールびんを積んで炎天下を走った。「水をください」と頼むとジュースを出してくれる家もあった。「結果を知らせてほしい」と期待されることもあった。水温はその場で計るのだが、慣れてくると手の感覚で0.2℃まで正確に分かるようになった。戻ってくると実験室で分析である。毎日朝9時から夕方5時まで勢力的に活動した。
 打ち上げは家庭科からかき氷機を借り出し、氷を買ってきて、蜜は先生の砂糖を無断で借りて作り、ビーカーを容器に食べも食べたり、私は13杯という記録を残した。そのあと裸で学校のプールで泳いだが、当時は本当に元気だったと思う。
 2年のときは防火塗料の研究と称して、障子紙にいろいろな薬品の水溶液を塗り、乾燥してから端に点火して燃焼の様子を調べた。そんな中で炭酸ナトリウムがたばこの紙のようにじわじわ燃えるが決して消えないこと、硫酸アルミニウムが泡を形成して燃焼を妨げることなどを発見した。
 こんな中で私は化学が、物理に比べて理論が貧弱であることを意識するようになった。そして大学に行って化学の理論的研究をしたいと思うようになった。先生からは「おまえは偉い」とおだてられた。子供の頃から父親の発明好きに感心し、中学ではひとりの理科教師に理屈の面白さを触発された私は、こうして化学分野に進路を定めることになった。3年になっても三学期まで部活動を続けたが、それは私にとってたいへん有意義であったと考えている。


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